津本 陽
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          本能寺の変

■イエズス会の日本人の報告

<本文から>
 彼は光秀と気があい、諸国放浪のあいだにたまたま明智家に逗留し、およそ一年ほど足をとどめ、抱え素破のような生活をしていた。太郎妨の仲間には、近江醒ヶ井の葦駄天という早駆けの達者がいた。
 葦駄天は秀吉の抱え素破で、羽柴家の内情を知っている。章駄天と太郎坊は、たがいに情報を交換しあっているので、光秀には秀吉の内情があらまし分っていた。
 秀吉は近習たちに、賄賂をしきりに贈っていた。そのため、近習たちは彼の失策を信長に届け出ず、手柄だけを言上する。
 信長は近習たちのいうことを、すべて信用するわけではない。深海にひそむ魚のように、まったく人の噂にものぼらない、秘密の情報網をそなえているので、近習たちが隠す事柄を知って知らぬふりをしている。
 ただ彼らがかばい、その長所を褒めあげる秀吉のような部下は、もともと信用しているだけに、寛容に扱い、その能力を十二分に活用するほうが、得策だという考えを持っているので、欠点、失敗をも、見逃せる性質のものは見逃してやる。
 天正五年(一五七七)、京都下京四条坊門通室町姥柳町に建てられた、南蛮寺にいたイエズス会マカオ巡察使オルガンチーノは、当時の日本人について、教団への報告書に記している。
 「日本人は全世界でもっとも賢明な国民であり、彼らはよろこんで理性に従うので、われら一同よりはるかに勝っている。(中略)
 彼らと交際する方法を知っているものは、彼らを己れの欲するように動かすことができる。
 これに反し、彼らを正しく把握する方法がわからぬ者は、おおいに困惑ずる。この国民は、怒りをおもてにあらわすことを極度に嫌う。
 彼らはこのような人を気短い、すなわちわれらの言葉で小心者と呼んでいる。理性にもとづいて行動せぬ者を、彼らはばか者と見なし、日本語ではスマンヒト、すなわち『澄まぬ人』と呼ぶ.彼らほど賢明、無智、邪見を判断する能力をもつものはないように思われる。彼らは必要でないことを表にあらわさない。はなはだ忍耐づよく、交際においては非常にていねいである。(中略)
 彼らはたがいに、おおいに褒めあう。
 通常、誰も無愛想な言葉で他人を侮辱せず、筈で人を罰しない。
 もし誰か召使いが主人の耐えられないほどの悪事をはたらくときは、主人はまえもって何らの憎悪や激昂の徽をあらわすことなく、彼らを殺してしまう。
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■信長は天皇の特権の歴を変えようとする

<本文から>
 上さまは、誠仁親王御即位のあとに官位を腰戴するつもりではないかという者もあれば、御即位は上さまの思し召しのままに進められるはずだから、はかの理由があるのだろうと反論する者もある。
 信長は勅使側のたっての願いにより、五月六日に女官たちと面会をしたが、座官をうけいれるとはいわなかった。
 その日の夕刻、信長は琵琶湖に三膿の大船を出し、勅使軋饗応させ、そのまま大津へ送りかえさせた。
 信長は、それまでに朝廷を恐れさせる意思表示をしていた。天正十雪山月、甲州平均に出馬するまえに、暦の改正をするといったのである。
 中国古来の思想では、暦は天子が制定することになっている。
 日本でも古代から朝廷の陰陽寮で、陰陽頭が暦をつくつてきた。陰陽頭には、土御門家が世襲で任命され、全国の陰陽師を統率している。
 土御門家のこしらえる京暦は、全国の暦の基準となるべきものであったが、天正年間には地方により、京暦とことなる暦を用いるところもあった。
 信長が京歴にかえて使おうとしてのが、尾張、虚張、美濃で用いる三島暦である。
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■信長が上京によって光秀に命を預けた状態に

<本文から>
 信長は蒲生賢秀を安土城留守居とし、五月二十九日にわずか数十人の近臣とともに京都に入り、四条西洞院の本能寺に泊る予定であった。長子信忠は、塵下の手兵五百騎を引きつれて、信長より早く二十一日に京都に入り、二条妙覚寺に宿陣した。
 ほかに、信長の馬廻り衆三、四百人も京都に入った。
 このような情況を考えると、信長が本能寺に泊ったとき、変事がおこっても彼を護って戦える人数は、せいぜい千人足らずということになる。
 渡海の機を大坂、堺で待っている、信孝、長秀の部隊は、すでに阿波に渡海している者もいて、寡勢である。
 信長が上京すれば、軍事力において光秀の軍団以外の兵力が四散している、奇妙な真空地帯にいることになる。光秀の家老たちが亀山城に集結させている兵数は、一万三千余であった。
 織田政権の群臣は、考えようによっては、信長が光秀に命を預けた状態になっていることに、思い及ばなかった。三十四万石の大名であるとはいえ、光秀が家康さえ屈従した信長を襲う可能性があると、考える者はいなかった。光秀が信長に謀叛できるような器量の持主ではないと、誰もが思いこんでいたのである。
 だが、光秀は信長のもとではたらいてきた十四年のあいだに、「梢を渡る猿猴」といわれた、信長の変り身のはやさを学んできた。それで、いまならば、かならず信長と信忠を倒すことができると気づくと、謀叛をする考えにとりつかれたのである。
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■光秀は信長と信忠を倒せる好機にかけた

<本文から>
 光秀は考えにふけつた。自分が立てば、勝家、秀吉、長秀、信孝、一益、信雄と家康らが攻めてくるだろう。彼らの勢力は、それぞれ単独であれば、対抗できないこともない。
 しかし、合同して攻撃してくれば、光秀に勝ちめはない。ただ、彼らはすべて当面する敵があるので、ただちに攻撃してこられない。彼らが協力しあい、あるいは単独で来襲するまでに、光秀は畿内を手中に納め、さらに近国をも平定できる。
 そのうえで、彼らに対抗すれば圧倒できる可能性はある。光秀は思い惑った。どれはどの大名が自分に味方をするか.考えたところで答えは出てこない。
 ただ、信長と信忠を倒せることは確実である。二人を亡きものにして、天下政権を手中にする好機は、いまをおいてはない。
 このまま備中へ出陣すれば、光秀主従は中国路でくりかえし難局にあたらされて消耗し、破滅への道を辿らされる見通しが大きい。
 それよりも、眼前の好機をつかみ、興亡を一挙に決すべきではないか。信長は齢を重ねるにしたがい、人を信じることいよいよすくなく、残忍の所嵐が多くなってきている。
 武田勝頼征伐のとき、甲府恵林寺の名僧快川紹書が、十年生別に信長に敵した佐々木(六角)承禎の子、次郎をかくまっていたことが分ると、紹亭以下の僧をすべて山門にのぼらせ、焼草を積み、焚殺した。正気の沙汰とはいえない。
 信長に所領を召しあげられ、破滅の淵に押しやられるよりは、成否あいなかばする賭けを試みるほうがいい。
 坂本城での独居の日をかさねるにつれ、ひとつの決断をめぐる考えに光秀は疲れはてた。
 −人はどうせ一度は死ぬる。濃は信長に尽し、ひきたてられて、日本国にも数なき身のうえとなったが、このまま信長に鼻面とって引きまわされ、奈落の底へつきおとさるるを、待たねばならぬ義理はなし。
 ゆく先は眼に見えておるものを、思いきってやらねばならず。このままにては水に溺れて死ぬる犬のごときものでや−
 光秀はやはり、眼前の好機を見逃すつもりはなかった。
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■信長の最期

<本文から>
 「いかなる者が押し寄せしか。謀叛かや」
 信長が両膝にカをこめると、他人のもののように震えた。
 −キンカめが、叛きおったか−
 信長は敏感に察した。ほかに信長を攻めるほどの敵は、畿内にはいない。光秀が叛いたのであれば、もはや打つ手はない。
 信長は絶望に歯ぎしりをした。
 椎子に小袴をつけただけの森蘭丸が駆けつけてきた。素槍を手にした蘭丸は、膝をつき、息をきらせ言上する。
 「明智が手の者どもが、乱入してござりまする」
 やはりキンカかと、信長は死ぬ覚悟をきめた。
 「是非に及ばず。しばし取りあいしてやらあず」
 信長は弓を手に、空穂を小姓に持たせ、蘭丸と表御殿に走った。身動きできなくなるまで戦うのである。
 表御殿の小姓衆と、御堂の遠僧兵のもとへ集まってきた。
 厩にいた矢代勝介、伴正林と中間二十四人は、表御殿へ駆けつけようとしたが、外へ出ることもできず、斬り伏せられた。
 御殿の入口を守る小姓たちは、必死に敵を支えつつ、雨のような銃丸に倒されてゆく
 森蘭丸、カ丸、妨丸も息絶えた。
 信長は弓を射るうち、弓絃が切れると、二間柄の馬上槍をふるい、むらがる敵を突き伏せ、殴りつけ、荒れ狂ったが、肘に槍先をうけ、骨が白くあらわれた。
 信長は高声に命じた。
「女は苦しからず。急ぎ罷りいでよ」
 それまで傍についていた女房衆は、死を覚悟していたが、信長に挨拶をした。
「ながのお暇申しあげまする」
 女房たちは涙に頼をぬらしつつ、立ち去った。
信長は生き残っていた数人の小姓とともに、殿中の奥ふかく入りこみ、戸口に錠をかけた。明智の軍兵たちは、あとを追い、首級をあげるべきか、しばらくためらったが、功名心にかりたてられ、掛矢で戸を打ち砕いた。
 信長は湯殿の流し場で、血と汗に汚れた手と顔を洗い、手拭いで体を拭いているところであった。誰かが放った矢が背に浅く刺さったが、信長は引き抜く。
 彼は薙刀を手にしたが、傍の小姓をふりかえっていった。
 「今生の縁もこれまでだわ。微塵となりて空へ帰ろうでや」
 ひとりの小姓が、燃える松明を手にしていた。
 傍に石蔵への降り口が、暗くひらいていた。信長は廊下に溢れた鎧武者が、わが首級をあげようとわれがちになだれこんでくるのを見ると、小姓に命じた。
 「投げいれよ」
 松明が、弾薬の充満する石蔵のなかへ投げこまれた。
 地鳴りとともに、表御殿が笛に浮きあがり、天地をゆるがす衝迫が、本能寺を取りかこみ、蟻のようにむらがる軍兵たちの聴覚を奪った。
「地震じゃ」
 惟任勢が立ちすくむなか、黒煙が何本もの巨大な芭蕉の葉のような形に、中空へ伸びてゆく。木片、金屑のまじった土壌を吸った光秀は、馬上で背を曲げ、咳きこんだ。
 やがて真紅の火焔が、煙のあいだから長い舌をゆらめかせはじめ、裂けちぎれた多くの屍体の焼ける、妙に食欲をさそうにおいが、濃くひろがってきた。
 「煙硝蔵がありしことを、忘れておりしだわなん」
 光秀は、頭上から降ってくるものを避けようともせず、傍に馬首をそろえる明智秀満に、ひとりごとのように低い声でいった。
 「信長はわれらに首級を授けぬままに、消えゆきしでやなも。さても意地りよき仁にてござりました」
 秀満は、感に堪えないようにいった。
■光秀の最期
 光秀を助けるために、近習土岐兵太夫、甥の明智兵介、溝尾の息子五右衛門、光秀の姪婿隠岐内勝らが身代りとなり、斬死にをした。
 勝竜寺城は東西、南北ともに一町ほどのちいさな平城であるが、幅十間の濠と深田に囲まれた要害である。
 本丸矢倉に登ると、城の四方に寄せ手の睾火、松明の光りがゆらめいていた。
 光秀の傍に、勝章守城代三宅藤兵衛がきて、声をかけた。
「殿、夜のあけぬうちに坂本へお立ち下され。われらはこれより打って出て、最後の一戦をいたしまする」
 千人足らずの兵で勝竜寺城を守っていても、夜が明ければ落城は必至である。それよりも暗いうちに打って出て、運がよければ落ちのびようと、考えているのである。
 光秀は再挙を拒むことができない。彼のために命を捨てた大勢の家来たちに酬いるため、いま一戦を試みる義務があった。
 光秀は、溝尾庄兵衛射ら三十余騎を連れ、子の刻(午前零時)頃、城外へ出た。雨が降ってはやむ翌で、羽柴勢の漂のあいだを巧みにくぐりぬけ、通りすぎ、久我縄手から伏見へむかった。
 大亀谷から桃山北方の麓を東南に越え、小乗栖京都市)から勧修寺、大津への道を辿ろうとしたが、小乗栖で、竹薮のあいだから突きだされた槍に、光秀は脇の下をしたたかに貫かれた。
 溝尾が大喝した。
「これは何者の狼籍をいたすか」
 溝尾の大喝に、落武者狩りの一揆は逃げ散った。
 光秀はかろうじて三町ほど馬上で痛みをこらえていたが、ついに下馬して溝尾に後事を托した。苦痛が激しく、自害を望んだので、溝尾が介錯することにした。
 光秀はかねてより辞世を記しておいた紙片を、鐘の引きあわせからとり貯し、溝尾に渡した。
「逆順無二門、大道徹心源、五十五年夢、覚来帰一元」
 進士件左衛門、比田帯刀らの家来が、光秀とともに切腹した。
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