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<本文から>
信長はまた、学問と名のつくことはいっさい嫌いであった。だが、実戦に役立つ武芸鍛錬は、常におこたることがなかった。
『信長公記』が記すところによれば、十六から十八歳ころまでは、毎日朝夕は馬を責め、旧暦三月から九月までは同様毎日川に入り、泳いで体を鍛えた。弓を市川大介、鉄砲を橋本一巴、剣術を平田三位といったように、それぞれ当時一流といわれた師匠につき、稽古に励んだ。また野を駆けめぐり、鷹浦川などもよくしたという。
信長はいつのころからか、尾張の国人や土豪たちの次男、三男を近習としてまわりに集め、号令一下、手足のようにはたらく集団に鍛え上げていった。河尻与兵衛(秀隆)、 佐々内蔵助(成政)、前田又左衛門(利家)、塙九郎左衛門(原田直政)らが代表格だが、のちに彼らは信長馬廻衆となり、さらには一隊を率いる部将としてはばたいていく。馬廻りは信長の命令に絶対服従で、オスマン帝国の皇帝親衛隊「イェニチェリ」を想像させる精強無類な攻撃部隊であった。
信長は折々、近習たちを二組に分け、印地打ちや竹やりの叩きあいをさせて鍛えるのだが、あるとき竹やり合戦では長短あれば、より長いほうが威力を発揮することに気づいた。
鎧も同様だと考えた信長は、「鎧の柄は三間か、三間半くらいの長さにせよ」と命じ、みなその長さにそろえさせた。当時の鑓としては異例の長さだが、これがその後の戦いで威力を発揮することになる。独創性と実証性を大事にした信長らしい創案であった。
信長は自分の目で見、見たことのみを信じ、そこから深く考え込んで真実に近づいていく。優れた科学者のような合理的思考法の持ち主、それが信長だった。 |
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