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<本文から> 織田信長は生涯を通じ、「闘いの勝敗というものは、戦場へ出るまでに七割がた決まっている」といっていた。
彼は、徹底した情報戦術をとっていたのである。そのような戦術をとりはじめたのは、十八歳で家督相続して間もない頃である。
血気さかんな信長は、「鳴かずんば殺してしまえほととぎす」といわれるような短気者ではなかった。
事にのぞんで慎重をきわめ、決して無理をすることがなかった。
信長の戦いぶりを見れば、おなじ戦法を二度使ったことはない。当時、「梢を伝う猿喉」(=木々を縦横無尽に飛び渡る猿のこと)といわれるように、千変万化の対応をあらわす。
だが、戦場へ出るまでに勝敗の帰趨はおおかた決まっているという戦術理論は、一貫して変わらなかった。
信長は家督を継いでまもなく、弟信行との相続争いで、親戚の大半を敵にまわす戦いをはじめ、そのすべてを打倒するのに六年半の歳月をついやしている。
若い信長は那古屋城で七百人の馬廻り衆(下級武士)を率い、難題の山積する前途をきりひらいてゆく。彼は乏しい財源のすべてを諜報戦(情報戦)と新兵器の購入にふりむけた。
信長は攻撃する相手に、全力を傾けた乾坤一柳の勝負を挑まない。みずからの兵力の二、三割で幾度も小競りあいをしかける。執拗に四度、五度と小出しの攻撃をするうち相手の弱点が分かってくる。
いっぽうで諜者(スパイ)を放ち、敵の内情を探らせる。敵の陣営では主君に嫌われている家老がいる。派閥抗争をしている家老たちがいる。欲がふかく金品をもって誘えば、たやすくなびいてくる家老がいる。
信長はそのような者に調略をしかけ、内応(内部から裏切らせること)させる。
ついには敵の諜者まで買収してしまう。そのうえで偽りの情報を流し、自分に都合のいい時に都合のいい場所へ敵をおびきだし、敵よりも多い兵数で、敵よりも優秀な武器をもって戦を挑むのである。
このように慎重をきわめた柔軟な戦いぶりをするため、めったに敗北することがなく、負けても徹底的なダメージをうけることがなかった。生死を賭した永禄三年(一五六〇)の桶狭間の合戦だけが、少数をもって大敵に当たった唯一の例外である。
信長が天正三年(一五七五)五月、三千五百挺の鉄砲と四万人の大軍勢を率い、武田勝頼の騎馬軍団と戦い壊滅させた、長篠設楽原の合戦は、独得の諜報戦術により武田方の諜者をすべて抱きこみ、敵を狭苦しい地形の谷間へ誘いこむことで勝った。 |
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