津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          「本能寺の変」はなぜ起こったか−信長暗殺の真実−

■信長は合理的思考法の持ち主

<本文から>
  信長はまた、学問と名のつくことはいっさい嫌いであった。だが、実戦に役立つ武芸鍛錬は、常におこたることがなかった。
 『信長公記』が記すところによれば、十六から十八歳ころまでは、毎日朝夕は馬を責め、旧暦三月から九月までは同様毎日川に入り、泳いで体を鍛えた。弓を市川大介、鉄砲を橋本一巴、剣術を平田三位といったように、それぞれ当時一流といわれた師匠につき、稽古に励んだ。また野を駆けめぐり、鷹浦川などもよくしたという。
 信長はいつのころからか、尾張の国人や土豪たちの次男、三男を近習としてまわりに集め、号令一下、手足のようにはたらく集団に鍛え上げていった。河尻与兵衛(秀隆)、 佐々内蔵助(成政)、前田又左衛門(利家)、塙九郎左衛門(原田直政)らが代表格だが、のちに彼らは信長馬廻衆となり、さらには一隊を率いる部将としてはばたいていく。馬廻りは信長の命令に絶対服従で、オスマン帝国の皇帝親衛隊「イェニチェリ」を想像させる精強無類な攻撃部隊であった。
 信長は折々、近習たちを二組に分け、印地打ちや竹やりの叩きあいをさせて鍛えるのだが、あるとき竹やり合戦では長短あれば、より長いほうが威力を発揮することに気づいた。
 鎧も同様だと考えた信長は、「鎧の柄は三間か、三間半くらいの長さにせよ」と命じ、みなその長さにそろえさせた。当時の鑓としては異例の長さだが、これがその後の戦いで威力を発揮することになる。独創性と実証性を大事にした信長らしい創案であった。
 信長は自分の目で見、見たことのみを信じ、そこから深く考え込んで真実に近づいていく。優れた科学者のような合理的思考法の持ち主、それが信長だった。 
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■姉川の戦い後−正常な神経が冒されはじめていた信長

<本文から>
  正面床の間の棚に置かれた三個の折敷には、真昼のような燭台の郎欝を照りかえす、黄金色の壷のようなものが置かれていた。
 「あれは何でや、黄金の壷か」
 目をこらしていた侍衆のあいだに、やがてどよめきがひろがる。
 折敷の上のものは、朝倉義景、浅井久政、浅井長政の首級であった。京都で具した三人の塩漬けの首級は肉が腐りおちたのち、漆でかためられ、金泥で彩色する薄濃を施されたのである。
 柴田勝家をはじめ重臣たちが進み出て、義景、久政、長政の名札をつけた黄金色の首級を見て、口々に祝詞を述べた。馬廻衆の若侍たちも、列をなして三人の首級のまえを通り、拝見する。
 誰もが信長の奇抜としかいいようのない趣向におどろかされ、なかば不気味な思いをあじわう。
 私はこのころから、信長の正常な神経が冒されはじめていたのではないかと見ている。すでに比叡山延暦寺を焼討ちし、僧俗問わず、老若男女数千人を虐殺していたが、この岐阜城における饗宴ののち、信長は伊勢長島、越前で一向一揆勢をいずれも数万人規模で殺戮。さらには荒木村重の叛乱に際しては、侍衆に加え、百十数人におよぶ女房衆、さらには子供にいたるまで五百余人を皆殺しにするという、残虐きわまりない行為を実行にうつしている。
 このころには信長の神経は焼ききれてしまい、正常さを保ちえなくなっていた証であろうと、私は考えるのである。
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■佐久間父子追放など平静を失っていた信長

<本文から>
 佐久間父子追放ののちも、間なしに武将たちの肝胆を寒からしめる、信長の苛欽誅求の人事があいつぐ
 八月十七日、京都へ戻った信長は、家老の林通勝と重臣安藤伊賀守父子らの知行を召しあげ、追放し。
 通勝の罪科は、二十五年ほど前の弘治二年(妄五六)、柴田勝家とともに弟勘十郎信
行を織田家の家督になおそうとはかったことであった。
 しかしこのことにしても、通勝はそののちは一貫して信長に忠誠をつくしているし、仮に通勝の罪を問うならば、ともに信行を押したてて戦った柴田勝家も同罪でなければおかしい。
 通勝の子息林光時は「槍林」の異名をとる勇士で、信長もその勇猛を愛でた武将であったが、光時は天正元年(一五七三)九月、信長が伊勢長島に一向一揆を攻め敗れたとき、殿軍として奮戦し討ち死にしている。自分のために命を的に戦った武将の一家をも無情にも追放するというのでは、何のために戦うのか。摩下部将は死んでも死にきれない。
 西美濃三人衆の随一といわれた安藤伊賀守の罪状は、永禄十年(一五六七)、信長の北伊勢出兵時に、武田勢を美濃に引きいれようとしたことであるという。ことの真偽もさだかではないうえに、その後も安藤伊賀には信長を裏切るような動きは見られず、美濃先方衆の一人として常に前線で忠節をつくしている。
 長い年月を、生死をともにして難敵に当たってきた重臣に対する信長の仕打ちが、常軌を逸しつつあるのをみた家中の上下は、戦々恐々として主人の意をむかえようとした。なかには、命を的に戦った挙句、佐久間や林、あるいは安藤のような目に遭うのなら、下克上の動きも覚悟せざるをえまいと考え、心の奥深くにその思いを仕舞いこんだ者もいたにちがいないと、私は想像する。
 天下統一をはばむ最大の難敵であった本願寺を制圧し、心の重荷がとりのぞかれた信長は、気が高ぶり、平静を失っていた。元来、偏頗の趣があった精神が、平衡を欠きはじめていたといってもよかろう。
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■謀反のうわさを知っていた信長は光秀を信じていた

<本文から>
 信長にはあからさまに、四国攻めを契機に光秀を追い落とそうという考えなどなかったにちがいない。もしあったとすれば、恨みを抱いているはずの光秀が大軍を擁して待ちかまえている京都に、わずかな手勢でやってくるはずがない。警戒は厳重をきわめたはずである。
 しかし光秀の受け止め方はちがった。佐久間信盛の運命が遠からず自分の身を襲うのではないかという想念に蝕まれ、いかに振り払おうとしても、振り払えないのである。
 信孝とともに四国征伐に向かう三好康長は、故長慶の叔父で、三好三人衆とともに信長に敵対したが、秀吉の斡旋で許されたという前歴があり、しかも秀吉の甥雰次が康長の養子になっていた。
 中国戦線で大戦果を上げたライバルが、四国経略でも存在感を強めてきていることがまた、光秀の焦りを一段と誘うのである。
 五月十四日、信長は光秀を城内二の丸に呼び寄せ、在荘をもうしつけた。在荘とは、非番休暇のことである。
 「そのほう、甲斐攻めの疲れも残っておろうでや。明日より当分のあいだほ在荘いたし、気ままにすごすがよからず」
 信長は、西のほうから光秀謀叛の噂がしきりと流されているのを知っていたようである。またこの数日前には、京都所司代村井貞勝から、備後輌にいる将軍義昭の使者が、誠仁親王の下御所に入ったという知らせをえていた。
 朝廷内には、義昭と交流を持ち、何とか信長を失脚させたいと考えている公家がいることを、信長は認識していた。
 だが、信長は光秀を疑うことはなかった。
 義昭や公射衆、あるいは上京焼討ち、法華宗弾圧により信長に積年の恨みを抱く京都町衆が、いかに陰謀をたくらんだところで、隆車に向かう蝶郷のたとえの通り、織田政権を微動もさせられない。
織田政権をゆさぶろうと、かつて義昭につかえたことのある光秀が謀叛するなどという風聞を流しているが、それは笑止なことであった。
 四国経略からはずしはしたが、まだまだ光秀は使える男である。いったんはおとしめたものの、信長は光秀を哀れに思い、当分のあいだ在荘することを許したのである。
 ところが、椿事が発生した。
 嫡子信忠が家来五百騎を率い甲斐から凱旋してきた翌日の五月十五日、安土城に珍客が到着、光秀の在荘ほ取り消されることになる。
 徳川家康が、武田の降将穴山梅雪とともに、十数人の近臣を従えたのみでおとずれたのである。
 家康は駿河一国加増の恩を謝し、梅雪は旧領安堵の礼を申し述べるための来訪である。
 信長は家康が献上した戦勝祝賀の品々に、彼の誠意を読み取り上機嫌であったが、予想よりは早い到着だったのだろう、在荘を申しわたした光秀に饗応役を申し付ける。
 光秀はこのときまだ坂本城に帰っておらず、山下の屋敷にいた。
 家康が安土城を訪問した時点で、山下の屋敷にいた重臣は光秀と惟住長秀だけであった。長秀は十四日には番場宿に仮殿を建て、家康一行をもてなしているが、四国渡海の準備できわめて多忙であった。
 そのためこのような行事に適任であることもあり、光秀が単独で饗応の役をつとめることになったわけである。ただし光秀の在荘申しわたしと取り消しとは、数日前のことだったかもしれない。
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■怒りを抑えられず、妄想から現実的構想へと転じた本能寺の変

<本文から>
 いつもであれば、何とかその屈辱を押さえ込むことができるのに、今度ばかりは怒りが胸奥にこびりついて、いかに消そうとしても消せない。四国征討からはずされたことを考えると、怒りの炎は以前にも増して燃え上がり、それをようやく消したかと思うと、近江坂本と丹波を取り上げ山陰へ移れという命令が思い浮かんで、またまた怒りが大きくなる。くわえてこれからのことを考えると、不安が募る。秀吉に追い抜かれ、織田家中における自分の位置が軽くなるだけでなく、ついには佐久間信盛らのように身二つで追放に処せられるかもしれないとの暗い想像まで湧いてくるのだ。
憤りの一方での恐怖。ついに光秀の脳は、信長を討つという情報以外に受け付けなくなる。そうした折もおり、中国出撃の準備をしていると、信長がごく少数の家来だけを連れて上洛するとの情報が伝えられ、光秀は千載一遇の好機到来だと胸を躍らせるにいたった。周囲には自分以外に、巨大な武力を有する者はいないのだ。
 だが、長年信長の下で行動してきた光秀は、まだそれだけでは信長打倒を決意できない。鬼神のような信長のことである、いかなる反撃策を用意しているかわからない。光秀はいかなる状況になっても、信長を討ちとり、自らが天下に号令することができるような状況をつくろうと考えを巡らせる。悪逆な信長、その人物を打倒して天下を取る−そうした大義がなければ、天下取りは惨く潰えてしまうだろうことは、光秀とてわかっていた。
 脳裏で味方を数え上げる。丹波や坂本の明智勢はまず裏切ることがない、光秀の虎の子部隊である。山城の幕府奉公衆も、長年の交誼があるだけでなく、信長への遺恨もあり、光秀につくはずである。もちろん大和の筒井、丹後の長岡(細川)も心強い味方である。彼らが一国の主になれたのは、光秀の助力があったればこそである。特に長岡藤孝とは越前以来の長年の交友があり、嫡男忠興の妻は光秀の娘玉である。その関係からいっても、裏切るはずがない。
 彼らを中核に、近江、畿内、尾濃と順次、同盟者を増やしていけば、柴田勝家といえども、羽柴秀吉といえども、簡単に反攻には転じられまい。いな、我らと上杉、我らと毛利とで挟撃すれば、彼らの運命も知れたものだわと、光秀は考える。
 こうして光秀の信長討ちは妄想から、現実的構想にと転じていったのではいかと、私は考えている。
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