津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          剣に賭ける

■主現代の日本に伝えられている自顕流

<本文から>
 私はこのような剣法が、現代の日本に伝えられ残っているのを眼の当たりにして驚くばかりであった。
 私は伊藤師範にお願いした。
「このような物凄い稽古とは知りませんでした。ほかの稽古も、ぜひ拝見させて下さい」
 稽古時問は過ぎていたが、つづいて横木掛かり打ちの稽古がはじまる。
 ユスの長さ二メートルほどの細い棒を束にしたものが横たえられ、架台に置かれていた。横木の位置は、地上から一メートルほどである。
 お弟子がたは四、五メートル離れたところに二列に並び、二カ所に置かれた横ポにむかって立つ。
「始め」の号令とともに、先頭のお弟子が飛ぶような内股の足取りで迫ってきて、蟷螂が鎌振りあげたようなトンボの構えから、横木を打ちはじめる。
 両手を高くあげた姿勢から、打ちこむときに前に出した足の臑を地面につける。しかも驚いたことに横木を打つのは木刀の切先から三寸の物打ちどころではなく、鍔もとから一尺ほどの部分である。
 私は、自顕流の打ちこみの威力をはじめて了解した。戊辰戦争の際、幕軍の剣士が薩軍兵士の打ちこみを外そうとして、わが刀の棟と敵の刃を十文字に額にめりこませ死んだという挿話は、つくりごとではなかったのである。
 「チェイ、チェイ、チェイ、チェイ」
 火の出るような打撃をつづけるお弟子がたは、打ちながらかるがると足を踏みかえ、右半身から左半身になり、また右半身になる。
 およそ四、五十度の打撃をかさねると、ひきさがってゆく。私は伊藤師範にお聞きした。
 「足の構えと、打ちかかるときの素早さはとても真似のできるものではありませんが、稽古によほど時間がかかるのでしょうね」
 師範は答える。
 「そうですね。あの高校生で、習いはじめてから九年めです。まともに進退できるようになるまでに、それくらいの年月がかかりますよ」
  つぎは「抜き」である。
 薙刀を持った伊藤師範が相手に立たれ、打ちこんでゆかれるのを、抜き打ちに木刀で斬りあげ、そのまま内懐へつけいる型稽古を見せて下さる。
 「抜き」は両足をそろえ爪先立ち、右手で刀の柄を握るとき肘のつけねまで柄のうえにのせ、そのまままっすぐ頭上を切りあげる要領で抜き打つのである。
 
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■名人の境地

<本文から>
 昔の兵法者は、それほど危険な真剣勝負を幾度もかさねつつ、剣の境地をたかめてきた。斬人をかさね、糞おちつきの度胸を練ったいうだけでは、好運に頼らなければ勝ちつづけることはできない。
 余人にまさる心身の鍛練を昼夜かさねたあげく、非凡の素質にめぐまれた者が、ある日、あるときから突然人為を超越した技をつかえるようになる。
 私は以前、当身の名手といわれる方と対談したが、そのとき名人の境地についてつぎのようにうかがった。
「武芸の名人は、たしかにいます。われわれが絶対に到達できないとしか思えない境地にいるのです。そういう人と戦えば、むかいあったとき、すでに手のうちを読まれ、負けているんです。われわれがコップのなかの水であるとしましょう。名人は鍛練をかさねるうちにしだいに量をふやし、コップの外側へこぼれ落ちた水です。内側と外側では、次元がちがうのです」
 古来の名人といわれる人々は、常人が努力して到達できない場所にいたようである。
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■桜田門外の変では稽古と実戦がまったく違った

<本文から>
 その様子を見はからっていた、佐野、大開、広岡、森山、海後、稲田らが、駕龍脇が手薄になった隙をついて、まっすぐ斬りこんだ。
 飛雪はますますはげしく、風に渦巻き、五、六間さきもさだかに見分けられない有様となった。
 敵味方の姿は日焼のなかにばやけ、志士たちが同士討ちをしないための合言葉が、剣戟のひびきのあいだに、投げかわされる。
「正っ」
「堂っ」
 井伊家の供衆は、左方、先頭、右方と三方向から襲いかかられ、突然の事態に痕狽した。
 眼前で同僚が斬られるのを見て、一時は動転したが、主君直弼の駕籠脇を守る侍たちは、志士たちが雪を蹴立て立ちむかってくると、必死で応戦をした。
 供目付の川西忠左衛門は二刀流の達人として知られていた。
 彼は両刀を構え、斬りこんでくる刀身を左手の脇差で受けとめ、右手の大刀で横なぐりに斬る。
 ただそれだけの技であるが、志士たちは幾人も傷つけられた。
 川西忠左衛門は、ふだんから二刀が待意なので、自然にその構えをとった。彼は逆上していて、ただ主君を護らなければならないという一念だけが、胸中に烈火のように燃えている。
 他の意識は空白といっていい。
 限もあけていられないような降雪のなかを、歯を剥きだした志士たちが、猛獣のように突進し、白刃を捻りをたてて打ちおろしてくる。
 地上にはすでに一尺余の積雪があり、足をとられる敵味方双方の動作は鈍いはずなのだが、死力をふりしばっているので、飛ぶように進退する。
 志士たちはぐずついていては江戸城内から幕府兵隊が、取り押さえに駆けつけてくると思うので、剣の法も忘れはて、怪我をおそれず白刃のまえに身を投げだし、猛牛さながらにひた押しに駕龍に迫ろうとした。
 志士たちは井伊直弼の首級をとらねばならないとの意欲のみを、燃えさからせ、川西忠左衛門らは、主君を何としても討たせてはならないと、敵のまえに鉄壁のように立ちふさがった。
 双方とも、命を捨てての激突であったので、凄まじい斬りあいとなった。刀の棟も刃も、物打ちどころもない。
 いずれも剣術稽古をつみ、道場では練達者として楓爽とした太刀技をみせていた男たちであったのに、日頃の妙技をあらわす余裕はまったくなかった。
 ガチッ、ガチッと力まかせに打ちあうので、刃こぼれというよりも、刃がかけらとなって飛ぶ。
 辺りは斬りおとされた腕が転がり、手指、耳発、毛のついた皮膚が散乱する惨状となった。
 稽古と実戦が、まったく趣きを共にするということを、はじめて知った志士森五六郎が、一挙の後に役人に洩らした述懐がある。
 「拙者の差料は二尺八寸、ずいぶん長く重い造りであったが、実戦のときには刀の重さも分からず、ただ空を斬るようで、張りあいものうござった。ただただ気がはやり、限のまえに立ちふさがる敵を、めった打ちに打つよりほかはなかった。ふだん稽古のときとはちがい、なかなか突きなど入るものではござらぬ」
 森は斬りあいの場では、機転のきいたはたらきを示し、味方が敵と斬りあう横手から斬りつけ、うろたえ騒ぐ敵を追い散らすなどした人物であるが、彼もまた無我夢中の行動であったわけである。
 蓮田市五郎も、後日に記している。
 「刀を抜いてからは、間合もしかと知れずただ無二無三なり。眼はほの暗く、しんは夢中なり。実に試合稽古とは、また格別なり」
 海後磋磯之介も記す。
 「正堂の暗号に味方と弁ずれども、目先ほの暗く、あたかも夜の引き明けのごとし」
 蓮田は一挙ののち膳所本多家に預けられたが、そこで番士たちにつぎのような談話を残している。
 「我輩平素剣法を学ぶも、長時戦闘の際はいざ知らず、今回のごとき単兵急迫の場合は何の役にも立たず。要はただ神速の動作にあるのみ。もし剣法に泥み、受け太刀の際、刀の鍔にて受けとめんか。たちまち敵刃のために手首を傷つけられざるを得ず。その利害は今回の実験に徹して之を知れり」
 これらの述懐によっても分かる通り、ただ刀を左右の袈裟に打ちこみ、眼前の敵を倒そうとする死闘が、井伊直弼の駕寵脇でつづけられた。
 二刀を使い荒れ狂う川西忠左衛門は、周囲の味方が倒され逃げ散ってひとりになると、志士たちの前後左右かられ乱刀を凌ぐすべもなく、ついに倒れ伏した。
 駕龍は雪上に据えられたままである。
 稲田重蔵は深手を負っていたが、満身血に染まった姿で駕寵に走り寄り、血のしたたる大刀を双手突きに刺しいれた。つづいて海後磋磯之介も力まかせの一刀を刺すが、手応えがない。
 井伊直弼は稲田の突きを受け、前にのめっていたのであろう。
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■大勢を相手にする実践では上段の構え

<本文から>
「あいつらは、いままでに大勢で一人を斬る経験をかさねてきているんだ。ふつうなら、同士討ちがおそろしくて、あのように蟻がたかるような攻めかたはできないものだ。味方が刃先を横に振れば、隣りの男は首筋か腕をひっかけられる。そのような危険を承知で、あいつらは身を寄せあい、八方から斬りかかってきた。きっと、あのような修羅場のかけひきに慣れているんだ。道場剣法には暗くても、実地の手管をこころえているにちがいない」
 近藤は夜があければ、彼らと斬りあわねばならなかった。
 できるだけ早く逃げのびないと、大勢に囲まれ退路を断たれる。前日、鉄砲で狙われなかったのが、もっけのさいわいであったが、明朝はそうはゆくまい。暗いうちに囲みを斬りやぶるのだ。
 そのためには、どのような技でのぞめばいいか。近藤は刃こぼれがいくつかでき、剣尖が右へわずかに曲がった大刀の手入れをしつつ、明朝の戦法をあれこれと思案した。
 遠近の野面で一番鶏が夜気をひき裂き噴きはじめた頃、近藤はようやく思いついた。
 大勢の敵から身を守ろうとしては、かえっていけない。
 上段の構えが、いちばんいい。腹の防備をがらあきにした上段からは、敵と打ちあうことなく一撃で刃を打ちこむことができる。
 夜あけがた、刀の目釘を充分に湿し、柄に腕貫をつけた近藤は、決死の覚悟をさだめそとに出た。
 沢をさかのぼってゆくと、しだいに道の両側がひらけてきた。街道のみえる場所までくると、野原にいくつかの人影が起きあがった。
「野郎、きやがったぞ」
「こっちだ、こっちだよう」
 喚声をあげて、やくざどもが駆け寄ってきた。
 近藤は大喝した。
「おのれ蛆虫どもめ、死ぬためにうせおったか」
 彼は大刀を左上段にさしあけるなり、すばやく敵に迫った。
「えいっ」
 打ちこんだ刃は、見事に敵の頭蓋を断ち割り、血しぶきをあげた。
 近藤は瞬間に左上段にもどり、息をいれる間もなく、つぎの敵の肩口に刀を打ちこむ。
 攻めから守りにかわる動きに間隙がなく、集団の戦いに慣れたやくざでさえ、つけいることができない。
 近藤が上段にかまえておれば、彼らは横手から斬りこめなかった。
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■小太刀の技で知られた流派

<本文から>
 戦国期に、小太刀の技をもって他に知られた流派に、富田流がある。
 小太刀とは、刃渡り一尺三寸余の小脇差か一尺五寸の中脇差のことである。太刀にくらべ一尺はみじかいが、片手で構え、肩先をまえに出す偏身になるため、腕の長さが刀身の短さをおぎない、太刀と対等の間合で勝負ができるのである。
 実戦では小太刀が、後年われわれが想像するよりもはるかに重宝されていた。敵と組打ちをするような白兵戦の場では、刃渡りの長い太刀は使いものにならない。小太刀のほうが敏速に使える。
 甲宵のうえから帯に差した太刀を抜くのは、立っているときならやさしいが、敵に馬乗りになっていてはむずかしい。
 小太刀をあやつるとき、あいた片手で敵をつかみ、ひきよせることもできる。刀身の目方が軽いため、打ちこんできた太刀をはずし、敵の手もとにいりこみ、片手で胸もとを絞りあげ、身動きできなくしておいて、小太刀で仕留めるのである。
 富田流の始祖は越前朝倉家の臣、富田九郎右衛門長家である。九郎右衛門は、中条流の伝承者であった。
 中条流は足利将軍義満の治世の頃、神道流とともに天下の兵法を二分した流派であった。流祖中条兵庫頭長秀は、文和三年(一三五四)三河挙母城主として、父の所領三万七千貫を相続した大名である。
 兵庫頭の没年は不明である。流派の伝系は甲斐豊前守から越前斯波家の筆頭家老、大橋勘解由左衛門を経て、富田長家に伝わった。
 長家は中条流にみずからの工夫をくわえ、あらたに富田流を称するにいたった。
 長家の子、治部左衛門貴家のあとを出色の才をそなえた二人の男子が継ぐ。兄は五郎左衛門勢源、弟は治部左衛門景政である。
 富田勢源は若年の頃眼病にかかり、病弱を理由に家督を弟の景政に譲り、修行の旅に出た。越前の主家朝倉氏は、天正元年(一五七三)織田信長に攻められ滅亡する。つづいて同族の富田長秀が挙兵し、勢源は故郷を失い流浪の生涯を送った。
 勢源は富田流のほかに、上泉伊勢守秀綱に新陰流を学び、上泉門の四天王の一に数えられたともいわれている。
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