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<本文から> 信長は家督を相続してのち、軍師というものを身辺に置いたことがなかった。彼は孫子、呉子などの史書に学ばず、現実を分析し、自らの判断によって戦略をたてた。
彼は常識を無視し、面目、体面をまったく気にしない。彼の行動を律するのは、徹底した合理性であった。状況判断には感情はまったく入らない。前例にとらわれず、余人の考え及ばない効果的な手をうって、着実に前進していった。
家来は出自を問うことなく、命令をうけた者が百パーセントか、百二十パーセントの成果をあげれば、天井知らずに抜擢してゆく。信長は、父祖から伝わった猛烈な攻撃性をそなえていたが、猪武者ではなかった。
今川義元を討ったあと、信長が軍兵に休息をとらせることなく、美濃攻めをはじめたのは、美濃の領主斎藤義龍に先手をとられ、尾張へ乱入される危険があったためである。
六尺五寸殿と呼ばれた巨体の義龍は弘治二年(一五五六)に父道三を殺し、美濃国主となったが、信長の前途を塞ぐ強敵であった。
信長は美濃進撃のため尾張川(長良川)西岸の洲俣に築塁を試みたが、二度失敗した。三度めの洲俣侵入は永禄四年(一五六一)五月十三日であった。その二日前の十一日に斎藤義龍が、三十五歳の男盛りで急死したためである。大敵が急逝する幸運は、信長の生涯に、こののち二度あらわれる。信玄、謙信の死である。
信長は千五百の軍兵を率い、六千余の斎藤勢と戦い勝利を得たが、洲俣の砦を確保できなかった。信長の妹を妻に迎えている義弟の犬山城主織田信清が、斎藤方に通じていたためである。
斎藤家は十四歳になる義龍の嫡男龍興があとを継いだが、百戦錬磨の家老たちが兵を動かしているので、つけいる隙はなかった。
四度めの美濃攻めも失敗した。織田信清が清洲城を襲ったためである。信長は死傷者への弔慰金にもこと欠く、手詰りの状態に陥った。
こういう苦境に陥ると、信長は全力をふるって敵に猛攻をしかけ、のるかそるかの勝負をしかけるようなことは絶対にしない。やり損じれば再起不能になるような博打には手を出さず、どれだけ時間をかけても、敗北しないと確信を持てるまで、充分に準備をととのえた。
信長が命を賭けた野戦に出陣したのは、生涯に百回を超えるといわれる。戦場で大将は自軍の士気をふるいたたせるため、馬標と旋旗を立て、自分の所在を全軍に知らせる。そのため白兵戦になると、敵兵の攻撃を一身に集め、命が幾つあっても足りないような危険のなかに身を置くことになる。
信長がそのような野戦を切りぬけ生きのびてこられたのは、もちろん強運があってのことであるが、徹底した準備をととのえ、よほどの好機をつかまないかぎり敵をうわまわる兵力で、敵よりも優秀な武器を持ったうえ、諜報によって敵を自らの望む場所へ導き、望むときに戦わせたためである。
彼が生涯にわたり口にした、戦勝の秘訣はただひとつであった。
「戦場へ出て、敵と戦うまえに、勝負の七割は決している」
信長は常に情報をもっとも重視した。情報を敵よりも先取りしたときは、かならず勝つというのである。 |
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