津本陽著書
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          秀吉私記

■秀吉は機敏で気の強い性格だった

<本文から>
 秀吉が信長や家康と対照的なのは、家筋である。先祖の身分があまりにも開きすぎているからだ。信長の先祖の織田氏は、越前国丹生郡織田荘の織田剣神社の神官の出身。その末裔は尾張守護の斯波氏に仕えて守護代となり、父信秀は清洲織田家の家老であった。家康の先祖は三河国賀茂郡松平郷の豪族。その四代目にあたる松平広忠が、三河岡崎城主で、家康の父親だ。したがって、信長と家康は、独特の武将としての感覚を持っているのだが、秀吉にはそれがなく、俗っぽいところがある。社会の規約というようなものを、すごく有り難がり、官位とかお金を有り難いものと考える傾向がつよいので、きわめて現世的で、明るい展望を持っていたようだ。だが、少年のころは、かならずしもそうではなかった。
 私が津島市で講演したときに、聞いた話だが、十五歳の秀吉が津島の豪商のところに、子守奉公に出たさい、こんな子守なんかしていては、前途がひらけない、と悲観的となり、赤ん妨を井戸枠にくくり付けて家出してしまったという。彼はきわめて精悍で機敏な行動をする気の強い性格であったということを、外国の宣教師が、ある記録に書いている。それによると、信長に仕えていたころ、信長が鷹を放したさいに、足にむすんでいた紐が高い杉の木にからまり、鷹が梢から下りてこられなくなったのを見た秀吉は、スルスルと素早く杉の木に登ってその鷹を下ろしてきたという。鷹という鳥は人の目を鋭く突っ付く習性を持つので、非常に危険であるが、それを怖れず、木を猿のごとく登って下ろしてきた、という逸話は、秀吉の勇気と横敏な性格を物語っている。 
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■愛妾の吉野の口添いで信長へ仕え、気に入られる

<本文から>
 秀吉が信長の愛妾、吉野に気にいられたのは、彼女の機嫌をとりむすぶのが巧みであったからだ。生駒屋敷の浪人たちは、秀吉の才覚におどろかされて、噂をする。
 「秀吉の口巧者め。吉野さまの御前に出でしときもはばかりなく、人のロにいたしかねたる色話をば、いささかも恥と思わず、ぬけぬけ語りおって、それでお気にいられるとは、まさしく鬼子だわ」
 秀吉は信長の面前でもはばからず、剽げ話を、しぐさもおもしろく語る。信長は考えごとにうち沈んでいるときでも、秀吉の話を聞くうち、愉快げに笑い出すのが常であった。剰軽な話しぶりや所作をするので、信長が機嫌を悪くするのではないか、と生駒屋敷の者たちの申には心配する人もいた。そのうえ、信長に武者奉公まで願い出たため、八右衛門がたまりかねて、
 「おまえのような小者は力もなく刀も満足に使えないだわ。心得違えもはなはだしや」
 と諭したが、
 「御大将の馬のロ取りなりとも御用くだされ」
と吉野にも頼む始末であった。そして、とうとう彼女のロききで試験を受けることになった。その試験とは、使い走りであったが、如才なくこなしたので、弘治三年(一五五七)、清洲城の信長に仕えるようになった。最初は、仲間、小者といった低い身分の仕事をやらされた。信長の草履取り、乗馬の手入れなどをまかされたにすぎない。かつて、松下加兵衛に仕え、小納戸役にまでなった前歴は、まったく無視された。並みの男ならば、それにこだわって、新規の仕事に気乗りがしないので、ゆるゆると仕事をしたり、サボリがちになるのだが、秀吉は天下一の草履取りになることを志して、こまごまと気を使って主君に仕えた。『絵本太閤記』によると、冬の寒い朝、信長の草履をふところに入れて温めていた、と伝えられ、その心遣いが気に入られた。信長の信頼を得た秀吉は、鼠に似ていたので、鼠のあだ名をつけられた。後年のことだが、信長が秀吉の正妻となったおねにあたえた手紙に、
 「いずがたをたずね候とも、それさまはどのは、また、ふたたび、かの、はげねずみ、あいもとめがたきあいだ」
 と書かれており、″はげねずみ″と、よばれていたことがわかる。気がきく秀吉を信頼するようになった信長は、なにかにつけて、″はげねずみ″を連発して、下ばたらきをさせた。おねに手紙をくれる信長に対して、秀吉が心から忠誠をはげみ、仕えたことが想像される。
 日吉丸とよばれていたころから、「小猿、小猿」と、よばれて、バカにされたが、信長に仕えると、「猿、猿」と、よばれて、重宝がられた。鼠や猿は機敏に行動するので、その素早い行動力が買われていたからである。数年のあいだに、お小人頭(小者頑)に取り立てられ、信長の股肱として力を早すようになる。
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■小者から長浜城主へ破竹の稀な出世

<本文から>
 秀吉はは弘治二年(一五五六)に、仲間、小者という低い身分で信長に奉公してから、天正二年(一五七四)、長浜城主に就任するまで」一一十年に満たない期間に破竹の出世をしている。いかに戦国乱世の時代であるとはいっても稀なケースだといえよう。秀吉は運気の強い人物であったが、出世の原動力となったのは、信長が何を望んでいるかを読みとり、自分が何をすれば、もっとも功利につながるかを判断する、そういう鋭敏な性格であり、身を粉にして働くことをいとわなかったからである。信長は秀吉のそのような点を買っていたのである。信長は仕事を百パーセント仕上げた者には、それ相応の報酬でこたえて、抜擢している。あたえた仕事の五十パーセント程度しか達成できない者については、すべて捨てたが、全力投球した秀吉に対しては感謝の気持をあらわしている。秀吉は信長の期待にこたえて立身出世したのである。
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■″備中返し″では金や穀物を家来や民百姓たちの意表をつくほどに多く与えた

<本文から>
 武器は小荷駄で送るか、現地調達する。そして、身軽な兵隊を通常の軍団移動の二倍から三倍のスピードで動かしうる能力は、まさに敵の意表をつくものであつた。急速な移動のさいには、侍たちは甲胃をつけず、半裸で戦場へ馬をむける。平生から養っている″兜着″とよばれる強壮な体躯の足軽たちに彼らの甲胃を着せて、あとにつづかせるのである。日ごろ、ただ飯を食わせて遊ばせておくのだが、いざという時に、″兜着"として役に立たせた。着るのは、担ぐよりも体が楽なためであった。戦場に到着すると、主人は″兜着″から甲胃を受けとって武装し、十分に余裕のある体力で戦闘にのぞむことができる。沿道には、焼きむすび、水、草鞋などがそろえられ、落伍者を収容する陣小屋も設けられ、夜は篝火が昼間のように焚かれた。
 六月六日に高松城の陣から撤退した秀吉の軍勢は、夜を日につぐ強行軍で姫路を目指し、八日には姫路城に帰陣するという猛スピードの行軍であった。秀吉は、驚異的なペースで疲れはてて備中から到着した軍団の将兵を鼓舞するため、姫路城に蓄えていた金銀、米穀のすべてを大盤ぶるまいし、沿道の民百姓にも金銀をばらまいて、道中の安全と物資の補給を確保した。他の武将であれば、小出しにあたえるであろう金や穀物を、家来や民百姓たちの意表をつくほどに多くあたえれば、勝利ののちは、どれはどの恩賞にあずかれようかと、ふるいたつものであるのを、秀吉は知っていた。
 秀吉が備中戦線からの撤収に成功して姫路に帰着したことを知ると、中川瀬兵衛、高山右近らの諸勢力が秀吉に合流した。彼らにも、あらかじめ信長生存のデマを流しておいたことも効果があった。急激な政変が起こったとぎは、真相がつかみにくいので、虚報によって、織田家の諸将や畿内の諸大名に光秀方へ走る決心をさせまいとした秀吉の戦略は功を奏したのである。
 この六月、中川、高山勢を加えた秀吉は、山崎の合戦で光秀の軍勢を敗北させた。
 両者の勝負は、戦う以前からすでに決まっていた。光秀に味方する武将は少なく、多数の武将が討伐の秀吉軍に加わったからである。″備中返し″や虚報流しなどによる戦術が、勝利をもたらした。いわゆる、″光秀の三日天下″は潰えたのである。山崎の合戦で、織田方の諸将中における秀吉の地位は飛躍的に向上した。
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■貿易、金銀の鉱山開発、検地などによって巨大な富を築いた豊臣政権

<本文から>
 聚楽第の門前で、秀吉は諸侯大夫に金五千枚、銀三万枚を施した。合計三十五万両である。一両六十万以上の現代の金額に換算すれば、二千億円以上となる。二度目の天正十七年の時には、金六千枚、銀二万五千枚がおなじく諸侯大夫にくばられた。
 秀吉は金賦りで権勢を誇示する反面、田畑の検地を徹底しておこない、百姓への収奪の強化をつづけた。彼は流浪生活を送っていた少年時代に、百姓の裏面をことごとく見聞していた。そのため容赦なく年貢をとりたてるのである。領主に追従しているかに見せかけつつ、ひそかに隠し田をたくわえ、収穫高をすくなく届け出る百姓の狡智を知っている秀吉は、民衆にとっておそるべき能力をそなえた統治者であった。彼が自領の知行改めをはじて実施したのは天正十一年(一五八三)である。
 そのころの在地領主は、自領を独自の方針で支配していたので、領地によって年貢高が一定していなかった。また、面積の測量法も異なり、一升、一斗という米の量も一定していない。地積を測る物差しや、米を測る桝が各種あるために変動の結果があらわれる、田畑の耕作権も、百姓と領主の力関係によりわずかずつ違っていた。全国に均等の支配体系をつくりあげるには度量衡を統一しなければならない。秀吉の検地は、このような目的を達成するた為に実施されたものであった。
 堺や博多の豪商、金銀の鉱山開発、検地などによって、巨大な富を築いた豊臣政権は、充実した兵姑による軍兵の動員能力をそなえ、天下を統一し、海外に進出することができたのである。
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■燦爛な大阪城・聚楽第の築城は約百万両の金銀収入で可能に

<本文から>
 桑田忠親によると、秀吉時代の大坂城の壮観は、このように、文献によって知るほかはないが、徳川氏によって建て直された江戸初期の大坂城のありさまは、黒田家所蔵の「大坂陣屏風絵」(俗に黒田屏風)、東京国立博物館所蔵の「大坂陣屏風絵」などで、うかがうことができるという。
 ″普請狂い″といわれた秀吉が手がけた大坂城、聚楽第(大坂築城を開始後の四年目に、京都の内野に敷地をえらんでつくった大邸宅ではあるが、外観は、城郭を構成しているので、告別名を聚楽城といった)、さらに建築途上にある伏見城などは、絢爛、華麗というような表現では形容できないものであったとは美術家の言である。これらの黄金時代の産物を表現するには、わずかに燦爛という形容が適当だというのである。秀吾は日本の黄金期の頂点にいた。文禄・慶長期の豊臣政権の直轄蔵入地は二百二十万石だ。また全国金山からの運上金三万四千余両、銀山からの運上銀八十余万両。金山の後藤、銀山の大黒常是からの運上金銀、堺の地子銀、琵琶湖船役料をあわせ、金一万両、銀十四万両の運上収入が毎年あった。金銀収入が約百万両であるからすさまじい金額である。
 このような経済的な収入によって築城が可能であった。
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■おねの内助の功があって秀吉は成功した

<本文から>
 石松丸が生まれたあとで、南殿に嫉妬をもったおねが、安土の信長のもとへご機嫌うかがいに参向し、夫の行状について訴えたことがある。のちに、その件について信長からつぎのような手紙がおねに届いた。
 「そなたはどの女人を二度とめとれぬのに、あの禿げ鼠め、実にけしからぬだわ。だが、奥方らしく、けっしてやきもちなど焼いてはならぬだわ」
 禿げ鼠と信長からよばれていた秀吉は、禿げ上がった額をなでながら、おねに詫びたにちがいない。
 おねは信長に気に入られていたので、夫婦のことまで話せたのだが、のちに信長は天正十年(一五八二)、本能寺の変で急死したので、秀吉の好色癖が、いっそうつのるようになる。彼が食うや食わずの地下人の境涯から成りあがって、大名になれたのは、おねの内助の功があってのことである。信長は譜代衆のねたみをおさえ、秀吉を抜擢し、破格のとりたてをしてくれたが、諸事に厳格で清疑心のつまい性格であつたので、おねが信長の気に入られ、巧みに立ちまわってくれなければ、秀吉は立身の中途で讒言され、出世の階段を踏みはずしたであろう。長浜城主になって、子伺いの家来たちをとりたてるとき、おねは秀吉に代わって面接し、人物の良否を判断する役をはたし、城下の民政にもたずさわっている。
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