津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          勝ちの掟

■信長は慎重をきわめ、決して無理をすることがなかった

<本文から>
 織田信長は生涯を通じ、「闘いの勝敗というものは、戦場へ出るまでに七割がた決まっている」といっていた。
 彼は、徹底した情報戦術をとっていたのである。そのような戦術をとりはじめたのは、十八歳で家督相続して間もない頃である。
 血気さかんな信長は、「鳴かずんば殺してしまえほととぎす」といわれるような短気者ではなかった。
 事にのぞんで慎重をきわめ、決して無理をすることがなかった。
 信長の戦いぶりを見れば、おなじ戦法を二度使ったことはない。当時、「梢を伝う猿喉」(=木々を縦横無尽に飛び渡る猿のこと)といわれるように、千変万化の対応をあらわす。
 だが、戦場へ出るまでに勝敗の帰趨はおおかた決まっているという戦術理論は、一貫して変わらなかった。
 信長は家督を継いでまもなく、弟信行との相続争いで、親戚の大半を敵にまわす戦いをはじめ、そのすべてを打倒するのに六年半の歳月をついやしている。
 若い信長は那古屋城で七百人の馬廻り衆(下級武士)を率い、難題の山積する前途をきりひらいてゆく。彼は乏しい財源のすべてを諜報戦(情報戦)と新兵器の購入にふりむけた。
 信長は攻撃する相手に、全力を傾けた乾坤一柳の勝負を挑まない。みずからの兵力の二、三割で幾度も小競りあいをしかける。執拗に四度、五度と小出しの攻撃をするうち相手の弱点が分かってくる。
 いっぽうで諜者(スパイ)を放ち、敵の内情を探らせる。敵の陣営では主君に嫌われている家老がいる。派閥抗争をしている家老たちがいる。欲がふかく金品をもって誘えば、たやすくなびいてくる家老がいる。
 信長はそのような者に調略をしかけ、内応(内部から裏切らせること)させる。
 ついには敵の諜者まで買収してしまう。そのうえで偽りの情報を流し、自分に都合のいい時に都合のいい場所へ敵をおびきだし、敵よりも多い兵数で、敵よりも優秀な武器をもって戦を挑むのである。
 このように慎重をきわめた柔軟な戦いぶりをするため、めったに敗北することがなく、負けても徹底的なダメージをうけることがなかった。生死を賭した永禄三年(一五六〇)の桶狭間の合戦だけが、少数をもって大敵に当たった唯一の例外である。
 信長が天正三年(一五七五)五月、三千五百挺の鉄砲と四万人の大軍勢を率い、武田勝頼の騎馬軍団と戦い壊滅させた、長篠設楽原の合戦は、独得の諜報戦術により武田方の諜者をすべて抱きこみ、敵を狭苦しい地形の谷間へ誘いこむことで勝った。
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■闘いの勝敗というものは、戦場へ出るまでに七割がた決まっている

<本文から>
 信長は家督相続してから最初の試練で失敗し、そのまま消滅する運命をたどらないために慎重無類の動きをとった。十九や二十歳の血気さかんな信長がおこなったとも思えない作戦がある。彼はひとつの城を攻めて占領した時、家来たちが気をはやらし次の城を取りに行こうとすると、引きとめて兵を引いたのである。家来たちはせっかくの出世手柄を立てられるチャンスを逃したとしてはなはだ不満であったが、信長が取らなかった城は、城主の人気が段々落ちてきて、家来たちが四方へ逃げ去っていく。やがて城主自身もいたたまれなくなって城を捨て退散し、半年1年後に信長はその城を一兵を損ずる事なく占領できるのである。
 こういう戦いかたを信長は生涯おこなった。那吉野城でわずか七百人の馬廻り衆を率いていたときも、安土城で十数万の軍勢を率いていたときも、信長は常に情報の収集、分析、戦略あるいは政略を立案するのはみずからの手によってであったが、彼の百回になんなんとする戦闘の足跡をみれば同じ戦い方をしたことは一度もない。しかし、戦闘の底に流れる理論はただひとつであった。
 信長の戦術理論というのは、戦いの勝敗は戦場において決するのが三割で、七割は戦場へ出るまでに決まっている、という謀略情報優先主義である。彼はこの戦術理論を終始一貫して用いた。
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■常人のまねのできないほどの用心深い性格

<本文から>
 信長の事蹟をたどっていると、目につく特徴がある。それは、彼が「鳴かずんば殺してしまえほととぎす」といわれるような気のみじかい男ではなかった
 ことを裏づける、慎重きわまりない戦機の読みかたである。
 戦国の武将たちは、野戦に出て敵味方入り乱れて争闘すれば、どれほど大勢の家来たちに護られていても、生還できるか否かは分からない。すべては運任せであった。
 それで生きている間に、一刻も早く成果を手にしようと望み、勝利を焦りがちである。
 だが信長は敵と戦うとき、ふしぎな動きをあらわす。敵が敗北し総崩れになったとき、徹底して追撃し、一挙に窮地に陥れようとしない。
 敵をいったん見逃し、その後の情勢をうかがっていて、相手を容易に潰滅させる見込みがついたとき、はじめて全力を傾け、撃滅する。
 信長は軍学を嫌い、無学であった。彼はわが感性のみで、乱世を縦横にきりひらいたが、わきかえるような生存闘争のなかで生き残れたのは、常人のまねのできないほどの用心深い性格であったためである。
 彼は天文二十年(一五五一)、父信秀の死によって遺領を相続したのち、同族との争いをはじめるが、その時分から鋭鋒をあらわした。
 逃げる敵を深追いせず、手中にできる戦果を、二十歳前後の血気さかんな信長が見逃す。戦力を燃やしつくすことなく、余裕をたくわえ引き揚げ、あらためて戦機をうかがう。
 その間に敵の内情を調べあげ、裏をかく情報作戦を休みなくおこなう。当然、 戦は長びくが、信長は功を急がない。彼は用心深い行動によって生きのびる。一度つまずけば、破滅につながる危険な道を、ゆっくりと進んでいった。
 永禄三年(←五六〇) 五月、二万八千の兵を率い桶狭間に至った今川義元を、わずか三千の兵をもって倒した信長は、二十七歳であったが、その行動は慎重冷静をきわめた。
 彼は潮の引くように退却してゆく今川勢を追わず、清洲に凱旋した。悠然と運命のおのずからひらけてくるのを待つゆとりがあったのである。
 信長は足利義昭を第十五代将軍の座につけてのち、元亀元年(一五七〇)六月に、北近江の姉川で、盟友徳川家康とともに、浅井長政、朝倉景健連合軍と戦い勝利を得た。
 このときも急追せず、兵を返している。敵に油断をつかれることなく、急変にそなえ余力を残し、機の熱す渇のを待つ戦法で、信長はしだいに成功をおさめていった。
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■秀吉が信長から異例の抜擢をうけたのは、部下の信望を得たため

<本文から>
 先に希望のない不安な暮らしのなかでの、唯一の娯楽は女色ではなく、博打であった。
 足軽たちは、給与が手に入ればすぐ博打をうち、貯蓄などかえりみない。彼らが怪我をし、病気になれば、治療をうけることも薬を買うこともできない。
 症状が悪化しても寝ころんで死を待つばかりである。朋輩たちも、それを当然のこととしてかえりみない。
 秀吉はそのような悲運に陥る者を憐れみ、日頃の貯蓄をはたいて医師の治療をうけさせ、薬を与えた。
 死に瀕していた下級兵士の一人を、秀吉が助けると、おなじ階級の兵士たち千人が、彼の味方になった。
 秀吉が組頭として、清洲城の塀のつくろい普請をするとき、三分の一の工程で完成させることができたのは、√部下を味方としていたためであった。
 他の組頭が普請を監督するときは、ひたすら怠業のみをこころがける男たちが、秀吉が組頭となったときは、別人のようにはたらいた。
 彼が信長から異例の抜擢をうけたのは、部下の信望を得たためである。他者への慈愛は、出世の階段を駆けのぼるための二つ目の条件であった。
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■家康は負けても最後に勝つ

<本文から>
 戦国大名は徳川幕藩体制下における大名とは、なりたちから違っており、間断なく前途に立ちふさがる敵を倒さねば、家門を存続できない運命を背負っていた。
 むらがる敵を倒し弱肉強食の乱世を生きのびてきた彼らは、それぞれの個性をその事蹟に残している。
 徳川家康は、慶長五年(一六〇〇)、五十九歳のとき天下分け目の関ケ原の戦いで大勝負するまで、主な戦いでは負けつづけといっていいほど、敗北をかさねている。
 彼でなければ一敗地にまみれ、歴史のうえから消え去っているはずである。
 だが家康は負けつつも家門を維持し、有力大名としての勢力を温存してきた。
 長距離マラソンで、先頭集団に加わっていながら、容易に首位に立たず、ゴール寸前に競争者をすべて抜き去る巧妙な戦法を、家康は意識してくりかえしてきたのだろうか。
 家康の特徴は、石橋を叩いて叩き割るほどの慎重な行動である。彼は周囲の人がうろたえ、逃げ去るような非常の危機に際し、その場に根が生えたように座りこむ癖がある。
 他の者が彼とおなじことをすれば、たぶん破滅したであろうが、家康はそのやりかたで生き抜いてきた。
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■家康は関ケ原では危うい状況であった

<本文から>
 福島、池田ら東軍諸将が、おりからの豪雨のなか、西上をはじめたのは七月二十六日であつた。
 家康は、出立してゆく彼らを眺めつつ、内心の怯えを近臣たちに語った。
 「左衛門大夫(福島正則)は先手となりしが、太閤の縁者なれば、二心を抱きおるやも知れず。さすれば、甲斐守(黒田長政)も誘われて奉行方に就くであろうな」
 近臣本多正信が進言した。
「福島殿に異心なきやを見さだめるには、黒田殿を道中より召し返さるるがよしと存じまする」
 正則に異心があれば、すでに長政を誘っている。長政が正則と通じておれば、呼び戻されても帰ってこないというのである。家康はただちに使者を走らせた。相模愛甲郡厚木で長政に追いついた使者は、家康の意を伝える。長政はただちに小山に戻り、家康はようやく安心した。
 家康は、長政に頼んだ。
「もし左衛門が心替わりいたすときは、そなたがいい聞かせてくれい」
 長政が依頼をひきうけたので、家康は引出物として、長久手の戦いのときに用いた羊歯の兜と梵字の采配を与えた。
 家康の立場は、そのような心配をしなければならないほど、あやうかったのである。五十九歳の家康は、天下分け目の大博打に命を賭けていた。
 成算など立てられる情況ではない。戦勢が非に傾けば、関東にたてこもるよりほかはなかった。
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■早雲は人心収穫が巧みであった

<本文から>
 北条氏の領国が富裕であったのは、初代早雲以来、租税を軽くしていたためである。
 当時の大名は、五公五民以上六公四民という租税を用いていたが、北条氏は四公六民の標準で課税し、そのほかには課役なども一切おこなわなかった。
 このため領民は安心してはたらくことができ、自然に産業がさかんになっていった。
 初代早雲は、人心収穫が巧みであった。延徳三年(一四九一)、五百の土真を率い伊豆に攻めいったとき、百姓たちは戯が押し寄せたと思い、山へ逃げた。
 だが、早雲は陣所の前に制札を立て、三力条の禁制を記した。
 一、空家に踏みこんで、物に手をかけてはならない。
 二、一銭の値打ちのある物は取ってはならない。
 三、伊豆国中の武士、百姓は、その在所を離れてはならない。
 この三法によって、住民の動揺はたちまち鎮静し、北条の領民になることをよろこんだ。ここに北条氏繁栄の基本となる、領民撫育策がさだまったのである。
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