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<本文から> 角栄の側近にも、おなじことをいう者がいた。
「彼は豊臣秀吉でなく、織田信長だ。信長と違うのは、田中には比叡山の焼き討ちができないことだ」
昭和五十八年十二月十八日の選挙の日は、朝から雪が目路を覆って降りつづいていた。地元の越山会長はいった。
「この雪で、田中票はまちがいなく出るぞ」
角栄は″雪の選挙″で負けたことがない。開票がはじまると、たちまち五百票で角栄の当確がきまった。
角栄はただちに佐藤昭子に電話をかけた。
「ありがとう。お前のおかげだよ」
得票数は二十二万七票十一票に達した。角栄の得票率は四六・六%。三区の他の当選者は、すべて四万票台にとどまった。
角栄の大量得票は、九万五千人の越山会を中心として、恩返し票の結集をはかった結果であった。
系列に属する十三人の県議、三百人を超える市町村会議員に、各自の後援会票を導入させる。また地元建設グループの徹底した集票運動が功を奏した。
角栄はこれまでの越山会員を対象とした辻説法から、各市町村のミニ集会に戦術を変え、圧倒的な反響を呼びおこす角栄節を語りつづけた。
その結果、戦後三十年間、辺境に光を与えつづけてきた角栄への恩返しの感情と、逆境への同情が、越山会も予想しなかった大量得票につながった。
実刑判決、政治倫理の弱点を吹きとばすこの結果は、角栄の最後の残照であった。
新潟県の投票者の二人に一人が田中と書いた結果は、世論をゆるがすに十分なものであった。
角栄は県下三十三市町村で、二位以下を大きく引きはなす、圧倒的な勢いをあらわした。
大票田である長岡市でも、前回の二万一千票から四万三千票台への、おどろくべき躍進を示した。
中央では角栄の得票は地元への利益誘導と簡単に割りきるが、中央中心に政治が進められてきたことへの地方の反感は、そこに住む者でなければ分からない。
中央マスコミの激しい政治倫理の攻勢を吹きとばし、角栄を支持したのは、住民たちが彼を身内とするつよい連帯感であった。 |
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