津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          乾坤の夢 下

■家康の回顧、野戦の名人といわれた

<本文から>
  家康は鷹をつかいつつ、過ぎてきた月日をふりかえった。彼は野戦の名人といわれているが、生涯のうちで快勝したのは、関ケ原合戦と大坂冬、夏の両役のみであった。
 十九歳で桶狭間に出陣したときから、彼は合戦で勝ったことがなかった。天正十二年(一五八四)、四十三歳のとき、小牧長久手の戦いでは、一万六、七千の兵力で秀吉の十万の大軍を撃破した。野戦の名将といわれるようになったのは、そののちのことである。しかし家康はこのときも局地戦では勝ったが、結局秀吉の政治力に屈服した。
 家康は戦国乱世を、合戦に負けながら生き抜いてきた。彼は屈服しつつも、勝者に自分を高く評価させ、重用させる。
 敗北しても、損害を軽微にとどめているので衷亡することはない。自分を打ち負かした相手に従いつつ、わが力を温存して生きのびてきた。負けるが勝ちというふしぎな戦略で、難所を乗りこえてきたものである。
 家康は関ケ原合戦で、それまでの五十八年の歳月のうちにたくわえてきた不屈の闘志を、一挙にあらわした。
 −いま思うてみれば、農が傾がような鈍物がよくぞここまでやってきたものだで。やはり運気と申すべきかのん。運がなけりゃ、いままでのうちに死んでおりしがや−
 家康は孫のような少年の頼宣、鶴千代の手をとり、鷹のつかいようを覚えさせ、終日楽しんだ。 

■家康の名言

<本文から>
  彼らは忙しさに気が散らかっているが、しばらく日が経てば家康が去ったあとの大きな空虚に気づかされるのである。
 家康の遺訓は、慶長八年(一六〇三)正月十五日、六十二歳の春にしたためたとされている。
 自筆の原本があらわれていないので、側近の学者らが、まとめたものであろうと推測されているが、ひろく世に知られている内容はつぎの通りである。
「人の一生は重荷を負うて遠き道をゆくがごとし。いそぐべからず。不自由を常とおもえば不足なし。こころに欲おこらば、困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基、いかりは敵とおもえ。
 勝つ事ばかり知って、まける車を知らぎれば、害その身に至る。おのれを責めて人をせむるな。及ばぎるは過ぎたるよりまされり。
     慶長八年正月十五日
 人はただ身のほどを知れ 早の葉の露も重さは落つるものかは
 家康は長い人生の競争で、優勝者となることをおそれていた。頂上まで登りつめた者は、坂を下りてゆかねばならない。
 敗北をかさねつつ、勝者にわが立場を高く売りつけ、次善の地位を保ち生きのびてゆく戦略は、遺訓のなかに記されている。
 家康はさまぎまな名言をのこした。
「人を使うにはそれぞれの善所を用い、ほかの悪しきことは、叶わぬなるべしと思い捨つべし」
 家康は人材の必要を、ひたすら説いた。
「数寄道具、刀、脇差の類に、名物、名作、いかほども雑蔵の雑物の片隅に埋もれてありと聞かば、さだめて勢をだして取りだし、われに見せて悦ばせんと思わぬことはあるまじきぞ。器物は何ほどの名物にても、肝要のとき用に立たず。宝の中の宝というは、人に留めたり」
家康が人材を大切にしたのは、徳川政権の存続を願うためである。
 戦場で彼を打ち負かした名将たちの子孫は、おおかたが泡沫のように消え去っている。家康はわが子孫が、十五代にわたり将軍として、日本に君臨するとは想像していなかったのではあるまいか。

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