津本陽著書
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          覇王の夢

■信長の戦勝の秘訣は「敵と戦うまえに勝負の七割は決している」

<本文から>
 信長は家督を相続してのち、軍師というものを身辺に置いたことがなかった。彼は孫子、呉子などの史書に学ばず、現実を分析し、自らの判断によって戦略をたてた。
 彼は常識を無視し、面目、体面をまったく気にしない。彼の行動を律するのは、徹底した合理性であった。状況判断には感情はまったく入らない。前例にとらわれず、余人の考え及ばない効果的な手をうって、着実に前進していった。
 家来は出自を問うことなく、命令をうけた者が百パーセントか、百二十パーセントの成果をあげれば、天井知らずに抜擢してゆく。信長は、父祖から伝わった猛烈な攻撃性をそなえていたが、猪武者ではなかった。
 今川義元を討ったあと、信長が軍兵に休息をとらせることなく、美濃攻めをはじめたのは、美濃の領主斎藤義龍に先手をとられ、尾張へ乱入される危険があったためである。
 六尺五寸殿と呼ばれた巨体の義龍は弘治二年(一五五六)に父道三を殺し、美濃国主となったが、信長の前途を塞ぐ強敵であった。
 信長は美濃進撃のため尾張川(長良川)西岸の洲俣に築塁を試みたが、二度失敗した。三度めの洲俣侵入は永禄四年(一五六一)五月十三日であった。その二日前の十一日に斎藤義龍が、三十五歳の男盛りで急死したためである。大敵が急逝する幸運は、信長の生涯に、こののち二度あらわれる。信玄、謙信の死である。        
 信長は千五百の軍兵を率い、六千余の斎藤勢と戦い勝利を得たが、洲俣の砦を確保できなかった。信長の妹を妻に迎えている義弟の犬山城主織田信清が、斎藤方に通じていたためである。
 斎藤家は十四歳になる義龍の嫡男龍興があとを継いだが、百戦錬磨の家老たちが兵を動かしているので、つけいる隙はなかった。
 四度めの美濃攻めも失敗した。織田信清が清洲城を襲ったためである。信長は死傷者への弔慰金にもこと欠く、手詰りの状態に陥った。
 こういう苦境に陥ると、信長は全力をふるって敵に猛攻をしかけ、のるかそるかの勝負をしかけるようなことは絶対にしない。やり損じれば再起不能になるような博打には手を出さず、どれだけ時間をかけても、敗北しないと確信を持てるまで、充分に準備をととのえた。
 信長が命を賭けた野戦に出陣したのは、生涯に百回を超えるといわれる。戦場で大将は自軍の士気をふるいたたせるため、馬標と旋旗を立て、自分の所在を全軍に知らせる。そのため白兵戦になると、敵兵の攻撃を一身に集め、命が幾つあっても足りないような危険のなかに身を置くことになる。
 信長がそのような野戦を切りぬけ生きのびてこられたのは、もちろん強運があってのことであるが、徹底した準備をととのえ、よほどの好機をつかまないかぎり敵をうわまわる兵力で、敵よりも優秀な武器を持ったうえ、諜報によって敵を自らの望む場所へ導き、望むときに戦わせたためである。
 彼が生涯にわたり口にした、戦勝の秘訣はただひとつであった。
 「戦場へ出て、敵と戦うまえに、勝負の七割は決している」
 信長は常に情報をもっとも重視した。情報を敵よりも先取りしたときは、かならず勝つというのである。
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■信長が神の化身と言う本心は世を治めるための方便


<本文から>
 信長は含み笑いをした。
「儂は穴蔵に入るかぎりの神像、仏体を諸国より運ばせ、隙間もないほどに置き並べ、朝ごとに橋の上に立ちて、それらに儂を拝ませることにいたすでや」
 言葉もなくひれ伏す又右衛門に、信長は左頼のえくぼを見せ笑いかけた。
「そのほうは、儂が己をこのうえもなく尊き神の化身と信じおると、読んだであろうがや。さにあらず、儂は神仏などはこの眼にてしかと見届けざるかぎりは、あると思わぬ。死にしのちことは、人間には分らぬものだでなん。そのときはそのときの思案をいたさばよからあず。儂がおのれを神の化身と申すは、本心にはあらず。世を治めんための方便だわ」
「おそれいってござりまする」
 又右衛門は信長の本心がつかめるわけもなく、ただ畏怖の思いがつよまるばかりであった。
 四階は納戸、五階は仏教世界を極彩色で描き出した、大和法隆寺夢殿とおなじこしらえの、対辺間距離五間の正八角形平面であった。
 最上階は三間四方十八畳敷きの平面として、座敷の内外は全部金で塗りたて、四方の柱に昇り龍、降り龍、天井には天人影向図、壁には三皇五帝、老子、孔子像、孔門十哲、商山の四皓、竹林の七賢人を描かせる。
 又右衛門は、安土山に全高三十間(約六十メートル)に及ぶ奇怪な天守の高楼が聳えたつ光景を眼裏にあざやかに浮かべた。
 信長は愛する側室のおなべの方に、内心を洩らしていた。
 「儂は後生があるとは思うておらぬ。四大(一切の物体を構成する地、水、火、風の四元素)の動きに従い、人は廃滅し、また生まれてくるのだわ。人が世に残すは己のはたらきばかりで、後生にうけついでゆくものなどは、何もないのだがや」
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■信長は常に六分の勝ちを目標としていた

<本文から>
 海戦の数を重ねている七五三兵衛たちは、戦うまえに味方の敗北を覚悟した。
 毛利の船団は夜がしらじらと明けそめた頃、太鼓を打ち鳴らし、法螺貝を吹いて織田水軍を威嚇しつつ、沖合から迫ってきた。
 海戦は七五三兵衛の予想通りの結果となった。
 舷の高い大安宅船が、風上から燃えながら迫ってくる火船の、茎綱に引っかかるのを見て大鉄砲の射撃を集中して沈めると、あらたな火船があらわれる。十艘、二十艘の火船に取り巻かれると、防御できなくなり、火災がおこった。小型の囲い船には、雑賀衆が小早船で接近し、焙熔火矢を投げこむ。
 一日の合戦で織田水軍は全滅、真鍋七五三兵衛以下二千余人が討ちとられた。
 信長は織田水軍がわずか一日の合戦で全滅し、毛利勢が本願寺への兵糧搬入に成功して、大坂湾の制海権を手中にしたという急報をうけると、ただちに大坂へ急行しようとしたが、逸る思いをおさえ、行動に移らなかった。
 信長は性急で短気に見えるが、内実はきわめて慎重であった。天正三年(一五七五)五月の長篠合戦で敗北し、甲斐へ逃げる武田勝頼を追跡すれば、百三十万石に及ぶ武田の領土をすべて占領できたであろうが、信長は深追いをしなかった。家康はなぜ手中にした獲物を逃がすのかとふしぎでならなかったが、信長は亡き信玄と同様に、常に六分の勝ちを目標としていた。
 一度に大勝すれば、わが体制のうちのどこかに隙が出て、かえって危険を招く原因になると見ていたためである。
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■信長は安土で徹底した開放政策をとった

<本文から>
 信長は安土城にいて、六月に安土山下町の掟を定めた。山下町とは城下町の意である。
 全十三条の綻書の第−条は、楽市楽座であった。座というのは社寺の保護のもとに全国の商工業者、運送業者を中世から規制してきた同業組合組織であった。
 信長はそれを排し、諸税も賦課せず、身分を解放し、自由通商を認めた。主従、親族、夫婦などの血縁、地縁にかかわる拘束もいっさい断ち切ることができる。
 信長は安土城下を天下政権の首都とするため、他国者、他人の家来が安土に来往すれば自分の家来とまったく差別しないという、徹底した開放政策をとった。
 当時の社会に生きる人は、さまざまな人間関係のしがらみに縛りつけられていた。商人、職人は公家、寺社、大名の支配のもとで座、街道通行の特権を与えられ生活する。武士には主従のかたい縦のつながりがある。百姓は大名の支配を受けながら、村々の「惣」の組織に組みこまれ、他村と協調し、争う。
 信長は安土に住む者が、主従、親族、夫婦などの束縛を捨て、ひとりで自由に商売をして暮らせるようにした。当時の庶民は、現世の楽園を見る思いであったにちがいない。
 火災がおこったときも、放火であれば火元の主人を罰せず、過失による失火は事情を調べ主人を追放するだけの軽罪とする。
 盗品と知らずに買い、事情を知らずに犯罪者に家を貸した者は罰しない。当時のきびしい連座制と反対の、異例の経済主義をとった。
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■信長の海上交易の大構想

<本文から>
 信長はたてつづけに問いかける。
 「城下に住まいいたす者の数は、どれほどでや」
 「およそ一万二、三千かと聞き及んでおりまする。そのうち大明の商人が二千人住みおりまする。イスパニア人は大明の者どもが地元の民をそそのかし、乱をおこせしときは、ただちにその町を大筒で撃ち砕けるよう、弾丸の届く場所に家を建てさせておりまする」
 信長はうなずき、しばらく宙を睨んでいたが、やがて薄い笑みのかげを口辺に見せた。
 「なにかとおもしろきことだわなん。このさき、珍しき夢を楽しめようでや」
 信長は、イントラムロスの城を陥れるのに、数日をついやすだけであろうと思った。織田軍団では、城攻めといえないほどの小規模な戦闘である。
 攻めかたにはさまざまあるが、木柵の囲いなどは、信長魔下の精兵にとっては無きにひとしいものであった。柵木に一貫目玉筒数挺で深夜突然砲撃を加え、破壊したところから軍兵をなだれこませ、猛烈な銃砲撃を加えつつ、不意をつかれ応戦する敵を撃ち倒せばよい。
 堅固な石造りの建物は、壁面に油をかけ燃えあがらせる。内部にひそみ応戦する敵は、熱気にいたたまれず降参する。
 信長にとって、五千、六千の兵を用いる戦闘は日常茶飯事といってもよかった。堅固な敵城を陥れるために、金掘り人足を使い、地下に坑道を掘り、火薬を使って城門、櫓を吹き飛ばした。大井楼の上から城内の敵に三十匁玉簡で狙撃をする。
 海上で敵の軍船と遭遇したところで、帆船同士の海戦は数の勝負である。相手に勝つためには、かならず風上の位置を占めなければならない。
 風上にいる船は、相手に接近することも、自分に有利な距離を保っておくことも、たやすくできる。砲撃戦になれば、数の多いほうが敵船を挟み撃ちにしてしまう。
 信長にとって、マネラを襲うとなれば、二十艘、三十般の千五百石から二千石の軍船を編制することは難事ではなかった。
 外洋船を建造し、水先案内人を集めるのは、弥四郎たちや伴天連に任せておけばいい。
 信長は必要であれば、ポルトガル人が乗ってきた定航船を奪うことさえ平然とやってのけることができる。彼は外国人との貿易が今後順調におこなわれなくなっても、なんら不自由を覚えることはなかった。こちらから外地へ出かけてゆき、彼らのやってきた役割を、すべて肩替りするつもりであった。
 信長は、大明の人口がおよそ二億であることを知っている。そんな広大な国を征服するような手間のかかる仕事にとりかかるつもりはなかった。
 何百万石の農作物の収穫をあげる土地をわがものとする労力を、海上交易にふりむければ、はるかに巨額の利益を得られることを、信長は尾張の津島商人たちから教えられ成長してきた。
 大明の重要な港湾を押え、呂宋を制圧したのち、アカプルコを攻めてインディアス領を占領するか、南海にむかい、ジャオア、スマトラ、パタニ、マラカから西方へ版図をひろげるか。
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■長の悲運の最期

<本文から>
「お蘭、これは謀叛じゃ。いかなる奴原のくわだてかや」
 布帛を引き裂くような、するどい声であった。
 森蘭丸が表御殿へ走り、素槍を手に戻ってきて、信長の前に片膝をつき、言上した。
「明智が者と見ゆる武者どもが、塀を打ちやぶり、斬りいって参りまするに」
 信長は立ったまま宙を呪み、しばらくは言葉もなかった。彼は小姓たちの眼に見えるほど全身をふるわせている。
 やがて信長は肺腑からしぼりだすような声で告げた。
 「是非に及ばず。弓を持て」
 武将として家康のなかばほどにも達しない、貧弱な才能の光秀に殺されるとは、なんということであろうかと、信長は突然の非運に歯噛みしたが、やがて心をしずめた。
 絶望にあえぎつつも、息絶えるまで敵と戦うばかりだと、信長は現世への未練をふり捨て、むらがり寄せてくる敵に矢を射かけたが、弓弦が切れた。 
 彼は二間柄の馬上槍をふるい、鎧武者の顔を殴りつけ、喉もとを射ね突き、狂ったようにわたりあうが、肘を突かれ傷を負うと、それまで付き添っていた女房衆に、かすれる高声で命じた。
 「女は苦しからず。急ぎ立ちのくがよからあず」
 信長は女たちが去ったあと、生き残っている小姓たちを招いた。
 「葉武者を相手にいたすは無益だぎゃ。冥途の供をいたせ」
 明智勢が斬りかかろうとするのを、数人の小姓が全身血と汗にまみれて支える。
 突然足もとが地震のように揺れた。信長が表御殿床下の煙硝蔵に火を投げいれたのである。たちまち辺りは火の海となり、黒煙で何も見えなくなった。爆発は幾度もつづき、明智勢は刀槍を投げ棄て、城門のほうへわれがちに逃げる。信長の五体は湧きあがる爆風のなかで四散し、中有の奥へ消え去ってしまった。
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