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<本文から> 江戸時代以降の武士道は徳川家の方針もあって儒学の影響が強く、″忠孝″を柱にしていた。山岡鉄舟などもいかにして忠孝の道を全うするかというので、剣術に精進したわけであるが、古い時代の武士道は忠孝よりは、武勇を尊ぶことと、恥を知ることを主眼としていた。主人がつまらない人間であれば、他に求めればいいではないか、武士は武士としての本領を発揮し、はたらきを十分にすればいいと考え方だった。
宮本武蔵も『五輪書』の「地の巻」の一番最初に、「武士は主君のために死ぬことを非常に自慢にするが、それほど馬鹿なことはない。とにかく剣術というものは相手を斬って、それで自分が主君の役にも立って生きてゆくのが兵法の徳″というものである」といっている。だから、「わしは命をいつでも投げだして死ぬことができるというようなことをいうのは、侍としては非常に馬鹿げている」ともいっている。これを見ても、武蔵が大変なリアリストであったということがわかる。
古い武士道の根幹をなしていたのが、剣術であり、兵法の精神であったといえる。もちろん剣術は技術の鍛練をするものである。しかし、技術の鍛練をしていると、人間の心も自然に鍛えられて、命をかけた場でも恐怖を抱くことのない状態に達することができる。実戦では十分の一の力も出せないのが普通だから、古流の剣術は心の鍛え方に重点を置いていたわけである。
古流の剣術の場合、立ち合いの間は五間、約九メートルあまりである。約五間をおいて、まず相手の動きを観察する。それから、″一足一刀″で飛び込んで相手に当たる間合を″間境″という。間場を越えると″間の内″に入る。
間の内に入ったときは、すでに勝負は決しているというのが、昔の剣術である。宮本武蔵が六十何回真剣勝負をして、かすり傷ひとつ負わなかった、塚原卜伝が二百数十人を斬って、まったく傷を負っていなかったというのは、やはり相手の動きに対する読みが人なみ外れていたということである。竹刀剣術のように、隙だらけというものではなかったことはたしかである。 |
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