津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          活眼の刻

■石舟斎より新陰流を継いだ

<本文から>
  長い伝統をもつ大和の諸豪族が、乱世の渦に呑みこまれ、あいついで滅亡流離するなかで、石舟斎は柳生家をかろうじてもちこたえてきたのである。
 いま己の過去四十余年を通じて、鍛錬工夫をし、自らをかりたてて得た剣の成果を、兵介長厳という天与の剣の英傑にゆずるのである。
(嫡流兵介は、僕の正統を相承する。新陰流はゆくすえ末代までも子孫につたわるのや)
 石舟斎は感激に手先をふるわせた。
 儀式は丘ハ介の父厳勝ただ一人が厳然と陪席をゆるされるなかで、とりおこなわれた。石舟斎の一冊二代の大道業は、ここに了りをつげたのである。
 兵介長厳は、表の水を一器にうつし、一燈を分って百、千燈となす以心伝心の相伝の儀によって、次に記すものを、石舟斎よりうけついだ。 
▲UP

■新陰流第三世となりわが身の変化に気づく

<本文から>  
 印可の儀式がとどこおりなく終わった翌朝、兵介は眼覚めると、わが身が昨日までの自分とは変わったように感じた。前夜の祝宴の座で客に礼を述べるときにも、丹田の辺りに富までになかった重みが加わったように思ったが、稽古所に出てふだんのとおり弟子どもを相手にすると、気力がまったく違った。
(儂は祖父さまを継いで、新陰流第三世となった。天下に隠れもない名人上手と折紙をつけられたのや。儂が名人上手か、これでそういえるのやろうか。まだいたらぬところは多いのやが)
 兵介は、あらたに自分に添うた宗家の格式に、自信を与えられるいっぽう、いまの己の立場にたより、うぬぼれる気持ちがなかった。
 なお技を磨き、流儀の真諦をさぐらねばならないと考える。
▲UP

■石舟斎からの兵介への最後の言葉

<本文から>
 「なんといたした」
 兵介が聞くと、家来は板間に膝をつくなり叫ぶよう告げた。
 「大旦那さまはお気がつかれ、若様をお呼びなされてどざいます」
 「なに、それはまてとか」
 いうなり兵介は長押に竹刀を置き、苗を飛んで大書院へ走った。
 石舟斎の枕頭には、春桃御前、厳勝、おいちをはじめ、縁者が肩を寄せあって居ならんでいた。
 兵介が縁先に膝をつくと、厳勝が招いた。
「兵介、これへ参れ。祖父さまがお呼びじや」
 兵介はよろこびのいろを浮かべたが、周囲のひとびとのうち沈んだ顔つきを読んで、いそいで祖父の傍へにじり寄る。
 人は寿命が尽きるまえに、いっとき意識をとり戻す。祖父さまは儂に最期の言葉をのこされるのだと兵介は気づいた。
「祖父さま、兵介でどざりまする。み気色はいかがでどざりますか。私の声が聞こえまするか」
 彼は石舟斎の額に、わが頼を押しっけるようにして、語りかける。
 石舟斎は、眉間のほくろの白毛をふるわせ、ふかい呼吸をしていたが、重い瞼をわずかに見ひらく。喉の辺りで、かすかに喘鳴が聞こえた。石舟斎のよく光る眠が、兵介を見あげていた。彼は何事かつぶやく。
「なんでどざりますか。いまいちど仰せられませ」
 兵介が懸命にいう。
「ゆ、勇のこと、忘るるでないぞ」
 石舟斎のかすれた声音が、はっきりと耳突にとどいた。
 兵介の両眼から、湯のような涙があふれ落ちた。
「忘れはいたしませぬ。兵介、生涯かけて、肝に銘じておきまする」
 彼が語りかけると、石舟斎は顎を引き、ゆるやかにうなずく。
 厳勝が、兵介の袖を引いた。
「それでよい。さがってお見送りをいたすのじゃ」
 兵介は厳勝と膝をならべ、石舟斎を見守る。
▲UP

■栄達より兵法に生きる

<本文から>
  人の体は、魂の仮の栖でしかないと兵介は考えていた。この世でなにはどの栄達をしようと、一場の夢でしかない。
 (儂はわが命のあるかぎり、兵法工夫をかさねてゆくであろう。しかし、僕は祖父さまの至心を継ぎ、父上、一門道統につらなる者の儂の大成を待ちのぞむ心に酬いるために、兵法にはげむのや。儂の本音は、さようなことはどうでもよい。漠然とものを思わず、傾惰な日送りをしたいのや。儂は本心を抑えておるために、日送りにたのしみなく、空しゅうてならぬ。その苦しみから救うてくれるのが、お千世じゃ)
▲UP

メニューへ


トップページへ