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<本文から> 私はこれまで歴史小説を数多く書いてきた。戦国時代の小説にかぎっても、二万枚以上は書いているので、戦国大名が生き残るためにいかに智能をしぼって、必死のかけひきをしてきたか、さまざまの類例を見てきた。
天下一統(統一)がなしとげられるまで、信長、秀吉、家康の三英雄だけではなく、諸大名の行動がどれほど慎重であったか。敵の内情探索に力をつくし、二重、三重に謀略の網をはりめぐらし、敵と戦端をひらくとき、わが術中に完全に陥らせたのちでなければ動かなかった。
信長は諸大名から「梢を渡る猿轡と呼ばれた。木の梢から梢へ飛び移る猿のように、敵の意表をつく迅速な行動をした。
戦国百年のあいだに日本の戦力は、西欧に攻めこんだとしたら、全ヨーロッパをきわめて短期間に征服したであろうといわれるほど、強大になっていた。信長が本能寺で横死しなかったならば、ヨーロッパ人による大航海時代は初期のうちに挫折したかも知れない。
だが、信長横死ののち三百五十七年目にあたる昭和十四年、満州国と外蒙古との国境紛争によって、関東軍と第二十三師団がとった外蒙軍攻撃作戦は、敵の情況を探索することもなく、戦えばかならず勝利を得るとの独断によって、何の成算もなくひきおこしたものであった。
戦ってみると、敵の装備、兵力は日本側に数倍し、たちまち泥沼に足を踏みいれたような消耗戦にひきこまれ、しだいに傷を深くしていった。
関東軍参謀本部の参謀たち、第二十三師団長小松原道太郎中将が、敵情をまったく誤算していたのはなぜか。日露戦争で戦力を消耗しつくしながらも、アメリカの仲介でようやく講和にこぎつけられた薄氷を踏むような辛勝の記憶が、歳月をかさねるうちに倣岸不遜ともいえる自信に変質して、彼らの胸中に根づいていたのであろうか。
ふりかえれば日清、日露の両戦争に勝ち、第一次世界大戦に青島に出兵し、南洋委任統治領を得た。シベリア出兵には七万余の兵を進駐させ、不穏な動きをあらわしたのち、大陸進出の方針を変えず、昭和七年には上海事変をおこした。
昭和八年には、常任理事国として参加していた国際連盟を脱退。昭和九年には満州国執政薄儀が皇帝となった。日本の大陸における基盤ができあがると、昭和十一年にはロンドンでの軍縮会議を脱退し、米英を相手の建艦競争に入った。
昭和十二年七月には盧溝橋事件をきっかけに、日中戦争がはじまった。ドイツから日本政府に対し軍事同盟の誘いがしきりであった。
このような情況のもと、日本陸軍では急速な膨張思想を口にする者が多くなっていた。中央の参謀たちのあいだで、いつとはなくそれまでになかった意見が台頭してきた。
「天皇の命令といえども、国家に益なき場合は従う必要はない」
という国家至上主義である。
当時の軍隊は、天皇親率のもとに動かねばならない。「上官の命は朕が命なりと心得よ」と「軍人勅諭」に明記されている。
その時代に、国家が最高の道徳であるという考えは、あきらかに軍人の思いあがりであった。軍の威勢は、政府官僚をも完全に支配している。
昭和十年関東軍憲兵隊司令官になった東條英機少将は、天皇の権威、陸軍の実力によって満州国を支配する政策をつよめていた。
陸軍部内では何事も大和魂をもってすれば、なしとげられないことはないと、大言壮語する者が上司に目をかけられるような風潮が生じた。
この間に、満州、蒙古と国境を接するソ連は、スターリンの政権がようやく実力をたくわえてきた。昭和六年末、リトヴィノフ外務人民要員は、日ソ不可侵条約の締結を求めてきた。(以下、『関東軍』中山隆志著(講談社選書メチエ)参照)
日本側は、満州国の脅威となるソ連との友好関係をむすぶべきであるという説も多かったが、陸軍省が戯鮮し、条約締結をことわった。
ソ連は昭和七年夏、満ソ国境沿いのトーチカ築造工事をはじめ、昭和十年中に終了した。トーチカはロシア語でドート(永久火点)、ソート(隠顕式火点)、ロート(偽火点)の三種類があり、そのほかに監視壕、散兵壕、交通壕、鉄条網、対戦車壕などを組みあわせた陣地が四、五百メートル置きに、数列つらなっていた。
昭和十年九月頃の陸軍参謀本部の調査によれば、極東ソ連軍は狙撃十一個師団、騎兵二個師団、戦車六百五十輌、飛行機五百機をそなえ、総兵力は二十三万と推測されていた。これに対し、満州、朝鮮に駐屯する日本軍兵力は昭和十一年末に至ってなお五個師団、二個混成旅団、三個騎兵師団、三個独立守備隊、飛行機二百三十機、総兵力は八万であった。
ソ連軍狙撃師団は砲兵二個連隊、戦車一個大隊をそなえていた。日本陸軍師団には、砲兵一個連隊が配属されているが、戦車は一台もなかったので、戦闘時の火力の差はきわめて大きい。
昭和十二年から十三年にかけて、赤軍参謀総長トゥハチェフスキー以下の元帥三人、軍司令官十三人、師団長百十人、将校五千人が、国家坂道罪で死刑に処せられた。政府組織の末端まで完全に支配するための、ソ連首相スターリンがおこなった粛清である。
昭和十三年六片十三日、ソ連極東地方内務人民委員部長官リユシコフ大将が、満州国張鼓峯北方の長嶺子附近で満ソ国境を越えて、亡命を求めてきた。粛清を逃れ、満州に脱出したのである。 |
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