津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          異形の将軍 田中角栄の生涯 上

■実刑判決後の選挙−大量得票で当選

<本文から>
角栄の側近にも、おなじことをいう者がいた。
「彼は豊臣秀吉でなく、織田信長だ。信長と違うのは、田中には比叡山の焼き討ちができないことだ」
 昭和五十八年十二月十八日の選挙の日は、朝から雪が目路を覆って降りつづいていた。地元の越山会長はいった。
「この雪で、田中票はまちがいなく出るぞ」
 角栄は″雪の選挙″で負けたことがない。開票がはじまると、たちまち五百票で角栄の当確がきまった。
 角栄はただちに佐藤昭子に電話をかけた。
「ありがとう。お前のおかげだよ」
 得票数は二十二万七票十一票に達した。角栄の得票率は四六・六%。三区の他の当選者は、すべて四万票台にとどまった。
 角栄の大量得票は、九万五千人の越山会を中心として、恩返し票の結集をはかった結果であった。
 系列に属する十三人の県議、三百人を超える市町村会議員に、各自の後援会票を導入させる。また地元建設グループの徹底した集票運動が功を奏した。
 角栄はこれまでの越山会員を対象とした辻説法から、各市町村のミニ集会に戦術を変え、圧倒的な反響を呼びおこす角栄節を語りつづけた。
 その結果、戦後三十年間、辺境に光を与えつづけてきた角栄への恩返しの感情と、逆境への同情が、越山会も予想しなかった大量得票につながった。
 実刑判決、政治倫理の弱点を吹きとばすこの結果は、角栄の最後の残照であった。
 新潟県の投票者の二人に一人が田中と書いた結果は、世論をゆるがすに十分なものであった。
 角栄は県下三十三市町村で、二位以下を大きく引きはなす、圧倒的な勢いをあらわした。
 大票田である長岡市でも、前回の二万一千票から四万三千票台への、おどろくべき躍進を示した。
 中央では角栄の得票は地元への利益誘導と簡単に割りきるが、中央中心に政治が進められてきたことへの地方の反感は、そこに住む者でなければ分からない。
 中央マスコミの激しい政治倫理の攻勢を吹きとばし、角栄を支持したのは、住民たちが彼を身内とするつよい連帯感であった。
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■子どもの時から浪花節調の話を聴衆を魅了した

<本文から>
 先生はやがて角栄の信じられないほどの記憶力におどろかされた。
 浪花節は、ゆるやかな節まわしで唄うくだりと語るくだりが交互につづく。唄うというよりも唸るような声で、人情話や任侠、剣客の話をおもしろくまとめ、一席について三十分から一時間のあいだ、聴衆をひきこむ。
 ござのうえに座布団を敷きつめ、肩をふれあわせる満員の聴衆は、蜜柑や饅頭を食い、あるいは徳利の酒を飲みながら、苦難の人生に対しひらきなおったような、どこか酢欝な感じのする唸り声に、開放感を味わう。義理人情、度胸ひとつの世渡り話を、わが身につまされて聞くのである。
 角栄は、はじめて聞いたチョンガリが記憶に焼きついてしまった。
 彼は、たった一晩聞いたチョンガリの物語と節まわしを、吸いこむように脳裡にたくわえ、昼休みの時間に語りきれない部分は、翌日、またその翌日と聞かせつづけた。
 同級生たちは角栄の熱演にひきこまれ、言葉もなく聞き惚れていた。
 金井氏は、のちに新聞や雑誌などに語っている。
 「とにかく、とほうもない記憶力でした。浪曲などにはまったく興味を持たない、若い教師の私でしたが、ひと晩であれだけのことを頭に詰めこめるとは、驚きというより、いいようがありませんでした」
 のちに、コンピューター付きブルドーザーなどと評される角栄の非凡な記憶力は、この時分から芽生えていたのである。
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■叱咤激励よりも温情を知ったエピソード

<本文から>
 角栄には、その頃の忘れられない思い出があった。ある夕方、かなり遅い時間になって、高島屋から、紫色に深い切り子のあるガラスの果物鉢四、五個を、至急届けてほしいと電話がかかった。
 電話を受けたのは角栄である。彼はその頃、主人に相談せず、自分で注文をうけ、品物をえらび、包装、納品することを任されていた。
−高島屋に納品してから登校すれば、授業に間にあわねえが、仕方がない。少々遅刻するか−
 角栄は注文品を急いで包装し、自転車の荷台にくくりつけ、店を飛びだし、満身の力でペダルをこいだ。なるべく遅刻をすくなくしたい。
 宮城の前を、馬場先門にむかい右に曲がろうとすると、荷の重みでバランスを失い、自転車に乗ったまま横転してしまった。
 角栄は、しまったと痛さを省みずはね起きたが、自転車の荷台のガラス鉢はこなごなに砕けていた。
 彼はすぐ琴平町の店へ引きかえし、注文された品物を同じ数だけ包装し、高島屋へ届け、学校へ遅刻出席した。
 こわれたガラス鉢は、原価にしても角栄の月給の三、四カ月分の価値があった。
 講義を終え、店に戻ると角栄は五味原氏に昼間の失放を報告し、軽率な行いを詫びた。
「大事な商品を破損させ、まことに申しわけがありません。こわれた鉢の原価は、月割りで給料からさしひいて下さい。私は月給の半額だけいただけば、学校の月謝には事欠きません」
 五味原氏は、角栄が予想もしていなかった返事をした。
 「怪我がなくて、なによりやった。おとくいさんに代わりの品をすぐ届けてくれたのは、ありがたかったよ」
 奥さんも、角栄をなぐさめた。
 「くよくよしなはんなや。稼いだら損は取り返せるんや」
 夫婦は、角栄の月給から弁償金をとりたてようとしなかった。
 角栄はこののち、不注意による他人の過失は、絶対に咎めないでおこうという原則を、心にきめた。
 五味原夫妻の寛大な扱いによって奮起した角栄は、損失をつぐなって余りあるほどの販売実績をあげた。恩をうけた者は、それにもまして感謝を返す気持ちになるという事実をも角栄は知った。
 彼は人を動かすには、きびしい叱咤激励よりも温情がはるかに勝っていることを、肝に銘じた。
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■八歳年上のはなと結婚

<本文から>
 坂本はなは、これまで幾度か見合いをしたことがあったようだが、話がまとまらないまま、いまに至っていた。
 角栄が昭和十七年正月の年賀に坂本家をたずねると、おばあさんが頼んだ。
「田中さんのお店に出入りしていらっしやるお人のなかに、これはいいと思う男性がいたら、はなの婿にお世話下さいませんか」
「分かりました。心がけておきましょう」
 角栄は答えながら、はなさんであれば、私が妻にもらいうけてもいいという考えに、突然とらわれた。
 それまでは、はなのために良縁をみつけようと努力した角栄が、八歳年上の彼女と結婚する結果になった。
 三月三日、桃の節句の日に、二人は他人ではなくなった。戦況が苛烈になってきた折柄、角栄とはなは、結婚式も披露宴もあげなかった。
 口数のすくない、ひっそりと物静かなはなは、その夜、角栄に三つの誓いをたてさせた。一つは、家を出ていけといわないこと、二つは足蹴にしないこと、三つは、将来角栄が二重橋を渡る日があれば、彼女を同伴することである。
 当時、庶民が二重橋を渡り、宮内へ参内することは、ふつうではありえないことであった。はなは角栄が政治家になるとは思っていなかったであろうし、実業家として大成功する人物であると、見込んでいたのであろうか。
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■徹底した情報収集と分析

<本文から>
 角栄は、選挙部長に抜擢された。先輩議員が公職追放で頭上がガラあきになっていたので、一年生の陣笠が、いきなり要職を与えられた。角栄はそれまでに、資金集めで抜群の能力を発揮していたからである。
 角栄は選挙部長になると、すぐさまその異能をあらわしはじめる。
 民自党所属議員の生年月日、学歴、家族構成、人脈、資金力を調べあげ、さらに選挙区の人口構成、有権者数、支持率、選挙区の産業構造、所得水準まで、調査をゆきとどかせる。
 敵対する政党の所属議員についても、同様の調査をする。その一覧表を持って民自党の会議にのぞみ、数字に裏打ちされた戦法の意見を述べる。
 そこまで詳細な調査をすれば、敵陣営をつき崩すための要領が、誰にでもよく分かる。
 織田信長は、戦いの勝敗は戦場へ出撃するまでに七割がきまっている、戦場で決するのは残りの三割だといったが、角栄のやりかたも、おなじような、徹底した情報収集、分析の戦略であった。
 吉田茂は、大政党の首領としての、茫洋とした懐のふかさをそなえていたが、角栄のような撤密な感覚を持ちあわせていないので、よろこんだ。
「田中は現実をきわめてよく把握している。あれは視野の狭いインテリにはない感覚だな」
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■収入に乏しい地域に足を運び味方にした

<本文から>
 新潟県でもっとも収入に乏しく、半年は深い雪に埋もれている魚沼の人々は、角栄を自分たちの味方であると思った。
 豪雪のなか、ソリに乗ってどんな奥地の集落にも姿をあらわし、煤けた民家の囲炉裏ばたで、あぐらをかき、話を聞いてくれる人が十人足らずであっても、熱心に雄弁をふるう。
 「あんたがたが、俺にいちばんやってほしことはなんだ。なんでもいいなせ。それを命がけでなし遂げるのが、この田中だんが」
 いなかの重立ちと呼ばれる人々は、それまで代議士を村に迎えたことはない。
 角栄は、膝まで埋まるような雪のなかを、汗みずくで歩いてきて、渋茶をすすって寒村がもっとも求めているものは何かをたずねた。
 旦那衆代議士には相手にされなかったいなかの村長たちは角栄を落選させてはならないと、本気で思うようになり、彼らが手をむすびあったおかげで、角栄は当選した。
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■三木、福田、大平、中曾根らの抽象世界で生きた人でなく、徹底したリアリスト

<本文から>
 国会便覧をパラパラめくりながら、
「あと二十年もたてば、これらの人たちはいなくなるな。俺は二十五年たてば永年勤続表彰で、黙ってたって少なくとも衆議院議長にはなれるよ」
 といったことがあると、昭子は当時を回想している。
「三十代で大臣になり、四十代で幹事長、五十代で総理になる」
 という、巷間に流布したような言葉を口にするような人柄ではなかったと佐藤は記す。
 近年、後藤田正晴氏が、歴代総理大臣の評価をしたとき、田中角栄は特別の大器、異能の人であったと語っているのを、目にしたことがある。児玉隆也は、角栄の本質を『淋しき越山会の女王』で、鋭敏につかんでいる。
 独学者の条理は、好きなもの、必要なものはやる。嫌いなもの、必要でないものはやらないに尽きるというのである。
 福田剋夫、中曾根康弘らが弊衣破帽の旧制高校生として、カントの原書を手にし、いかに生くべきかの、抽象世界の陶酔に身を浸し、大学を卒業して、高文をパスし官僚になったとき、角栄は官僚に頭をさげ注文をもらう土建屋であった。
 三木、福田、大平、中曾根らは、抽象世界でともに生きた友が、全国にあるが、角栄はわが力のほかに頼るものもなく、人の心さえ金で買えるという世界に生きてゆく。その結果、敗戦後に二十代で、全国五十位以内の土建会社をもち、総裁選に献金した。
 独学で待ったなしの人生を歩いた人間は自分と同質、亜流の人物を好まない。強烈な自負心が、激しい劣等感とうらはらにあらわれる。
 児玉隆也は書く。
 「だから、異質の飼い慣らされて訓練豊かな行政経験を授かった人間(官僚)の力を、彼ほど正確に評価し、利用する人間はいない」
 「彼は、福田や三木の″かくあるべき″にとらわれない。″こうある。これをどうするか″と考える現場処理の天才である。彼はもっとも日本的な政治家と評されるが、彼ほど″ニコボン″にほど遠い政治家はいない」
 角栄は、自分の置かれた立場を正確に理解し、一瞬のためらいもなく目標を見さだめ前進する、徹底したリアリストであった。
▲UP

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