津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          乾坤の夢 上

■利家がいる間は待つしかない家康

<本文から>
「ただ利家だけが警戒を要する相手である。利家は織田信長の部将であった諸大名のゆるがない信頼を、あつめている。石田三成と犬狗の間柄である加藤清正、福島正則でえ、利家に刃をむけることはなかろうと、家康は見ていた。
 家康は北政所と親しい福島正則、加藤清正、浅野幸長ら尾張から出た武将と、淀殿に近い石田三成、長束正家、増田長盛ら近江出身の奉行との対立を利用し、豊臣政権の分裂をはかって漁夫の利を得る機をうかがっている。
 だが、利家は武将派、奉行派を統率して秀頼を守りたててゆく器量をそなえた、唯一の存在であった。
 家康は利家を中心とする豊臣勢力と戦うとしても、仕懸けられるのを待つほかはない。
 秀吉迫孤の秀頼に対し弓を引くことになれば、戦うための名分が立たなかった。
 「仕懸けられしときは、やってもよいが、それまでは待つほかはあるまい。まずは相手を釣りだすほかに、手はあらずか」
 利家には家康をのぞく三人の大老と五奉行のほか、加藤嘉明、浅野幸長、佐竹義宣、立花宗茂、小早川秀包、小西行長、長宗我部盛親が味方するにちがいなかった。 

■利長への謀略

<本文から>
  この事件は事実であったか否かは分からない。利長が淀殿と密通したという形跡は見当らず、諸事に慎重でともすれば乾坤一榔の好機をさえ見逃すきらいのある彼が、思いきった決断をするとは考えられない。
 また、大野修理亮、土方勘兵衝はともかく、浅野長政は家康と親密な間柄で、石田三成と疎遠であるのに、突然謀殺に加担するというのもうなずけない。利長も、利家生前から細川忠興とともに家康を支持し、三成を嫌っていた。
 このような疑問があるので、この事件は家康が自分に追随してくる増田、長束をもちい、讒言をさせ、前田家の声威をおとしめようとしたとの推測が生じてくる。
 家康が五大老のうちで、自分に対抗しうる唯一の存在であった利家の威望をうけついだ利長の勢力を、なんらかの手段で減殺したいと考えをめぐらし、このような事件をつくりあげたと見るのである。
 このような見方も根拠のないことではない。事件発覚のあと、家康謀殺に関与したされる浅野長政は武蔵八王子に蟄居させられたのみで、重罰をうけていない。
 土方雄久は常陸の佐竹義宣に預けられたが、慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原開戦の直前に許されている。大野修理亮治長は下野結城へ流罪となったが、おなじく関ケ原役のまえに許された。
 彼らが謀殺をたくらんだのが芙であれば、執念ぶかい家康はかならず破滅に追いこんだにちがいない。
利長がもし家康に対抗して決起すれば、天下の形勢はどの葺に変化したか。おそらく家康は利長に呼箸る大坂方の大兵力に包警れ、絶体絶命の窮地に立たされたであろう。家康謀殺は、前田利政がくわだてたとする説もある。利政は家康対決する慧を常家康の出様しだいではいつでも合戦に応じる支度をととのえていた人物である。
 家康は下手に刺激すれば、藪つついて蛇を出す結果となりかねない危険を覚悟で、利長を桐喝したわけである。
 家康の動さの君には細川忠興がいた。忠輿は利良が家康の疑いをうけ、憤激して決戦の覚悟をさめたとさには、説得する役割をうけもっていた。家康は優柔不断の利長が、忠輿に諭されたときはたやすく軟化するであろうと読んでいたのである。

■三成の人質政策は失敗、秀吉のような器量がないため

<本文から>
 西軍の士気は旺盛というわけではなかった。諸将はさまぎまな思惑を抱いている。石田三成に反感を抱いている者も多かった。三成は豊臣政権の奉行として、秀吉遺訓に背いた家康討滅の師をおこすに際し、恩顧の大小名が参陣するのは当然であると考えていた。
 諸将は利によって動くものであり、大義名分は欲望を糊塗する飾りにすぎないという現実を、家康はわきまえており、三成は忘れていないまでも軽視した。
 三成は強大な豊臣政権で、秀吉の懐刀として才腕をふるう時期が長かったので、気づかないうちに、尊大、傲岸の気風が身についていた。
 家康に従い東下した諸大名が、家康方に就いているわけでもないのに、大阪に残留している彼らの妻子を人質として大阪城へ入れようとしたことも、人情を解しない措置であった。
 大坂と他の地域との交通を遮断すれば、城下の屋敷にいる諸大名の妻子はそのまま西軍の人質となる。なかには逃走する者もいるであろうが、おおかたは残るであろう。
 だが三成は人質を引きたて、城内に監禁し、反豊臣方の大小名を牽制、威嚇しようとした。彼は人質を引きたてるとき、抵抗する者があればみせしめとして殺害してもよいと命じる強硬姿勢を見せた。
 その結果、細川ガラシャの事件がおこり、家康と東下した諸大名のうち、豊臣方へ戻るか中立したであろう者まで激怒させ、徳川方の勢力を増大させることとなった。
 このような失敗は、三成の武将としての感覚が欠けているためにおこったと考えぎるをえない。
 人質政策は秀吉が多用しているが、三成が秀吉のまねをして成功すると決ってはいない。器量の大小によって、政策を受容する側の反応が追ってくる。三成には、他人をたらしこむ秀吉の魅力がそなわっていなかった。

■家康は関ヶ原合戦がはじまってのちの展開は読めなかった

<本文から>
「「家康にも、合戦がはじまってのちの展開は読めない。両軍あわせて十五万の軍勢が激突するのである。
 しかも家康は、合戦に際しての布陣を、自らの采配によっておこなうことができなかった。東軍主力の豊臣系客将たちを、わが家来のように動かすのは不可能である。
 気にいらないことがあれば猛虎のように憤怒を爆発させる福島正則が、一番の難物である。彼の面目を損じるような命令を下せば、敵前で同士討ちをやりかねない。
 家康はこれまでの五十九年の生涯で、針のめどをくぐり抜けるような難関を、幾度も越えてきた。
 敵と命の迫り取りをする合戦では、どれだけ策謀を練っても、偶然に賭けなければしかたのない条件が、かならず残る。読みをかさねたのち、なお曖昧な状況が残っていても、生死を分ける決断をあえてするか否かは、武将の勇気気にかかっている。
 家康は事がまかり違えば、死ぬ覚悟をさめていた。いかなる変化がおこっても、できるかぎりの善戦をしてみせる。どうしても挽回できない窮地に追いつめられたときは、死ぬだけであった。
 数も知れないほどの敵味方が討死にするさまを見てきた家康には、死は人をすべての苦痛から解き放ってくれる、永遠の眠りであると分っている。
 −農が死ねば、秀忠が弔い合戦をしてくるるだわ。あとのことを、思い悩むまでもなし−
 家康は馬を西へ進めるにつれ、胸苦しいばかりに湧きあがってくる恐怖の金気くさいにおいを呼吸する。彼はそのにおいに慣れており、気がたかぶってくればとてれだけ頭が冴えわたり、状況判断が鋭敏になってくる。
 東軍先手の福烏隊が関ケ原に到着したのは、寅の七つ半(午前五時)頃であった。前夜からの雨はまだ降りつづき、濃霧が垂れこめ、一間先も見えない。
 冷えこみのきびしい、山間の夜明けであった。遠近で鶏鳴が聞えている。
 突然、静寂をやぶって誰何の叫び声があがった。
「そこにおるは何者じゃ。敵か味方か」
「なにを、おぬしどもこそ、いずれの人数じゃ」
 するどい応酬がとぎれると、まばらに銃声がはじけた。
 福島隊の先頭が、西軍後尾の宇喜多隊小荷駄と接触したのである。両軍はいったん霧のなかへ退き、たがいに斥候を出して前方を偵察した。
 東軍はただちにその場に停止し、霧のはれるのを待った。東軍の斥候が、西軍諸隊の関ケ原の高所に散開布陣し、中仙道を托して東軍迎撃の態勢むととのえているのを偵知してくると、街道に停止していたおよそ七万の士卒は、丸山から関ケ原西端に散開布陣し、霧がはれるときを待った。
 家康は西進の途中、先行諸隊からの注進を受けつつ関ヶ原に達した。後は西軍布陣の状況を偵察させてのち、本陣を桃配山に置くことにした。

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