津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          勝海舟 私に帰せず(上)

■麟太郎は病妻と幼い娘たちを抱えて貧乏の中で猛勉強する

<本文から>
  麟太郎がこのように民間の富豪の援助を得て、蘭学研究に便宜を得たことは事実であるが、何といっても四十石余の禄で食べていかねばならない。赤貧といっていい環境のなかで、芸者あがりの妻は病床についていた。麟太郎は縁板を破り柱を薪として死に物狂いに蘭学の勉強を続ける。夏は蚊帳もなく、冬の夜も布団はなく、ただ机にもたれて眠るばかりである。病妻と幼い娘たちを抱えての生活を彼は語る。
 「困難到千いずくんぞまた感激を生ず」
 彼が蘭和対訳の辞書ヅーフ・ハルマの原書を書写した話は有名である。この辞書は三千ページ、語数九万余、五十八巻の大冊である。
 ヅーフ・ハルマは、一七一七年、オランダ人フランソワ・ハルマの作った蘭仏辞書を長崎に来ていたオランダカピタン、ヘンドリク・ヅーフがフランス語に変えて日本語を入れ、蘭和辞書とした。長崎通辞十一人が二十三年かかって天保四年(一八三三)に仕上げたものである。
 幕府はこれを「御用紅毛辞典」と題し、江戸天文屋敷と幕府奥医師掛川甫州の宅、長崎オランダ通辞部屋に各一部しか置かず、刊行を許さなかった。
 そのため、民間の学者はつてを頼って筆写した。
 麟太郎は、このヅーフ・ハルマを、弘化四年(一八四七)の秋から一年がかりで二部筆写した。彼が写したのは幕府の宮本で、閣老の深川下屋敷へ毎晩通ってなし遂げたものである。麟太郎は、写本の一部を売って暮らしの足しとした。
 このような話は他にもある。 
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■麟太郎はアメリカでは四民平等で実力主義の国であると驚く

<本文から>
  初めて馬車に乗る時でさえ、非常な驚きを禁じえなかった彼らにとって、列車の走る情景は、意表をつかれる眺めであった。
 その日、威臨丸の艦内は見学の男性市民が押しかけてきて、祭りのような賑わいになった。サンフランシスコ市長が日本側の意向に従い、男性市民に限り艦内見学を許したためである。
 新聞は、日本の武士たちが、男女同権の何たるかを理解していないと、面白く書き立てた。
 「当市の貴婦人たちは面目を失った。日本の客人たちは、彼女たちの優美な足で甲板を歩かせないと、来訪を断ったためである。
 高帽をかぶり、広く張った裳裾を引く麗人たちが、市長、知事をも辟易させる威勢を備え ていることを、彼らは知らないのである」
 麟太郎は、サンフランシスコ入港以来、機嫌がいい。
 アメリカでは四民平等で、実力次第ではどんな出世でもできる国であるという事実を、眼 前にしたためである。
 サンフラシスコ市の、威臨丸乗組員歓迎会が開かれたのは、三月一日(陽暦三月二十一日)、水曜日であった。
午後一時過ぎ木村摂津守は、ブルック大尉、麟太郎以下士官一同、医師、従者らと共に埠頭に上陸した。
 小雨の降り出すなか、四輪馬車で市役所を訪問する。広場ではカリフォルニア警備隊が十八発の礼砲を放ち、その響きによって近隣の建物のガラス窓が割れる椿事のなか、市民が黒山のように見物に押しかけてきた。
雨は篠突くような烈しさになったが、市長以下の歓迎を受けるなか客間に入った後、双方の握手、交歓が始まった。
木村摂津守は中浜万次郎の通訳により、次のような挨拶を述べた。
「私どもは市民諸氏とこのような会見の機を得たのを嬉しく思います。サンフランシスコ市によって、かくも丁重なる歓迎を受けることは、日本国民に対する厚意として深謝いたします」
 挨拶は三十分程の間、続けられた。
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■麟太郎は幕府要職から遠ざかれた

<本文から>
 麟太郎は平然と答えた。
 「人間のなす事は、古今東西同じようなもので、アメリカとてとりわけ変わった事はござりませぬ」
 老中は問い掛けを止めない。
 「そうではなかろう。何か変わった事があるはずじゃ」
 再三問い掛けられた麟太郎は、ようやく答えた。
 「さよう、いささか眼につきしは、政府にても農工商を営む者にしても、およそ人の上に立つ者は、皆その位相応に賢うござります。この事ばかりは、わが国とは反対のように見受けてござりまする」
 老中が眼を怒らせ、思わず叱りつけた。
 「この無礼者め、控えおろう」
 麟太郎の帰国後の評判は、極めて悪かった。
 彼が浦賀で井伊大老暗殺の報を聞いた時、大声を上げて叫んだ。
 「これ幕府倒るるの兆しだ」
 傍らにいた木村摂津守が呆れて言った。
 「何という暴言を申すか。気が違ったのではないか」
 その評判が広まって、麟太郎に白い眼を向ける者が多くなった。
 彼の成臨丸艦長としての業績は、全く認められず、かわって軍艦操練所教授方の小野友五郎の航海中の功績が認められた。
 友五郎は麟太郎より十歳年上で、測量術に長じ、航海中、連日六分儀で経緯を測り、ブルック大尉も感心するほどの正確な測定をした。
 彼は帰国後五月に桝配脱が昇進し、さらに軍艦頭取となり、江戸湾内の測量に従事した。常陸笠間藩士としては、抜群の出世であった。文久元年(一八六一)七月には幕臣となり、威臨丸艦長を命ぜられた。
 麟太郎は反対に、海軍操練所教授方頭取を免職になり、六月二十四日に天守番之頭過人、番書調所頭取介を命ぜられた。
 過人とは、非常勤の意である。麟太郎はこの後二年間、海軍と無縁の職場で過ごした。
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■麟太郎と家茂

<本文から>
 艦隊が子浦を出て、昼前になると風が吹き荒れてきたので、また子浦に引き返した。
 その夜、御側衆は騒ぎたて、麟太郎を罵った。
 「貴公は上様に万々一のことあるとも船行いたすつもりか。見通しが立たねば、ご陸行をおすすめいたせ」
 家茂は争論を聞いて、言った。
 「いまさら陸行はできぬ。また、海上のことは軍艦奉行がおるではないか。余もまたその意に任す。決して異議を申すではない」
 この一言で、衆議はやみ、静まりかえった。麟太郎は年若い家茂の決然とした言葉を聞き、男泣きに泣いた。
 三日の早朝、麟太郎は全艦隊に子浦を出港する命令を下そうとした。
 海上はおだやかに細波を刻むばかりであるが、西方の空は暗雲に塗りつぶされていた。富士山は晴天のもと、白雪を輝かせている。
 「昼過ぎには風が起こりそうだな」
 ためらっているとき、家茂に召された。
 「当日の景況は、いかがであるか」
 海上は午前のうちに荒れて参りましょう。午後になれば、かならず風が起こって参ります。伊勢安乗まで海上五十里、風が起こるまえに到着いたせませぬ。あと三日も待てば、よき日和になるものと存じまするが、あらかじめしかと言上はなりかねまする。
 およそ海上の事は、機会をつかまねばなりませぬ。迅速ならざれば機を失しまする」
 黙って聞いていた家茂は、顔に勇気をみなぎらせて言った。
 「今日出帆すると決しよう。どうじや、そのほうが決に随おうぞ」
 麟太郎は若い将軍の決断に驚喜した。
 彼はただちに釜を焚かせ、蒸気を試み、午前五時に抜錨して子浦を出た。
 遠州灘を西へ直進し、機関も破れよと速力をあげる。
 夕方、六時まで風は起こらなかった。このとき伊勢の内海あたりから西方へ雨雲がひろがり、風雨つよまり、山のような激浪が後方の洋上でうちあうのを見た。
 「安乗の縢が見えたぞ」
 船頭の声を聞いた麟太郎はマストにあがり、灯台の火光をたしかめた。
  −上様のご英断が遅ければ、危うかったであろう−
 家茂は安乗崎に達しようとするとき、命じた。
 「このまま夜中航海して、紀州へ直航いたせ」
 御側衆、乗組の士官たちも、上意に従おうとしたが、麟太郎はあえて反対した。
 彼は家茂に言上した。
 「今日のご渡海は、お上の御英断あらざれば、臣はこの機に乗ずるあたわざりしと存じ奉りまする。
 さて、夜中の航海には、万々危険のおそれなしといえども、諸士は今日の安静なる航海をよろこび、気の弛みが生じておりまする。願わくは明早朝をまって航すべしと勘考つかまつりまする。
 利を得てなお飽かざるときは、不測の善が生じるものにござりまする。まげて臣が懇願に任されんことを」
 家茂はすこぶる満足の様子で、麟太郎に酒盃を賜った。
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■麟太郎と西郷の密談

<本文から>
 麟太郎は、幕閣の腐敗をかくさずうちあけた。斉彬が見込んだ逸材だけのことはあると見たからである。
 「幕府の役人たちは、このたびの禁門の一戦で勝ったから、攘夷の暴徒は皆おそれいって、わが身の禍を免れたいと縮こまってしまったと思い込んでいるんですよ。
 天下は太平無事にもどったと思い込んでしまった幕府では、何の能もないくせに、悪知恵に長じた連中だけが、羽振りをきかせています。
 それでこの節の幕吏は、政務の取り扱いにも至って悪賢くなり、こみいった案件については、誰に責任があるのかわからないように、一同で持ち合いにしております」
 吉之助は、それほどまでに幕閣が弱体となっているとは知らなかった。
 麟太郎は、言葉をつづける。
 「好物のうちでも、老中の諏訪因幡守というのは、首魁というべき者でんすよ。いろいろと正論を申し立ててくる者がいると、ごもっとも、ごもっともと同意しつつ、裏で手をまわして、さような者を退けます。
 いまではとても幕政に尽力の道はないと、心ある者は思っていますよ。こんど私が将軍家ご進発をおすすめ申し上げても、その手でやられてしまうでしょう」
 吉之助は聞いた。
 「それなら奸吏を退ける策は、あい申はんか」
 麟太郎は笑った。
「ひとりの小人物を退けるのは、わけもないことですが、あとを引き受ける者がおりません。つまり、正論をとなえる者が出ても、それを支える者がないので、倒れるよりほかはないということです。
 なんとも事の運びようがないのですよ」
 麟太郎は、前途に希望をもてない事情を淡々と語った。
「それでは、諸藩より力をつくしてはいかがでごわしょう」
 吉之助が問うが、麟太郎は首をふった。
「やはり、おなじことですよ。薩摩藩よりかようの意見が出ていると、役人らにもちだせば、すぐさま薩摩にあざむかれているのだと言って、とりあげまいとするでしょう」
 吉之助が兵庫開港を迫る外国人への対策につき、意見を聞くと、海外の実情を知りつくした麟太郎は、適切な返答をした。
「ただいま、異人どもは幕吏を軽侮していますよ。口先ばかりの談判をするからです。だから、どうにもならないんでしょう。
 いずれは明賢の諸侯四、五人ほどで会盟し、異国艦隊を打ち破れるほどの兵力をもって、横浜と長崎の両港を開き、兵庫は筋をたてて談判のうえ、条約を結ばれるべきです。
 そうすれば皇国の恥にならぬような話し合いがまとまり、異人らはかえってその条約に納得するでしょう。
 このうえで天下の大政もさだまり、国の方途もあきらかになるでしょう。いよいよさようの動きが出てくるなら、明賢諸侯の出そろわれるまで、私が異人を引き止めておくことは、うけあいましょう」
 吉之助は、麟太郎の衆にすぐれた識見に感じ入った。
 彼は数日後、鹿児島の大久保一蔵(のちの利通)に、手紙で麟太郎の印象を知らせた。
 「勝氏へはじめて面会しましたが、実におどろきいった人物です。はじめはどうせたいした男ではなかろうと、やりこめてやるつもりでいったのですが、どれほど智略があるか分からない人物です。
 一言でいえば、英雄の資質をそなえています。佐久間象山より切れ味において勝っています。
 学問と見識では、佐久間は抜群の人物でしたが、実行力においては、勝先生のほうがうわ手でしょう」
 会談の座に同席した吉井幸輔は、その内容をつぎのように書き残している。
 「勝は大久保越中守、横井小柄らと同様に、幕府が長州を征伐してのち、天下の人才をあげて公議会を設け、身分のない者でもその会に出たい願いの者は出席させ、公論をもって国是を定めるべきであると考えている。
 このほかに、国運挽回の道はないというのである」
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