津本陽著書
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          波上の館

■銭屋五兵衛は豪商として発展

<本文から>
 銭屋五兵衛が廻漕問屋の創業以後、文化年間(一八〇四−一八)には実をかさねるばかりであったのに文政五年(一八二二)頃からしだいに事業を拡大できるようになったのは、前田家が田畑の肥料としての干鰯移入の禁令を解いたためであるといわれる。
 五兵衛は前田家要路から禁制撤廃の情報を得ると、ただちに持ち船を蝦夷地江差湊へ走らせ、干鰯を安値で買い占めたのである。
当時の蝦夷では原住民を通じ、海産物、肥料がおどろくほどの廉価で入手できた。
 加賀、能登、越後、津軽、南部の廻船は北前船と総称されている。
 北前船の荷主たちは年一、二回、蝦夷、奥羽、北陸の海産物、肥料、米を積荷として、日本海を南下し瀬戸内海を経由するか、太平洋岸を南下し紀州沖を北上するか二つの航路のいずれかをとり、上方の市場で商品を売却する。
 海の荒れる冬には船舶を上方の港に繋留し、陸路をとって帰郷した。翌春には上方におもむき、織物などの工業製品のほか、酒、荒物、綿、砂糖などの雑貨を船に積み、北国各地へもたらし売りさばく。
 海産物、魚肥を産する蝦夷。米穀を主要産物とする北陸、奥羽。工業製品、雑多な農製品を産する西国のあいだを往来し、商品流通をうけもつ海運業者ほ、当然物資の移動により莫大な利潤を手にすることが可能であった。
 五兵衛は全盛期には全国各地に三十四カ所の支店を設けていたといわれる。
 支店をあずかる番頭は、地元の物資を安値で買いいれ、その需要が旺盛な地方へ売りこむ。
 藩際貿易が順調におこなわれていなかった当時、商品価格は各地でいちじるしく高低の差があったので、投機の利益が充分に見込めた。
 宮の腰の五兵衛のもとには各地に派遣している番頭たちから、情報が絶えずとどく。銭星の土蔵には松前干鱈、千昆布、干鰯、白木綿、呉服。大数綿、砂糖、大豆などが大量に貯蔵され、相場の推移しだいでいつでも出荷できる態勢がととのえられていた。
 天保期に入ると、米の凶作がつづいた。天保三年(一八三二)からはじまった飢饉は天保八年に及ぶ問、四民を苦しめた。
 米価は天井知らずに暴騰する。世間は底の見えない不況に陥ったが、五兵衛にとって飢饉は豪富をもたらす起死回生の好機であった。
 それまでは藩際貿易によって利を得てきたが、曖昧な仲介業者が介在し、詐欺の被害を受けることが再三あり、銭屋に本格的な発展をもたらすことができなかった。だが、米の売買によって、濡れ手に粟の利殖ができるようになった。
 大坂堂島米会所では、米の延べ売買(先物取引)がおこなわれている。現物米を買い占めている商人は、延べ売買で莫大な利益を手中にする。
 加賀米は堂島に集まる米の半ばを占めるといわれるほど大量に供給される。
 五兵衛は常に大量の現物米を手中にしていた。米の買占めにより、堂島での相場を操作するため、彼は毎年十万両以上の資金を動かしている。 
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■海外諸国の商船と密貿易を巨利を

<本文から>

 五兵衛が海外諸国の商船と密貿易をさかんにおこなうようになったのは、隠居してのちのことであった。
 五兵衛がひそかに蓄財していた資産は数百万両に及んだといわれるが、その過半は密貿易で得た巨利であろうと推測されている。
 五兵衛の海外貿易を推進したのは船頭の青木龍兵衛である。龍兵衛は越中国下新川郡泊町の網元千駄屋の息子であった。
 泊町には加賀藩米蔵があり、龍兵衛は藩米を宮の腰へ運送する米船の船頭であった。
 彼は五兵衛を知ると、その天性の商売度胸を尊敬した。
 「銭五殿は男のなかの男じゃ。あれほどに思いきったる勝負のできる仁は、加賀にゃおらんわ。膿も銭五殿のような男気を持って生れたかったのう」
 五兵衛も寵兵衛の才覚を認めていた。
 「龍兵衛どんはうちへくる船頭のなかじゃ、一番の器量人や。物事の呑みこみが早うて、無駄なロはきかん。ああいうのが切れ者じゃろうのう」
 あるとき龍兵衛は五兵衛に聞いた。
 「旦那は御手船裁許におなりなさって、飛ぶ鳥落す勢いでこざいますが、ご商売はばろ儲けばっかりでございましょう」
 五兵衛は笑って応じる。
 「ぼろ儲けばかりやったら、この年齢になってかようにはたらくこともなかろうよ」
 「なみの廻船問屋やったら、一般の船に十度の商いをさせて、ようやく元を引くと申します。千両の船なら十度の商いで千両儲けるのでござりましょうが、十度の商いをいたすにゃまあ四、五年はかかりましょう。それほど利の薄いものでございましょうか」
 「まあ、ほんなもんやろ」
 「四、五年のうちにゃ荷を積んだまま難破いたす船も出る。またお城からの御用金のお申しつけもございましょ。さような損金をつぐのうて、なお店の身代をふやしてゆくには、よほど利のある商いをせにゃならぬと存じますが」
 「さような面白き商いというもんは、めったにないものや。龍兵衛どんなら、どこぞでぼろ儲けの商いをしてきてくれっけ」
 「そりや存分にはたらいて差しあげましょ」
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■河北潟埋立てを思いつく

<本文から>
 加賀藩では自ら耕作しない地主が土地を購入することを禁じていた。
 「田畑を持っておることは、銭五の身代を支えるために大事じゃ。御家中の御法度に触れるからといって、遠慮ばかりしとってはおれぬ。法をくぐっても、買わねばならぬわい」
 五兵衛は自分の腹心の名義を用い、土地を買い集めることを思いつく。
 田畑の耕作を他人に任せ、貸し料にあたる作徳米を集める地主となったが、用心ぶかい彼は地主としてのわが名は一切証文などに記さなかった。
 だが買い集めた田の総収穫米高七百九十石弱、銭星に納められる作徳米が六十五石余となるのに十年問もかかった。
 このため五兵衛は河北潟埋立てを思いついた。
 河北潟は周囲六里二十八町、東西一里、南北二里十八町、面積二千三百町歩の大潟湖である。
 宮の腰に近い河北潟では、諸村の者が漁をして生計をうるおしている。水深が浅いため大船は出入りできず、森閑として華の茂るにまかせていた。
 五兵衛は河北潟を埋立てして新田を開拓し、三男の要蔵を十村列と呼ばれる地位に就かせ、銭屋の農業部門経営をおこなわせようと考える。
 要蔵は幼時から俊敏の才智を知られていた。彼は末子であったので銭屋本家清水与三八の養子となっていたが、嘉永元年(一入四入)の暮に離縁され銭屋へ戻っていた。
 五兵衛は愛する末子のために寺中村に新宅を設け、田地を与え百姓として生計をたてさせることにした。
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■河北潟の普請が原因で窮地に

<本文から>
「河北潟の普請がこんな始末になるとは思いもかけなんだが、いまとなってはいたしかたもない。儂はご詮議をうけたときは要蔵といっしょに申しひらきをするゆえ、親戚ご一統は普請にかかわりを持ってはおらぬといいつらぬいておくれ。こうしておるうちにも町奉行所から呼び出しがくるやも知れぬ。いらざる疑いをうけてはいかん。皆裏口から出ていっておくれ」
 親戚衆が立ち去ったあと、五兵衛と要蔵、喜太郎、佐八郎があとに残った。
 五兵衛は息子たちに向いうなだれていう。
 「要蔵をば十村列にしてやろうと思い、また何万石という新田をこしらえて銭星がゆくすえ安泰であるよう根敷をかためてやろうとしたことが仇になったようや。喜太郎ははじめから普請に不承知であったのに、こうなってみれば累を及ぼされることになり、哀れなことや。この父がとりかえしのつかぬ間違いをしてしもうた。このうえはご先祖さまに申しわけもたたず、死んでお詫びするよりほかはない。俵ひとりで地紋へ落ちるわい」
 喜太郎は五兵衛の手を握った。
 「なにをいうがや。お父はんは悪いことをしてはおらぬわい。悪いのは無理に僕らに罪科を浴びせようとする黒羽織の奴らやないか。俵はこうなっても、お父はんを恨まんぞ。要蔵、佐入。お前らもそうやろう」
 「そうじや、その通りじや」
 「お父はんといっしょに死んでやるわい」
 「誰がそのようなことをいうてくれるか。膿はええ息子らを持って、しあわせや」
 五兵衛は三人の息子にいう。
 「儂はもはやこの年齢ではとても吟味に逢うては体が保たぬわい。僕が死んだとて、お前らは力をあわせて銭星を守ってくれよ。この狭い加賀ではいったん科人となった家は二度と頭をもたげることはできまいが、窮したときは覚悟をきめて異国へいけ。分ったなあ。いつまでも侍どもの勝手に扱われておっては堪らんわ。こけにされるのは儂の代まででたくさんや」
 五兵衛は銭屋の莫大な隠し財産の置き場所を息子たちに教える。
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■銭屋一統への刑はきびしかった

<本文から>
 牢につながれ、訊問をうけていた埋立て普請関係者は、ひとりとして自白する者もないまま、嘉永六年十二月六日と七日にそれぞれ処分の申し渡しをうけた。
 出牢を許された者、赦免された者、赦免されたが自宅に謹慎を命ぜられた者、家族預けとなった者が大半であったが、銭屋一統への刑はきびしかった。
 銭屋喜太郎、同佐八郎、喜助、久次郎、九兵衛は永牢を仰せつけられた。佐八郎は五兵衛の次男、書助は船頭、久次郎、九兵衛はいずれも銭星の使用人である。
 銭星の家名は断絶、家財はすべて没収ときまり、銭星要蔵は凍刑、手代市兵衛は斬首のうえ鼻首という極刑をそれぞれ科せられることとなった。
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