津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          八月の砲声 ノモンハンと辻政信

■戦国時代の大名は慎重であったが、日中戦争では勝算なく突き進んだ

<本文から>
 私はこれまで歴史小説を数多く書いてきた。戦国時代の小説にかぎっても、二万枚以上は書いているので、戦国大名が生き残るためにいかに智能をしぼって、必死のかけひきをしてきたか、さまざまの類例を見てきた。
 天下一統(統一)がなしとげられるまで、信長、秀吉、家康の三英雄だけではなく、諸大名の行動がどれほど慎重であったか。敵の内情探索に力をつくし、二重、三重に謀略の網をはりめぐらし、敵と戦端をひらくとき、わが術中に完全に陥らせたのちでなければ動かなかった。
 信長は諸大名から「梢を渡る猿轡と呼ばれた。木の梢から梢へ飛び移る猿のように、敵の意表をつく迅速な行動をした。
 戦国百年のあいだに日本の戦力は、西欧に攻めこんだとしたら、全ヨーロッパをきわめて短期間に征服したであろうといわれるほど、強大になっていた。信長が本能寺で横死しなかったならば、ヨーロッパ人による大航海時代は初期のうちに挫折したかも知れない。
 だが、信長横死ののち三百五十七年目にあたる昭和十四年、満州国と外蒙古との国境紛争によって、関東軍と第二十三師団がとった外蒙軍攻撃作戦は、敵の情況を探索することもなく、戦えばかならず勝利を得るとの独断によって、何の成算もなくひきおこしたものであった。
 戦ってみると、敵の装備、兵力は日本側に数倍し、たちまち泥沼に足を踏みいれたような消耗戦にひきこまれ、しだいに傷を深くしていった。
 関東軍参謀本部の参謀たち、第二十三師団長小松原道太郎中将が、敵情をまったく誤算していたのはなぜか。日露戦争で戦力を消耗しつくしながらも、アメリカの仲介でようやく講和にこぎつけられた薄氷を踏むような辛勝の記憶が、歳月をかさねるうちに倣岸不遜ともいえる自信に変質して、彼らの胸中に根づいていたのであろうか。
 ふりかえれば日清、日露の両戦争に勝ち、第一次世界大戦に青島に出兵し、南洋委任統治領を得た。シベリア出兵には七万余の兵を進駐させ、不穏な動きをあらわしたのち、大陸進出の方針を変えず、昭和七年には上海事変をおこした。
 昭和八年には、常任理事国として参加していた国際連盟を脱退。昭和九年には満州国執政薄儀が皇帝となった。日本の大陸における基盤ができあがると、昭和十一年にはロンドンでの軍縮会議を脱退し、米英を相手の建艦競争に入った。
 昭和十二年七月には盧溝橋事件をきっかけに、日中戦争がはじまった。ドイツから日本政府に対し軍事同盟の誘いがしきりであった。
 このような情況のもと、日本陸軍では急速な膨張思想を口にする者が多くなっていた。中央の参謀たちのあいだで、いつとはなくそれまでになかった意見が台頭してきた。
「天皇の命令といえども、国家に益なき場合は従う必要はない」
 という国家至上主義である。
 当時の軍隊は、天皇親率のもとに動かねばならない。「上官の命は朕が命なりと心得よ」と「軍人勅諭」に明記されている。
 その時代に、国家が最高の道徳であるという考えは、あきらかに軍人の思いあがりであった。軍の威勢は、政府官僚をも完全に支配している。
 昭和十年関東軍憲兵隊司令官になった東條英機少将は、天皇の権威、陸軍の実力によって満州国を支配する政策をつよめていた。
 陸軍部内では何事も大和魂をもってすれば、なしとげられないことはないと、大言壮語する者が上司に目をかけられるような風潮が生じた。
 この間に、満州、蒙古と国境を接するソ連は、スターリンの政権がようやく実力をたくわえてきた。昭和六年末、リトヴィノフ外務人民要員は、日ソ不可侵条約の締結を求めてきた。(以下、『関東軍』中山隆志著(講談社選書メチエ)参照)
 日本側は、満州国の脅威となるソ連との友好関係をむすぶべきであるという説も多かったが、陸軍省が戯鮮し、条約締結をことわった。
 ソ連は昭和七年夏、満ソ国境沿いのトーチカ築造工事をはじめ、昭和十年中に終了した。トーチカはロシア語でドート(永久火点)、ソート(隠顕式火点)、ロート(偽火点)の三種類があり、そのほかに監視壕、散兵壕、交通壕、鉄条網、対戦車壕などを組みあわせた陣地が四、五百メートル置きに、数列つらなっていた。
 昭和十年九月頃の陸軍参謀本部の調査によれば、極東ソ連軍は狙撃十一個師団、騎兵二個師団、戦車六百五十輌、飛行機五百機をそなえ、総兵力は二十三万と推測されていた。これに対し、満州、朝鮮に駐屯する日本軍兵力は昭和十一年末に至ってなお五個師団、二個混成旅団、三個騎兵師団、三個独立守備隊、飛行機二百三十機、総兵力は八万であった。
 ソ連軍狙撃師団は砲兵二個連隊、戦車一個大隊をそなえていた。日本陸軍師団には、砲兵一個連隊が配属されているが、戦車は一台もなかったので、戦闘時の火力の差はきわめて大きい。
 昭和十二年から十三年にかけて、赤軍参謀総長トゥハチェフスキー以下の元帥三人、軍司令官十三人、師団長百十人、将校五千人が、国家坂道罪で死刑に処せられた。政府組織の末端まで完全に支配するための、ソ連首相スターリンがおこなった粛清である。
 昭和十三年六片十三日、ソ連極東地方内務人民委員部長官リユシコフ大将が、満州国張鼓峯北方の長嶺子附近で満ソ国境を越えて、亡命を求めてきた。粛清を逃れ、満州に脱出したのである。
▲UP

■大和魂を強調する感情的な強がりが、わずかな反対意見を飲みこんだ

<本文から>
 それが事実であれば、戦勝の見込みなどあるはずがない。陸軍首脳は至急に対策をたてなければ、ソ連軍が満州国内へ怒涛のように進撃してきても、阻止できない。
 昭和十二年に日独伊防共協定を結んでいることが、ソ連の満州への攻勢をくいとめているのである。だが陸軍首脳はリユシコフの情報にいったんは恐慌をきたしたが、まもなく平静をとりもどした。
 その理由は何もなかつた。対策を立てたわけでもない。世界でもっとも精強を誇る日本陸軍が、いかに兵力においておくれをとっていても、ソ連軍に敗北を喫するわけがないと、強気をとりもどしただけであった。戦いの最後の勝負は歩兵の白兵戦できまる。死を怖れない精鋭の攻撃を、ソ連の機械化部隊といえどもさえぎることはできないという、理論上の裏づけのまったくない、大和魂を強調する感情的な強がりが、わずかな反対意見を飲みこんでしまった。
 主流の意見に反対をとなえた者は、左遷ざれ、ついには退役に追いこまれてしまうので、体制に順応しないわけにはゆかなかった。
▲UP

■辻のやり口

<本文から>
 寺田、服部は参謀長の意見に反撥した。
 「ノモンハンの事態は日を延ばせば敵の跳梁を見逃し、悪化するばかりです。満州防衛の任務を果すために、関東軍は独断で行動すべきです。中央と意見の相違をきたしたときは、関東軍の士気に由々しき影響を与えられることになります」
 寺田、服部はともに陸軍大学校を軍刀組で卒業した。寺田は英国留学ののち陸軍省軍務局に勤務。関東軍に赴任してから目が浅く、第一(作戦)課長になってのちも二期後輩の作戦主任参謀である服部に一歩を譲っていた。
 服部中佐はフランスに留学、エチオピア戦争を観戦したのち、参謀本部で編制・動員を管轄する第一課に属し、英才として名を知られていたが、彼もまた一期後輩の辻政信少佐に追従する姿勢をあらわしていた。
 辻少佐がなぜこのような下剋上ともいうべきふるまいができたのか。彼は陸軍中枢部に多数の支持者を得ていた。陸軍省人事局は、彼の望む通りの異動を発令したといわれる。辻が敬愛している板垣征四郎中将は、当時陸軍大臣であった。
 辻は支那方面軍参謀として在任中、日本軍将校のうち、現地妻と称し、中国の女を囲い、日本人の芸妓と同棲している者は、その行動を探索し、現場へ踏みこんで始末書をとり、女は不良邦人として内地送還を命じたと『辻政信』(杉森久英著・文蟄春秋新社刊)に記されている。
 辻に糾弾された者のうちには、将軍もいた。陸軍部内には、正義を標榜して猛獣のように荒れ狂う彼を支持する者と、おそれはばかる者がいて、理想の武人としての評価がいつのまにかできあがった。上級者といえども、命賭けで職務を果そうとする辻の気晩に圧倒されたのである。
 磯谷中将も、金沢の歩兵第七連隊長在任時に当時中尉だった辻に目をかけて以来、その意見に反対することはめったになかった。
 杉森氏は、つぎのように辻の行動を指摘している。
 「ともかく辻は、大物から一本取る名人であった。彼は新しい部署へ配属されると、まず経理部へ出かけて、参謀長以下幕僚たちの自動車の使用伝票と、料亭の支払伝票を調べあげるのであった。これによって、彼らの私行上の秘密は押えられ、辻に頭があがらなくなった。自分のやり口が、非常に卑劣なものだという自覚は、辻にはなかった。(中略)
 辻のやっていることは、表向き軍紀の粛正、士気の昂揚を目的としていたといえなくもない。しかし実際において現れてくる結果は、辻に弱点を握られた上級者が、彼に遠慮し、彼の横暴を黙認するふしぎな事態であった。昭和期の陸軍の頼廃を最も端的に物語るものは、下剋上という現象だったといわれるが、辻などはその甚だしい一例であった」
▲UP

■辻の策謀

<本文から>
 辻参謀は六月二十九日に白銀査干附近をモス機で偵察し、コマツ台及びハラ台には顧の歩兵陣地は存在しないと確信していた。
 また「ソ蒙軍に退却の兆あり」という航空情報があいついでいたのは、辻参謀の策謀によるものであったとの推測もある。
 日本軍がハルハ河西岸に渡河したのち、日本軍偵察機が、
「渡河点北方七キロ地点に、ソ蒙軍機甲車輌四百が集結している」
と記した通信筒を投下した。
 この僚察機は、渡河地点を援護する日本軍に誤射、撃墜されてしまった。両翼に日の丸をつけ、翼端を上下に振っていたが、敵機来襲中であったのが不運であった。
 通信簡の内容は、某参謀(辻か?)が読んで、車輌数が一桁まちがっているのではないかと信用しなかったといわれる。
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■辻は把握力に乏しく器量が小さい

<本文から>
 辻政信が第七連隊の下士官、兵の偶像となったことは、信長のそれとくらべるといかにも世界現状の把握力に乏しく、器量が小さいものであるのが分る。しかし、戦国時代ははるか昔で、政治、外交、軍事のすべてに眼のゆきとどいていた山県有朋のような明治維新の元勲でさえすでに世にいない。
 第一次大戦後、重化学工業を発展させ、太平洋を制圧する大艦隊を擁し、十七個師団の常備軍を国内に配置している日本国軍は、陸軍には参謀本部、海軍には軍令部があって、陸軍省、海軍省とあいまって彪大な軍事予算を使い、大組織を動かしている。軍の首脳部にいるのは、幼年学校から陸軍大学校まで、海軍兵学校から海軍大学校まで抜群の成績で卒業した英才たちであった。
 彼らは運命のすべてをわが判断に賭ける戦国武将ではなかった。巨大な組織のなかで出世するためには、組織に属する者の共通概念を鋭敏に把握し、そのめざす方向へいちはやく動き、首脳部の共感を得て存在を認められるために、目立つ行動をとらねばならない。
 陸軍部内では、「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」という戦略の基本をゆるがせにしない自重論者は、なぜか重用されなかった。上司の指示に従わず積極行動に出た者は、失敗したときも処罰は軽かったが、自重論者が失敗するときびしく糾弾され、退役させられることもめずらしくなかった。
 辻政信はこのような風潮を把握していて、出世のいとぐちをつかむ努力をかさねた。彼は下士官から聞かれる。
 「少尉殿は失礼ながら高い月給をとっておられませんが、どうしてこんなに値段の高い本をお買いになれるのですか」
 政信は答えた。
 「俺が『俳行社記事』に論文を投稿すると、たいてい巻頭に載るんだ。その稿料が十円だから、それで本を買うんだ」
 それが事実かどうか分らなかったが、そんな噂が下士官兵のあいだに伝わると、彼らの辻少尉への尊敬と信頼は、ますますつよくなる。一種の自己宣伝であった政信の読書は軍事関係に限られていて、人間を理解するために必要な一般教養書はなく、彼は社会人としての識に欠けているという批評もあったが、秀才としての勉強を欠かせない政信には、広く教養を身につける余裕がなかった。
 それが後年、兵棋演習ではなく実際に軍隊を動かし敵と戦闘をまじえる際の奇妙な想像力の欠落としてあらわれてくる。
 政信は猛勉強によって体力を損うことがなかった。彼は靴屋に二重草の丈夫な靴をつくらせ、靴底に蹄鉄のような鋲を幾つも打たせて歩きまわった。
▲UP

■愚劣窮まりない作戦指導方針の誤謬を、口に出さないだけで知っていた

<本文から>
 日本軍が、西岸と同じ高度にある将軍廟附近の線まで後退すれば、ソ蒙軍がいかに兵器火力にすぐれていても、たやすく攻撃できない。ハルハ河東岸から攻撃してくるソ蒙軍の位置を、反対に見下せるようになるからである。日本軍は補給に苦しむこともすくなく、兵員の損傷も激減したであろう。
 戦線がそれだけ東に移動すれば、ソ蒙軍は攻勢をとるためにはハルハ河東岸に進出してこなければならない。そうなると日本軍はこれまでと反対に、高所から敵砲兵、戦車の移動を看視できるので、効果のある攻撃を迅速、的確におこなうことができる。
 ソ蒙軍にはハルハ河東岸へ深く侵入してくることをためらわざるを得ない、弱点があった。西岸と東岸をつないでいるのは、数カ所の軍橋である。
 日本陸軍第二飛行集団が総力をあげ、軍橋爆撃をおこなえば、ソ蒙軍の兵端線が絶たれるおそれが出てくる。そのため、満州国内へ深く侵入することは、ためらわざるをえない。 ソ連空軍は数において第二飛行集団を圧倒しているが、もし日本海軍の航空部隊が協力すれば、事態は急変する。日本軍部の実状はソ連側スパイが探知しており、陸海軍の協力はないとしているが、非常の場合はどうなるか分らない。
 関東軍が、すでに五千を超える損害を出しつつ、無益な国境線争いにこだわるのは、作戦の根本的な失敗を認めたくないためであった。
 田中軍曹たち第一線で、砲撃の的になって、同僚や部下に無駄な死傷者を出している将兵は、愚劣窮まりない作戦指導方針の誤謬を、口に出さないだけで知っていた。
 口に出せないのは、軍人勅諭によって縛られているからである。違反して上級者の欠陥を指摘すれば非国民となり、家族は売国奴の肉親として有形無形の迫害をうける。
 将兵を上官の命令によって動くロボットと化さしめるには、軍人勅諭の第一条と第二条を守らせることで充分であった。
 第一条は、
 「軍人は忠節を尽くすを本分とすべし」
 である。これだけでは軍人として当然守るべき徳目にすぎない。だがその解説ともいうべき文章のなかに、おそるべき内容を秘めた部分がある。
 「只々一途に己が本分の忠節を守り、義は山嶽よりも重く、死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ。その操を破りて不覚を取り、汚名を受くる勿れ」
 わが命は鴻の羽根よりも軽いと考え、忠節をつくすために死を覚悟して戦えというのである。この文字の裏面には、敵の捕虜になることなく、最後まで力を出しつくせという意がこめられている。のちに玉砕、特攻などの悲惨きわまりない戦闘を、将兵に強いるための理念となったものである。
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