津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          人斬り剣奥義

■少年の十内が初めて人を斬り心の持ちようが変る

<本文から>  味噌樽を棒で打つような音とともに、若侍の右脇腹にながい紅色の傷口がひらいた。肋骨がしろくつきでている。
 若侍は刀をとりおとし、二、三歩よろめく。傷口から血と腸が噴きだしてきた。彼は言葉にならない叫びをあげ、ふしぎそうに十内をみたまま、体を半回転させ、砂上に倒れ伏した。
 「おのれ、小冠者め。やいおったな」
 斬られた侍の朋輩は、さすがに逃げなかった。彼は薩摩兵児として、友の仇を討つ義務がある。
 二人めの敵は刀を抜きはらい、鞘を捨てるなり、車(脇構え)に構えた。十内は中段にとる。
 「ちぇぇーい」
 相手は絶叫とともに車の太刀をふりかぶり、頭上からうちおろしてきた。
 十内は視界が正常に見えるようになっていた。彼は刀の棟で敵の刀をはねあげるなり、踏みこんで右袈裟を斬る。
 敵はうしろへ飛びさがり、かろうじて刃をのがれたが、よろめいて砂上に尻もちをつく。右肩から乳へかけ、浅く傷口がひらき、血が噴き出てきた。
 残心をみせていた十内は、相手がかかってこないとみて、構えをくずした。彼も肩先をわずかに削がれていた。
 気を抜いた剃那、砂上に腰をおとしていた敵が躍りかかってきた。十内は踏みちがえて右首をはねた。血の棒が宙に飛び、敵はそのまま重心を失い転げた。
 二人の乱暴者を斬ってのち、十内の心の持ちようが変った。自分が腰にする刀に籠っている力を、意識するようになったのである。刀を持てば、いままではなかったまったくあたらしい能力が、わが身に与えられる。
 体躯の大小は、斬りあいの勝負になんの関係もない。刀をとれば、相手よりもはやく動き打ちこみのはやい者が勝つ。ただそれだけの単純な法則しかない。
 長谷場四郎次郎が、自顕流への入門をすすめたとき、十内はためらうことなく応じた。歴戦の長谷場が、不惑にちかい年頃になって流儀を変えるのは、よほどの理由があってのことだと察したからである。
 体捨流は、島津家御流儀であった。東新九郎という遣い手が、藩主義弘の嫡男家久の師芹となっている。
 十内の推測は的中した。  
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■十内の最後

<本文から>  
 草原から雨に濡れそぼった侍が一人、立ちあがった。
「お節んは、篠原十内じゃな」
 十内は笠の顎紐をはずしっつ答える。
「いかにも、俺は篠原じゃ。何事な、お節んは何者じゃ、名を名乗れ」
 向鉢巻、袴の股立ちをとった侍は、答えた。
 「俺は吉田勘兵衛の縁者でごわす。今日はお前んの首をもらいうけ、勘兵衛の墓前に捧げ、回向をいたさんがため、来たとじゃ」
 侍がいうなり、草原におびただしい人影が立った。三十人ちかい人数だと、十内はみた。
 「よか、首を与えやっど。しかし、お静んらも道連れじゃ、掛かってこい」
 敵のなかには、弓を持つ者もいた。動かずにおればやられると、十内は太刀を右トンボにふりかぶるなり、敵中へ斬りこんだ。
 必死の十内は、恐怖を忘れていた。飛行とたとえられる、迅速な足どりで突進するなり、右袈裟、左袈裟の単純な技のくりかえしで敵を斬り倒し、蹴倒す。
 敵の群れは、十内には林立する立木に見えた。こまかい技をくりだす暇はない。朝に三千回、夕に八千回の立木打ちで鍛えた打ちこみの動作が、きれめもなく湧き出る。
 敵は体を叩きつけてくる十内の気勢に立ちおくれた。つむじ風のように駆け抜け、駆け戻ってくる十内に圧倒され、浮き足立つ。
 多勢で取りかこんでいるのに、十内の背後を突くことさえできない。十内の剛刀に斬りたてられると、相手の手から刀がはね飛ばされる。
 手首、指、耳采、贅の肉が削がれて散乱する。猛虎のように荒れくるう十内は、みるまに敵の半数を倒した。
 弓をたずさえた敵も、大呼して迫る十内をみるとうろたえ逃げうせる。気がつくと、十内の周囲には誰もいなかった。
 十内は血刀を杖に、荒い息をつき、辺りを睨めまわす。彼も身に大小の傷を負っていたが、歩けないことはない。
 照の家へ戻ろうと、歩みかけたとき、背後の草原から一人の敵が躍り出て、小薙刀をふるって十内の背を深く斬りつけた。
 十内はふりかえり、薙刀を払いのけた。敵は薙刀を投げだし、後をも見ずに逃げうせる。
「おのれ逃げたな。者ども寄れ、寄れ」
 大喝する十内の声は、雷鳴のように岩崎谷にひびき渡った。
 十内の背から、滝のように血が流れおちる。彼はよろめき、かたわらの岩にもたれかかった。
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■天真一刀流二世となった亨

<本文から>
 寺田に促され、亨は道場の中央にもどる。こんどこそはと意気ごんでかかろうとするが、寺田とむかいあっただけで圧倒されてしまう。
 無理に打ちこんでも、後の先の技を返されることが、見通せるのである。
(俺は寺田殿と同格のつもりでいたが、子供のようにあしらわれる。高柳殿を相手のようなわけにはゆかぬ。俺はいったい、いままで何をしていたのだ)
 亨の自負心は粉砕された。
「寺田殿にはまったく手も足も出ませぬが、なぜこのようになるのでしょう」
 寺田は答えた。
「お主は、はじめに就いた師匠がわるかった。二十年ものながいあいだ、力にたよるという邪道におちこんで、眼をひらいていないゆえ、わが力を自在にあらわせなくなっておるのだ」
「力にたよるとは、いかなることでございましょう」
「相手よりすこしでも早く動き、竹刀を相手に当てようと、肩に力が入りすぎている。それゆえ、お主の動きを見破るのはたやすいことだ。健が向いあってみれば、お主の心は竹刀を持つ手もとに集まっていて、拳の動きを見ているだけで、内心が手にとるように分るのだ。また、お主がいかにすばやく打ちこんできたところで、儂にはその動きは至極ゆるやかにしか見えず、迎えの太刀を自在に打ちだせるのだ」
 亨は考えこんだ。
 寺田の言葉に嘘はなかった。たしかに寺田は亨の心の動きを読んでいた。
 寺田は腕を組み、うなだれている亨にいう。
「儂の見るところでは、お主はまず一歩からやり直さねば、このうえの上達は見込めまい。増上慢を捨て、初心にかえるのだ。見性情道のほかに、お主の進むべき道はない」
 亨はその場であらためて、寺田の門人となる起請文をいれ、師弟の約をむすんだ。
 翌日から亨は寺田に粗大刀の伝授をうけるようになった。寺田が自己の力を隠さず亨にむかってくると、おそろしいほどの技のひらきが、亨には感じとれた。
 これがおなじ人間かと思えるほど、亨は寺田に翻弄される。
 「お主はどうもいかん」
 寺田がいいだした。
 「肩の力を抜けとどれほどいって聞かせても、どうしても入るようだ。さようなことでは上達はおぼつかない」
 「どうすればようございましょう」
 「うむ、思いきって肩を砕くか。そうすれば力は衰えようが、力にとらわれるよりはよかろう」
 亨は肩を砕くことに同意した。
 肩を砕くとはどういうことをするのか、施術の方法は伝承されてはいない。日本武道の淵源である修験道にかかわる秘法のようであるが、判然とはしない。
 実際に肩の骨を砕けば手は動かなくなるが、亨は寺田のすすめで肩に力の入らない施術をうけたのち、剣術修業をつづけ、長足の進歩をとげた。
 剣術をはじめ、あらゆる日本の武道は、わずか百七、八十年前の伝承のおおかたが、霧に覆われたように実体をつかめなくなっている。
 亨は五年間、寺田について修業をした。寺田は組太刀の教授をするかたわら、亨に自隠禅師遺法の内観の法を修業せしめた。神通力に類することである。
 文化十二年(一八一五)八月、亨は寺田から天真伝印可を相伝し、天真一刀流二世となった。寺田はすでに六十七歳、亨は三十三歳である。
 そののち亨は寺田のすすめにより、徳本行者の道場へおもむき、唱名にあけ暮れる日を送って、ある日釈然と大悟した。
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■田原坂の戦いで数千人の薩軍を破る

<本文から>
 佐武中尉は壁塁の小屋にマッチで火を点じた。火の手はみるまに燃えひろがり、辺りが明るくなった。兵たちの歓声があがった。二十二の壁塁にたてこもっていた薩軍が総崩れになり、重岡へ向う坂道に長蛇の列をなして逃走してゆく様が、火のなかに浮きあがった。
「やった、やったぞ」
 佐武中尉はこおどりした。
 兵たちが、逃げ遅れた薩軍の捕虜を引きたててきた。中尉は彼らの背に弾薬箱と、遺棄された鉄砲を六挺ずつ群がせて、地面に転がす。
 硝煙のなかに、後続の大隊とともに聯隊長と大隊長があらわれた。
「ようやったぞ、佐武。大手柄じゃ」
 聯隊長川上操六が、日頃の権柄面を崩して、佐武中尉の手をにぎりしめた。
 たしかに大手柄であった。数千人の軍団で三日三晩攻撃して落ちなかった敵塁を、一個中隊で三十分間に攻め落したのだから。
 顔を硝煙に汚した兵隊たちが、周囲にかけよってくると、物もいわずに聯隊長を抱えあげた。
「こらっ、何をするか貴様ら。気でも狂うたか。やめろっ」
 兵隊たちは、うろたえ騒ぐ聯隊長を、喚声もろとも、空高く投げあげ、うけとめると、また投げあげる。
「うわっ、うわあっ」
 川上操六は声も出せないほど、動転していた。
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■三、四十人の巡査を斬り込んで逃亡に成功した覚

<本文から>
 巡査のサーベルは、覚の手に移っていた。
「なんだ、何をするのじゃ」
 廊下に立ちならぶ巡査が、叫んで駆け寄ってきかけたが、廊下を埋める囚人が彼らに襲いかかった。
 呼子笛が鳴りひびくなか、十六人の巡査が打ち倒されるのは、一瞬のことであった。
 覚は無言で突進した。彼のうしろから、サーベル、スペンサー銃をふりかざした囚人たちがつづいた。
 囚人の群れが押しあって庭に出ると、われがちに表門へ走った。望楼に立つ看守が早鐘を打つのを覚は聞きすて、先頭に立ってゆく。
 閉された表門のまえに、抜刀した巡査が集まっていた。三、四十人はいるとみた覚は、サーベルを右トンボに構えた。
 彼は薄の穂のなびくようにむかえうつ白刃に、身を叩きつけるように斬りこんでゆく。覚の右からのはげしい打ちこみを受けた巡査は、刀身をふたつに折られ、左肩口から乳下へふかく斬り裂かれた。
 返り血を目鼻に浴びた覚は、身をそらせて逃げようとするつぎの敵を体当りで突きとばし、
 背中へ唸りをたてて打ちこむ。
 白小倉の上着を破られ、手桶の水を撒くように血を噴出させた敵は、刀を放しうつぶせに倒れこむ。
 「チェェーイ」
 覚は豹のように跳躍して、つぎの敵に斬りかかっていった。
 死にものぐるいの乱闘のあげく、覚は逃亡に成功した。百余人の仲間のうち、逃げおおせた者は、ほかにはいなかった。
 兵庫仮留監記録には、騒動の模様が次のように記載された。
 「午前八時、仮留監より乗船せしめんとせしに、多囚看守所に迫り、続きて監門を破りて破獄を企つる等、凶暴至らざるなく、ついに警護官吏は抜剣して鎮圧せざるを得ざるに至り、為に斬殺せし者あり。騒擾およそ一時間にわたり、囚徒は死亡七人、重傷二人、軽傷六人、逃走一人なり。余囚は皆縛に就きて乗船し、樺戸監獄に向いて出発せしめたり」
 覚に斬られた巡査についての記載はなかった。
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