津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          勝つ極意 生きる極意

■自分の本領」を発揮するのが武士道

<本文から>
 江戸時代以降の武士道は徳川家の方針もあって儒学の影響が強く、″忠孝″を柱にしていた。山岡鉄舟などもいかにして忠孝の道を全うするかというので、剣術に精進したわけであるが、古い時代の武士道は忠孝よりは、武勇を尊ぶことと、恥を知ることを主眼としていた。主人がつまらない人間であれば、他に求めればいいではないか、武士は武士としての本領を発揮し、はたらきを十分にすればいいと考え方だった。
 宮本武蔵も『五輪書』の「地の巻」の一番最初に、「武士は主君のために死ぬことを非常に自慢にするが、それほど馬鹿なことはない。とにかく剣術というものは相手を斬って、それで自分が主君の役にも立って生きてゆくのが兵法の徳″というものである」といっている。だから、「わしは命をいつでも投げだして死ぬことができるというようなことをいうのは、侍としては非常に馬鹿げている」ともいっている。これを見ても、武蔵が大変なリアリストであったということがわかる。
 古い武士道の根幹をなしていたのが、剣術であり、兵法の精神であったといえる。もちろん剣術は技術の鍛練をするものである。しかし、技術の鍛練をしていると、人間の心も自然に鍛えられて、命をかけた場でも恐怖を抱くことのない状態に達することができる。実戦では十分の一の力も出せないのが普通だから、古流の剣術は心の鍛え方に重点を置いていたわけである。
 古流の剣術の場合、立ち合いの間は五間、約九メートルあまりである。約五間をおいて、まず相手の動きを観察する。それから、″一足一刀″で飛び込んで相手に当たる間合を″間境″という。間場を越えると″間の内″に入る。
 間の内に入ったときは、すでに勝負は決しているというのが、昔の剣術である。宮本武蔵が六十何回真剣勝負をして、かすり傷ひとつ負わなかった、塚原卜伝が二百数十人を斬って、まったく傷を負っていなかったというのは、やはり相手の動きに対する読みが人なみ外れていたということである。竹刀剣術のように、隙だらけというものではなかったことはたしかである。 
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■徳川吉宗の人心収穫の巧妙さ

<本文から>
 私は吉宗の人心収穫の巧妙さについて書くつもりで、彼の生い立ちをたどってきた。だが、紀州時代の彼の挿話をかいつまんでいうにも、紙数が足りない。
 彼が当時の大名として稀にみる明断な人物であったことを示す事歴は、かぞえきれないほどである。そのいくつかを列挙する。
 彼が紀州藩主であった頃、猪狩りにでて山野を走るうち肥溜めにおち、首まで汚物に漬ったことがある。彼は這いあがると人目につかないよう間道を伝い、休息所の寺院に到着するなり汚れた着物を縁の下に投げこみ、体を洗いきよめ着換えをしたのち近習に命じた。
「肥溜めの持主の百姓を呼び、儂の汚れた着物をひそかに持ち帰らせよ。それを処分してもよし、もし着るならば染め替え、紋所などわからぬように致すよう、申し伝えよ。庄屋、村役人などに今日の出来事が聞え、当の百姓が咎を受けてはふびんゆえ、内々に取りはから」
 季候は極寒二月であった。なみの大名であれば憤怒にかられ、肥溜めの持主を手討ちにしかねないところである。
 またあるとき、酒好きの藩士が二の丸御殿の役座敷で勤務中、飲酒してあばれ抜刀して襖、障子を散々に斬りやぶる乱暴をはたらいた。
 家中の定法によれば、殿中で抜刀しただけでも切腹しなければならかい。だが事件を聞いた吉宗はいった。
「酒のうえでのことじゃ。このたびは咎めなしとせよ。そのかわり本人が斬り裂いた建具は修復せず、そのままにいたしておけ」
 乱暴をはたらいた藩士は、毎日出仕しては己れの狼籍のあとを眼前にして恐れいり、そののち酒乱の癖は消えうせた。
 領内物産の納払帳を検閲し、小口勘定の算盤違いを発見しても、自分が発見したことにせず、勘定奉行下役が吟味して気づいたことにして差戻させた。そうすれば役向きの者が失錯の科を表立ってうけずにすむからである。
 彼は当然死罪にあたいする罪を犯した家臣がでた場合、事情を詳しく調べ、できうるかぎり罪におとさないようにしてやった。
 彼は大名たるものは気づいたことの三分を口にし、七分を腹に納め勘忍せねばならぬとかねがね語っていたという。
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■徳川吉宗の人心収穫の巧妙さ2

<本文から>
 吉宗は紀州にいたとき、隠れ目付を用い、家臣の裏面を探っていたといわれる。隠れ目付は八十人の座頭(按摩)を使い、家中の秘事についての噂を集めていたのである。
 吉宗はそのようにして人心の表裏を探るうちに、博識な人間学者になっていたようだ。
 彼は紀州藩主の座にいるうちに、後世に名高い著書、紀州政事草一巻、紀州政事鏡二巻をあらわした。
 いずれも政事の要諦をくわしく述べたもので、内容を一読すれば気持わるいまでの、下情を知りつくした洞察眼のするどさが理解できる。
 吉宗は藩主の座にいながら、家老、用人、奉行から下役の末にいたるまでの、役向きの秘事をすべて知りつくしていた。現代にたとえれば、社員数万を擁する大会社の社長が、社内各部門の業務の内幕を、細大洩らさず知っているようなものである。
 彼は役向きのうえで曲事をはたらいた家臣を呼びだし、けっして罰することなく説得する。
「おまえの役向きでは、このような誘惑もあり、また私利をはかる方法としては、このようなやりかたもある。おまえは不心得をはたらくはずもないが、万一にもそんなまちがいをしでかさないよう、気をつけてもらいたい」
 吉宗は家臣がおこなう私曲の内状を見透かしていることを知らしめたうえで、何事もなくひきさがらせる。
 恐れいった家臣はその後、二度と曲事をはたらく気にはなれない。こうして、吉宗は紀州藩主の座にあるあいだ、家中から罪人をひとりも出さなかった。
 彼が切腹の断罪をもってのぞむのは、勘定役の士が藩金を流用した場合のみであった。切腹の処断が下されると決まってからは、金銭の出納は一文も狂うことがなかった。
 このように吉宗の経歴を調べれば、彼が現代にも通用する名経営者であったことがわかる。
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■平清盛は理性の勝れた平衡感覚のすぐれた人物

<本文から>
 彼は東国武士のように、ひたすら武勇のみを尊重せず、全般の情勢を的確に把握する。不利な局面は固執せずに退き、敵の弱点をついて搦め手からの攻撃を得意とした。
 彼は理性の勝った、平衡感覚のすぐれた人物であった。その特性は、後年に及び平氏に反抗した興福寺、東大寺、三井寺を焼き払った事件において、鮮明にあらわれる。
 数百年間、朝廷をはじめ上下の人々が仏罰をおそれ反抗できなかった大寺を焼き払い、悪僧を殺害した事件は、清盛の卓抜した明噺な頭脳を証明する事実であろう。
 彼は同時代の仏教思想、迷信といった影響をうけることなく、政治理念をうちたてることのできる人物であった。彼は神慮というものが、人間の想像にすぎないと考えていた。当時の迷信をまったく無視していたのである。その実例につぎのようなものがある。
 承安四(一一七四)年早魅がつづき、田畑は水がかれ、人民は非常な困窮におちいった。そのとき宮中清涼殿で雨乞いの法会がおこなわれたが、会が終る頃になって天地が感応し、大雨浦妖として下り、三日三晩降りつづいた。これが宮中をはじめ世間の大評判になった。神を祈った澄憲という僧侶は実に偉いと感嘆の声がしきりであった。
 清盛はこれを聞いて笑った。
「病いにかかった者が、自然に癒る時分になって医者に診てもらい、快復すると、あの医者は難病を癒した名医だといってありがたがる。それとおなじことではないか。春先からひでりがつづき、五月雨の降る頃に雨乞いをすれば、ちょうど雨の降る時期だから法会の効験があろうとなかろうと、自然に降ってくるのだ」
 清盛は兵庫に港を築き、宋との交通をさかんにした。
 大規模な難工事であったが、港の土台石の下に人柱を埋めようという評議がなされた。清盛はそれを迷信としてしりぞけ、人柱のかわりに石に一切経を書かせ、沈めさせた。
 兵乱のほかに、すさまじいまでの天災、飢饉、疫病が流行している時代に、人力をこえた神仏の威力を信じなかった、清盛の理性の堅固さは、おそるべきものであった。
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■雑賀衆は抽象的な観念に欠けた集団であるが、信仰に身を捧げた

<本文から>
 私が不思議に思うのは、雑賀衆自身の動きである。
 戦国時代、和歌山市は雑賀五搦といって、五つの荘があつまって共和国の体裁をなしていた。一説には、雑賀衆のおかげで和徴山は五十万石の国になったといわれている。
 五つの荘の長が協議、相談して、その強力な共和国を運営していたわけである。
 雑賀衆の近くには根来とか紀伊、今の高野山のような、武力集団として非常に強い組織があった。
 雑賀衆と最も近密な関係にあったのが、五搦の一つ、紀の川北岸の十力郷のあたりである。その他の荘とは仲違いばかりしている。
 雑賀と十力郷を除く他の荘は、あわよくば他を蹴落として、自分が優位に立とうと、よその戦国大名と手を結んだりしている。
 五搦のなかから一人代表者を選んで、大きな大名の領地になる方法もあったはずである。
 もともと和歌山を治めていた畠山という守護職が兄弟の内紛から衰えて、どこかに行ってしまったわけだから、そのあとで五つの荘が固く結束すれば、近畿地方でも強大な勢力を築けたはずである。
 前述のように雑賀衆には莫大な富があつまっていたし、近代兵器を自由に駆使できる能力ももっていた。他の大名からすればのどから手が出るような戦闘集団である。雑賀衆はだいたい八千人ぐらいいたといわれている。それが、あちこちに雇われていっては、戦争をしていた。
 鉄砲衆は忍者と同様に各藩で非常に珍重されていた。たとえば、松江あたりにも雑賀衆は出かけている。織田信長にしても、鉄砲衆を非常に大切にしていて、新兵器を用いることに積極的だった。
 雑賀衆は知恵がありすぎて、大きな組織につくことを肯じなかったのだと思う。彼らは実に奇妙な戦国時代のなかにいたことになる。いわば修羅の世界である。その修羅の世界で、雑賀衆は独自の動きをしている。
 独自の動きというのは、浄土真宗に集団で帰依したということである。ちょうど石山の合戦の百年ぐらい前に、浄土真宗の蓮如聖人が、和歌山に布教に訪れたそのときに雑賀衆、熊野あたりの海賊が、みんな浄土真宗に帰依するわけである。
 それまでの宗教は貴族階級のためのものだった。一般階級の人間は畜生同様で、地獄に落ちるしかない時代だった。それが浄土真宗では、誰でも弥陀如来を信じて南無阿弥陀仏の六字名号を唱えれば極楽に行けると説く。人を千人殺した者でも、罪が深ければ深いほど、弥陀如来は救ってくれるというその教えに打たれて、非常に合理的な物の考え方をする商人であり、かつ優秀な戦闘集団である雑賀衆が率先して、浄土真宗の門徒になった。
 彼らは優秀な武器をもちいて、強固な領土を保持するよりは、非常に抽象的な浄土という観念を選んだ。その観念にいままで貯め込んだ富も武力もすべて投げ出すわけである。
 その理由としては、同族で角突きあって自前の戟国大名を生み出すことに遅れたということが考えられる。だから本願寺の力を背景にして、統一された国家というか領土をつくり出したいという焦りもあったのに違いない。彼らは商人であり戦闘員なわけで、実際は抽象的な観念に欠けた集団のはずなのである。それにもかかわらず信仰に身を捧げたということは、雑賀衆は浄土真宗にすべてを賭けて、ややこしい乱世を生き抜こうとしたという気がする。
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