津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          勝海舟 私に帰せず(下)

■大政奉還の頃

<本文から>
  京都で大政奉還がおこなわれていた十月十四日、麟太郎は英、米、仏の艦長と横須賀製鉄所長ウェルニーを富士山丸に同乗させ、相模灘へ航行した。
 前日に横浜の外人クラブから仕入れた西洋料理の材料、酒を積み、中国人のコックも雇い、十四日の午前六時に船を出した。
 十二時すぎに房州洲の先を越えたところで暴風にあい、館山に入港し、上陸する。
 十五日に暴風がおさまり、出帆したが、房州女良沖で大西北風に吹きたてられ、舵がきかなくなり、船体が二十六、七度にも傾く。沈没するか、暗礁に乗りあげるかわからないので、館山港にもどった。
 灯台建設候補地の女良へ、風雨のなかを徒歩で出向き、ようやく検見を果たした。
 屋敷へ帰ってみると、大久保越中守ら知友が連日訪ねてきて、京都の情勢を伝えてくれた。
 十一月三日、四日、麟太郎は日記にしるす。
 「近頃、江戸へ過激輩大勢入込み、暴挙あるべきの風評、紛々。戒心これあり」
 薩、長を中心とする、倒幕派の壮士たちが、江戸に入り込み、三田薩摩屋敷を根城として、市中の治安を乱す行動をしていた。
 麟太郎は、薩、長をはじめとする西南諸藩に知己、門人が多い。倒幕派は、幕府が麟太郎を重用するのを嫌っていた。
 倒幕運動をおこすうえで、麟太郎は邪魔者である。
 (この風向きでは、俺を殺しにくる奴がいるかも知れない)
 直心影流の達人である麟太郎は、複数の刺客に襲われた場合、その数人を倒せるかも知れないが、命を全うすることはむずかしいことを知っている。
 それよりも、相手の気合いを挫き、刀を抜かせないようにするのが、護身の第一の術である。麟太郎は、その呼吸を剣禅の修行により、会得していた。
 十一月九日の日記。
 「此頃、十組問屋へ十万両。十人衆御用達へ二十万両の御用金、仰せつけられるよし。皆証書を賜ひ、御借用の体なりという」
 幕府は大坂城へ援兵を送り、戦備を増強するため、江戸の豪商から軍資金を借り入れたのである。
 十二日の日記。
 「出営。このほど御書付にて歩兵上京せしにより、御入費十四、五万を失いしという。また、都下暴発の風聞にて、宮中紛々たりしも、大いに鎮静せり。
 御家人より半高(知行の半分)さしだすべき旨、命ありしに、いまだ五万金ならでは上納集まらず。
 御見込み通りに到れば、惣高三百万なれども、いかがや、勢はかるべからずという」
 日常の暮らしむきに余裕のない御家人から、三百万両を献金させねば戦費をまかなえないことは、幕府財政が窮迫の極に達していたことを、裏づけている。
 麟太郎は、幕府の内部で薩長に通ずる逆臣であるという噂を流されていた。そのため重要な会議には出席をゆるされず、連日、外国艦長らと、房総周辺の灯台設置場所の選定にまわるなど、些事に忙殺されていた。
▲UP

■江戸城明け渡しを慶喜に説く

<本文から>
 「およそ興廃存亡は、気数(天命)に関します。人力のよくすべきところではありません。いまもし決戦するとなれば、上下一致してただ一死を期すのみであります。
 臣は軍艦を率い、駿州の海浜に上陸し、二、三百の兵をもって官兵をふせぎ戦えば、わが兵は衆寡敵せず、一敗するでありましょう。その敗に乗じ、敵兵が清見ケ関の近辺に迫れば、軍艦を進め、横あいから砲撃すれば、敵を撃破するのはたやすいことです。
 ただちに味方の援軍を上陸させ、白兵戦を展開し、艦砲射撃で敵軍の中央を潰滅させれば、たちまち必勝することは疑いありません。この機に乗じ、関東の士気がふるいたてば、東海道の味方を督励し、火を放って敵の進撃をはばみます。
 そのうえで軍艦三隻を率い大坂湾に入り、西国、中国の海路を遮断して、しばらく情勢を見ておればいいでしょう。東海道を進む東征総督の軍勢を敗走させれば、中仙道、北陸道を進む官軍も、なすすべもなくなるでしょう。
 また瀬戸内海の航路を遮断され、軍隊、資材の輸送の方途を失えば、官軍もとるべき策がなくなります。
 しかし、こうなると天下は瓦解し、薩長は英国に応援を乞い、その野望を達成しょうとするでしょう。そうなればゆきつくところも知れない長期戦になりかねません。戦うことなく、恭順の条理を踏もうとすれば、さまざまの難題をもちかけられ、終わるところを知らない有様になるでしょう。
 臣らは、上さまのご決心に従い、死を決してはたらきましょう。
 およそ関東の士気、ただ一時の怒りに身を任せ、従容として条理の大道を歩む人はすくないのです。
 必勝の策を立てるほどの者もなく、戦いを主張する者は、一見いさぎよいように見えますが、成算がありません。薩長の士は、伏見の戦いにあたっても、こちらの先手を取るのが巧妙でした。幕軍が一万五、六千人もいたのに、五分の一ほどの薩長勢と戦い、一敗地にまみれたのは、戦略をたてる指揮官がいなかったためです。
 いま、薩長勢は勝利に乗じ、猛勢あたるべからざるものがあります。
 彼らは天子をいただき、群衆に号令しており、尋常の策では対抗できません。われらはいま柔軟な態度をとり、彼らに対し誠意をもってして、江戸城を明け渡し、領土を献ずべきです。
 そうして徳川家の興廃を天に任すならば、官軍はわれわれを攻撃できません。しかし、このことは至難のわざで、たやすくおこなうことはできません。
 ゆえに申しあげます。上さまのご決意が、確固不抜でなければ、臣らの方針も定まりません。万一、このご方針をおとりになれば、人民は心服し、天下は響に応じ、わが徳川氏の政治は革命の大業を成しうるのです。
 そうすればこそ、上は天朝に対し、下は万民にむかい、上さまの御名をはずかしめないことができるのです。この機に乗じ、従前の汚名をすすぐべきときが到来しているのに、いたずらに論議をかさね、むなしく時日をついやすのは感心できません。
 また考えてみますと、いま大坂城を敵に明け渡しましたが、城内にたくわえていた米穀およそ五万俵、金銀鋼錫の類の価値は、およそ百二十万両を下りません。
 いま朝廷ではあらたに諸官を設けられ、諸局を開設すれば、費用は莫大で予測がつきかねるほどでしょう。
 そのため官軍が江戸へ進撃してくれば、軍費を倹約し、兵糧を徳川家から取ろうとするでしょう。江戸城の倉庫が空虚になってしまっていることを、彼らは知りません。そのため戦って、それを徳川家から取りあげようとするでしょう。
 こちらから内情をつつみ隠さず、条理に従って知らせれば、東征軍は出兵の無意味であることを覚るでしょう。それでも徳川家と一戦をまじえ、撃滅するために進撃すれば、兵粘の費用は、かならず三道の大小名から取ることになるでしょう。これはもっとも人心を離反させる行為で、彼らの大失策になるでしょう。
また、戦闘には敵愾心が必要です。こちらが恭順の意をあらわし、条理をつくして対応すれば、彼らの戦意ははじめてゆるむかもしれません」
▲UP

■江戸総攻撃の阻止

<本文から>
 麟太郎は、官軍が三月十五日に諸道から江戸城総攻めをおこなう情報を入手していた。
 日記に、そのときの対策をしるしている。
「官兵当十五日、江戸侵撃という。
 三道の兵必死を極め進めば、後ろその市街を焼きて、退去の念を絶たしめ、城地に向かいて必死を期せしむ。
 もしいま、我が嘆願するところを開かず、なおその先策をあげて進まんとせば、城地焼燼無辜数百万、ついにその遁がれしむるを知らず。
 彼暴挙をもって我に対せんには、我もまた彼が進むに先んじ、市街を焼きて、その進軍を妨げ、一戦焦土を期せんずんばあるべからず。この意この策を設けて、城対、誠意に出ずるにあらざれば、おそらくは貫徹なしがたからんか。
 愚不肖、これに任て一点疑いを存せず。
 もし百万の生霊を救うあらざれば、吾まずこれを殺さんと断然決心してその策をめぐらす」
 麟太郎は、このように焦土作戦を覚悟し、その心中をアーネスト・サトウに語っていた。
 「膠は、主君の三叩が助かり、たくさんの家臣を扶養してゆけるだけの十分な収入が残されさえすれば、どのような協定にも応ずる用意があるといって。
 彼は西郷にむかって、条件がそれ以上に過酷ならば、武力をもって抵抗することをほのめかした。…勝は慶喜の一命を擁護するためには戦争も辞せずといい、ミカドの不名誉となるばかりでなく、内乱を長引かせるような苛酷な要求は、かならずや西郷の手腕で阻止されるものと信ずると述べた。
 勝はまた、ハリー・パークス卿に、ミカドの政府に対する卿の勢力を利用して、こうした 災いを未然に防いでもらいたいと頼み、長官も再三この件で尽力した」
 麟太郎は、官軍の江戸城攻めを阻止するため、パークスの外交折衝をおおいに利用しようとしていた。
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■西郷との談判で成功

<本文から>
  あのときの談判は、実に骨だったヨ。官軍に西郷がいなければ、談はとても纏まらなかっただろうよ。
 その時分の形勢といえば、品川からは西郷がくる。板橋からは伊地知などがくる。また江戸の市中では、いまにも官軍が乗込むといって大騒ぎサ。しかしおれはほかの官軍には頓着せず、ただ西郷一人を眼においた。
 そこで、今談した通り、ごく短い手紙を一通やって、双方何処か出会いたるうえ、談判致したいとの旨を申送り、またその場所は、すなわち田町の薩摩の別邸がよかろうと、このほうから撰定してやった。
 すると官軍からも早速承知したと返事をよこして、いよいよ何日の何時に薩摩屋敷で談判をひらくことになった。
 当日おれは、羽織袴で馬にのって、従者を一人つれたばかりで薩摩屋敷へ出かけた。まづ一室へ案内せられて、しばらく待っていると、西郷は庭のほうから、古洋服に薩摩風の引っ切り下駄をはいて、例の熊次郎という忠僕を従えて、平気な顔で出てきて、これは実に遅刻しまして失礼、と挨拶しながら座敷に通った。その様子は、少しも一大事を前に控えたものとは思われなかった。
さて、いよいよ談判となると、西郷は、おれのいうことをいちいち信用してくれ、その間一点の疑念もさしはさまなかった。
 『いろいろむつかしい議論もありましょうが、私が一身にかけてお引受けします』
 西郷のこの一言で、江戸百万の生霊も、その生命と財産とを保つことができ、また徳川氏もその滅亡を免れたのだ。
 もしこれが他人であったら、いや貴様のいうことは、自家撞着だとか、言行不一致だとか、たくさんの凶徒があの通り、処々に屯集しているのに、恭順の実はどこにあるかとか、いろいろやかましく責めたてるにちがいない。
 万一そうなると、談判はたちまち破裂だ。しかし西郷は、そんな野暮なことはいわない。その大局を達観して、しかも果断に富んでいたには、おれも感心した。
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■麟太郎は幕府からも官軍からも疑われていた

<本文から>
  十月十盲、麟太郎は築地の東本願寺別院で、駿河移住の人々と集まり、蒸気船に乗り静岡にむかった。
 麟太郎たちが立ち去ったあと、官兵三千人ばかりが東本願寺に乱入し、麟太郎の行方を探した。彼らは言った。
 「勝安房の建言は、すべて虚言である。そのため召し捕るのだ」
 その出来事を、一カ月近くたったこの日に、麟太郎はある人から聞いた。
 家老、中老などの上司は、このことを麟太郎に告げなかった。
 徳川慶喜は、麟太郎が幕府のため慶喜のために、死の危険を冒してはたらいてきた苦労を認めようとせず、彼が官軍にあらかじめ頼み、そのような芝居をさせたのであろうといったのである。
 麟太郎が官軍と交渉し、慶喜を江戸城に復帰させ、徳川家の所領をできるだけ多くし、慶喜がふたたび国政の中枢に座を占められるよう、さまざま肝胆を砕いたことがまったく無視された。
 内実では総督府に通じ、新政府に身を託する運動をしているなどという、旧幕臣間の無責任な風評を、慶喜は真実であると思っていたのであった。
 人心は頼みがたい。幕臣を辞し、閑居したいという思いが、麟太郎の身内にこみあげてきたのである。
 官軍では、榎本武揚の率いる艦隊が蝦夷地へ脱走したのは、勝安房の計画によるものであるという噂が高かった。薩摩人は麟太郎に好意を抱いているが、海軍に縁の薄い長州人は、大村益次郎をはじめ、麟太郎に疑いを抱いている。
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■麟太郎が野に下ってから金融で徳川縁故の人々を救済した

<本文から>
  安芳が野に下ってのち力を傾けたのは、東京の豪商大黒屋(榎本六兵衛)から徳川家達に三万円を献金させ、それを基金として設立した、私設の「徳川銀行」ともいうべき機関の運営であった。
 大黒屋は幕末から江戸の大商人として栄え、明治期になると小野組と協力して繁栄をつづけた。
 三井組、島田組、小野組は新政府為替方となり、明治五年に三井小野組合銀行を設立、翌年第一国立銀行に合併されたが、その後も大蔵省為替御用掛として、事業を拡大していった。
 だが明治七年になって、政府は突然民間に貸出した資金の回収をおこない、小野組、島田組はたちまち倒産し、三井組だけが残った。
 藩閥政府の策謀がうかがわれる事件で、大黒産もそのとき連鎖倒産をしたが、「徳川銀行」は活発な商業活動をつづけた。
 幕府元勘定奉行溝口勝如が頭取となり、その下で旧幕臣が事務をとった。安芳は貸付役で、彼の判断で貸付がおこなわれる。
 安芳は貸付金額を回収するため、借受人の状況をくわしく調べ、利子、担保をとったうえで、貸出しを実行する。
 金利は千円未満が年六分、千円以上が五分という、当時としてはきわめて低利であった。利用者は幕臣を主として、徳川一門、華族などであった。
 徳川宗家は四百万石から静岡七十万石に移封されてのち、貯蓄も費消し、雄藩の華族に比べても豊かではなく、旧幕臣の没落する窮状は、見るに忍びないものがあった。
 安芳はこの金融機関によって、徳川縁故の人々を一人でも多く救済しようとしたのである。
 紀州徳川家、雲州松平家、公卿華族の近衛家、菊亭家、西四辻家、驚尾家、五条家、米沢上杉家も金融依頼者であった。貸出金額は、一万円、五千円、三千円とまとまったものから、百円、十円、二円と、借出人の窮迫の様子が想像できるような、小額のものまであった。
 藩閥政府のもとでは、徳川家が勢力を保ってゆくためには、財力がなければならなかった。幕府崩壊の頃、二束三文となっていた屋敷地、書画骨董が、この時分から値をあげてきたので、安芳は徳川家の資産として、それらを買い求める努力をした。
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