津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          下天は夢か信長私記

■事をなしとげるのに驚くばかりに慎重で、フレキシブルな行動をとる

<本文から>
 彼は絶えず四囲の情勢を勘案し、これときめた目標を達成するために、ああでもなし、こうでもなしと、縦横の糸を織りなすように策謀を練っては崩す。
 ようやく納得できる計略をたてると生駒八右衛門、蜂須賀小六、森可成など、腹心の紳作(忍者)たちに任務を与え、実行に移した。
 信長は清洲城をわが手中に収め、尾張下四部の主人となるのに、合戦をせず一兵をも損じなかった。
 正面から攻囲すれば、手痛い損害をうけるにちがいない、織田広信、坂井大膳らに二千にちかい手勢を動かさせず、謀略で破滅させたのである。
 七年間の内戦のあいだに、早くも信長の生涯を通じての特性があらわれている。
 それは事をなしとげるのに驚くばかりに慎重で、フレキシブルな行動をとることである。
 家康の性格を、
 「囁かずんば、囁くまで待とうほととぎす」
 という歌にたとえるが、それは信長のことではないかと思えるほどである。
 当時彼はひとつの城を取ると、家来たちが気を逸らせつぎの城を取ろうとしても、構わず兵を引いた。
 家来たちはせっかくの功名の機会をのがしたのを、おおいに不満とした。
 だが、取らなかった城は城主の信望が地に落ち、家来たちがしだいに離散してゆく。
 ついには主人もいたたまれなくなって逃亡する。そこで信長は半年か一年後に一兵を損ずることなくその城を取るのである。
 彼はその頃から、つぎのようなことをいっている。
「戦いの勝敗というものは、七割が戦場へ出るまでに決まっているものである。戦場に出てのち勝敗を決する要因は、三割しかない」
 戦いのまえに決する勝因の七割は、情報戦であった。
 戦国大名は、信長、秀吉、あるいは毛利元就のいずれを見ても、忍者の頭領のようなものであった。
 信長はまず戦おうとする相手の、家中の事情をくわしく調べあげる。主人から遠ざけられている重役、欲のふかい重役は、どの家中にもいるものである。
 信長はそのような連中を、利をもって誘い、寝返らせる。
 そのうえで、相手よりも多い兵力を集め、相手より優秀な武器をそろえ、自分に有利な時に、有利な場所へ相手を誘導し、合戦をしかけ一挙に潰滅させるのである。
 信長は情報戦のおそるべき効果を知っていた。
 情報の威力がもっとも端的に戦果にあらわれた好例は、信長が織田天下政権を確立してのち、天正三年(一五七五)五月の、長篠設楽原合戦である。
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■才能ある者は、氏素姓が知れなくても大抜擢する

<本文から>
 信長は外交戦略上、上洛可能な環境をつくりだしてゆく。
 だが美濃は容易にとれなかった。
 信長は永禄九年八月、一万に近い大兵力で北方のルート鵜沼から木曽川を渡り、美濃へ攻 め入ったが、やはりかがみ野で伏兵の反撃を受けた。
 それまでに、蜂須賀小六に命じ、稲葉山城下の加納に橋頭壁を確保させていたのも役立たず、大惨敗を喫した。
 斎藤龍興の家老氏家直元は、信玄への書状で、織田方の兵士のうち水に溺れた者が数を知らないほどであったと、嘲っている。
 この大失敗の直後、信長は木下藤吉郎に洲俣攻めを命じた。
 藤吉郎の父は農民の出で、信秀の足軽木下弥右衛門といわれるが、木下という姓があったか否かは定かではないという説もある。
 藤吉郎は生駒八右衛門の家で下男づとめをするうち、蜂須賀小六の家来になり、さらに信長に知られて弘治二年(一五五六)にその草履取りになった。
 藤吉郎は桶狭間の戦いに出陣しなかったといわれるが、永禄九年までの十年間に、お小人から小人頭、足軽、足軽組頭、足軽大将、そのうえの侍分にまでなっている。
 だいたい千石ぐらいの身分になっていたといわれるが、十年間で氏も素姓もないような人物が侍分になるのは、信長の異常な人材抜擢である。
 信長は才能ある者は、氏素姓が知れなくても、年俸十万円か十五万円の者を、数年のうちに年俸何億円の身分に引きあげるようなことをやる。
 彼の命じることを一〇〇パーセントないし一二〇パーセント実行する人間は、想像もつかないような大抜擢をされる。秀吉や滝川一益などはその好例である。
 だから抜擢された者は全能力を発揮して、死にもの狂いにはたらくのである。
 人材抜擢は、今日ではさほどめずらしくはないが、信長の時代は、そのようなことはまだぼとんどおこなわれていなかった。
 たとえば、武田信玄が少し格の低い重臣を家老にしたことがある。その時、信玄の父信虎は、こんな身分の者を家老にしたのはけしからんといった。それはかなりの身分の侍なのだが、家老になるほどの者ではない。
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■常識は全く考えない。面目といったことも全く気にしない

<本文から>
  しかし、政策の立案というのは、彼一人の考えである。
 霧が立ちこめたようになにも前途が見えないのを切り拓いていく布石のあとをたどっていくと、日本がヨーロッパより百年早く中世から近世に脱皮していく的確な施策になっているのである。こうした点で信長というのは大変な天才としかいいようがない。
 彼は史書などには学ばず常に現実を分析して、自らの感性によって、これはこういう方向に進むべきだということを判断して、それによって動いていく。
 また信長は、前例にとらわれず、的確に効果的な手を打って成功していく。
 彼の特徴としては、常識といったものは全く考えない。だから、面目といったことも全く気にしない。彼の行動を決定するものは徹底した合理性である。状況判断によって彼は自らの行動を律し、そこには感情は全く入らない。
 その一つの例として、元亀三年(一五七二)の三方ケ原の戦いの直前に、武田信玄の配下の信濃衆の家老である秋山晴近が束美濃に侵入してきた時の話がある。
 信長は、岩村城という、信濃、美濃、三河の国境の七百メートルの高いところにある山城を、調略によって取られてしまった。
 この城には信長の子供で三蔵ぐらいだったといわれるが、お坊丸というのが城主でいた。その後見入として信長の伯母であるおつやの方という女性がいたが、この人は岩村城の前の城主遠山景任の未亡人であった。
 相手は信玄の家老で、しかも別動隊であるから、信長は面目を失った。彼はすでに天下政権を確立しており、十万の兵隊を動かせる。なみの武将であれば損害をかまわず取り戻しにいくのであるが、信長は兵を動かさない。こんなものは兵家の常だから仕方がないというのみである。
 秋山晴近はおつやの方を自分の妻にして、お坊丸は遠く甲府へ送られ勝頼のもとに人質として置かれた。
 京都の足利義昭は、自分を将軍に擁してくれた信長に頭を押えられ、反信長戦線を結成するため、全国に御内書を発して大暗躍している頃であるから、武田の戦力を諸方に吹聴した。
 京都の町衆も信長を嘲る。信玄の家来にやられるぐらいだから、どうにもならない、信玄が出てきたらたちまちひねりつぶされてしまうという。
 いままで強い強いと思っていたら、なんという腰抜けだといってあぎ笑う。
 世評を気にする者であれば面目にかかわるからと、しゃにむに攻撃するであろう。
 ところが、信長はいまここで動けば、岩村城は七百メートルの山上にあるので我責めをすれば、損害が生じる。冷静に判断して、取れることは間違いないけれども行動に出ない。
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■海外進出の足場ができれば官位も必要なかった

<本文から>
 歴代将軍家でさえ拝領の勅許がなされなかった稀代の名香を、信長が得ることができれば、彼の権威は、将軍を超えたことになる。
 現在までに蘭曹待を切りとったのは、足利義政、繊田信長、明治天皇の三人だけである。
 ところが天正六年(一五七八)になると、信長は官位をすべて返上してしまい、無位無冠となった。彼はまったく官位を必要としなくなったのである。
 そうすると、朝廷は不安になってきて、信長を官位へ就かせようとあせってくる。
 天正十年五月、信長が武田勝頼征伐から安土城へ凱降すると、勅使が下向し信長に会いたいという。
 森蘭丸が何の用かと聞くと、征夷大将軍になってもらいたいと告げた。
 だが信長は二日間勅使に会わなかった。三日目に勅使のつよい要請によって会うが、一言も口をきかなかった。
 それで、琵琶湖に船遊びに出して、船遊びに出た勅使がまた戻ってくるのだと思うと、そのまま瀬田に送り帰されたという事件があった。
 信長はそのとき暦の改正を言い立てていた。暦の制定権は天皇の権限で、当時は京暦が使われていた。
 ところが信長は、三河から関東、北陸にかけて戦国武将がよく使っている三島暦を用いてほしいと、朝廷に要求した。信長は、自身の斡旋で公家に取り立ててやった陰陽師の土御門を通じて、朝廷に強硬に申しいれていた。
 朝廷では、信長が征夷大将軍を受けないので、太政大臣、関白の席も空位にして、その三つのいずれをとってもいいというように言ってきたが、信長はそれでも受けない。
 なぜ受けないかというと、もはや必要がなかったからである。天下平定、あるいは海外進出のために、朝廷の官位などは必要がない。
 そのように彼は、常識を超越した独自の価値判断をしていた。意識の固着がまったくないのは、信長の一つの特徴である。
 信長が義昭を将軍に擁立したときも、義昭は自分が将軍としての権限をふるいたいのだが、信長はそうはさせなかった。
 当時の日本人の意識としては天井が二つあった。一つは、日本の国の主人は天皇であり、もう一つの天井は、すべての武士の主人は征夷大将軍である。これが牢固として抜けずにあった。
 武田信玄などは、神様までだますほどの偽手紙などを出しているけれども、征夷大将軍というのはわれわれの主人だという気持ちを持っていた。
 将軍の権威は、有名無実のぬけがらのようなものになったとはいえ、日本の武家社会の最高統率者としての地位にかわりはなかった。
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■多数の家来たちに頼られ慕われた

<本文から>
 彼の身辺には堀秀政とか長谷川秀一といった近習衆が何人もいた。こういった連中は、自分の友人や賄賂を用いてくる同輩については、信長の耳にいいことばかりを知らせ、悪いことは隠す。
 それを裏付けているのが秀吉の手祇であり、秀吉は長谷川秀一とか堀秀政に賄賂を常に贈っている。だから、秀吉の悪いことはいわずに、いいことばかりをいう。
 ところが、信長はそうしたことに左右されるということがない。
 いってみれば、信長には多数の家来たちに頼られ慕われる頭領の資格、チーフシップともいうべきものが、そなわっていたのである。
 ふつう、頭領の資格には、茫洋とした一面が不可欠であるといわれる。細事にこだわらない鷹揚、森落な人柄は、部下の心をやわらげひきつける。
 信長には、茫洋とした性格はないが、少年の頃から大うつけといわれた、放狂をよろこぶ傾きが、壮年に及んでも残っていた。
 彼は勇敢で、天下統一の目的を達成するために全力をついやし、事にあたって真率であった。日常の暮らしむきも、酒は呑まず、睡眠はみじかく、贅沢な食事を好まず、女色に溺れない。
 信長に従う家来たちは、彼の叡智明察を信頼していた。信長には部下の才幹を的確に理解し、適材を適所に置く能力がそなわっていた。
 尾張下二郡の領主として、二千に満たない家来を従えていたときから、十三カ国に君臨し、八万の大軍を擁するに至るまで、信長の統率力は余裕に満ち、ひとたび戦場に姿をあらわせば、全軍の士気はふるいたった。
 彼は側近の宿老、譜代の家来が、あれこれと進言するのに耳をかさず、明智光秀、木下藤吉郎、滝川一益らをとりたて、重用して大任を果させてきた。
 諸事に清疑心のつよい信長であったが、出自もさだかでない彼らを用いるのに、古参の諸臣らの謹言にまったく耳をかさなかったのは、その叡智をうらづけてあまりある証拠といえる。
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■関所の撤廃によって、恐るべき経済大変動、民度の大拡張が始まった

<本文から>
 関所は地侍にとって、関銭をとるほかに領地を完全に支配し収奪するため、外部との交流をおさえる障壁の機能を果す、重要な仕組みであった。
 彼らはわが領地の百姓からとりたてた農産物を、特定した商人によって売却させ、領内の市場、座を掌握して利益を独占していた。
 その結果は小領地がたがいに政治、経済面での交流がないままに孤立をつづけることになる。
 信長は関所を撤去し、楽市、楽座の制を導入すれば、地侍の堅固な収奪の地盤は崩壊し、物資の大量な供給消費の道がひらけると見ていた。
 領地内百姓の完全支配の手段を失った地侍たちは、信長のもとに結集して、あらたな軍団を構成すればよい。
 信長は関所の撤廃によって、強力な軍勢と大量の軍需物資の供給ルートを掌握できるのである。
 信長は関所撤廃と同時に、城割りもその頃から実施した。一国に一城を残すのである。
 その結果、地侍は自分の領地を支配できなくなり、主人にカがなくなってきたので、それまで下人(奴隷)として使っていた百姓がいうことを聞かなくなり、地侍たちも食えなくなった。
 信長は支配力を失った地侍たちを城下に呼び集め、彼らの領地の産物の出来高を書き出すよう命じた。書き出しとは書類上の検地である。
 信長は内容を検討し、妥当だと思えば内容を承認し、それを今後は知行として与えようといった。
 それまでは土地に密着し、小なりといえどもわが領地の主人であった地侍が、信長から給料をもらうサラリーマンに変ったわけである。
 信長は彼らの土地を村役人に治めさせる。地侍たちは城下に定住して、戦闘専門集団になるよう要求された。
 関所の撤廃によってどのような効果が上がったかといえば、恐るべき経済大変動、民度の大拡張が始まった。
 地侍たちの所領は荘園制度そのままを引き継いでいたから、わずかな土地を所有するひとつまみの名主百姓のほかは、すべて下人である。下人とは寺社の領地では賤隷というが、いわば奴隷であり、彼らはほとんど動物並みに扱われていた。
 たとえば、下人の男性と女性が恋愛をして、男の子が生れたとする。そして隣の地侍のところに生れたばかりの女の子が二人いるとする。そうすると、こっちの地侍が「おれのところは男の子が生れた。女の子二人と男の子一人を替えようじゃないか」と簡単に取り替えてしまう。まるで犬の子をやりとりするようなことが平気でおこなわれていた。
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■延暦寺の焼討ち

<本文から>
 信長は重大な危機に直面した。
 信長は腹背に敵を受けて動きがとれなくなった。このときに騒動を起すべく裏で暗躍した張本人である将軍義昭を脅して、朝廷に仲裁の申請をして、かろうじてピンチを切り抜けた。
 延暦寺にいた浅井・朝倉連合軍も大雪で弱っていたため、たやすく和談に応じ、信長はかろうじて危機を脱することができた。
 結局、そこから延暦寺の焼討ちが起ってくるのである。信長は中世から近世の大混乱期に大ナタをふるった人物だから、みせしめということをやる。延暦寺の焼討ちのときには、彼は宗教に対する憎しみはなかった。延暦寺のある比叡山は京都の咽喉部にあたる軍事拠点であったから、純粋に軍事的な目的で焼討ちをおこなったのだ。
 比叡を敵に押えられれば、京都と岐阜の連絡が断たれ、織田軍事政権の存立が脅かされる。
 ここで、当時の延暦寺がどんな状況にあったかについて述べておきたい。
 延暦寺は天台宗山門派総本山として、洛中に種々の領主権を持ち、近江、美濃にもおびただしい領地、末寺を有していた。
 およそ八百年前、桓武天皇が山中に創建をゆるした延暦寺三千八百余の堂塔は、すでに衰微して四百余となったが、近江の三分の一を寺領としていた。
 そして、古代勢力の象徴として、鎮護国家の伝統を受け継いできた延暦寺の権威は、ゆるぎないものであった。
 叡山山上には、三千坊といわれる坊舎が散在し、強大な武力を誇る僧兵を擁していた。山下の坂本は、延暦寺の鎮守、日吉大社の門前町で、京都へ物資を運送する琵琶湖水運の要地であった。
 比叡山は東国、北陸の諸道が京都に入る喉もとに位置しており、湖岸平野を確保するためには、欠くことのできない重要な軍事拠点であった。
 そこは俗権の介入できない聖地とされているが、全山の僧衆、山麓の住民がこぞって協力すれば、数万の軍勢が極寒の季節に、長期の滞陣が可能な兵砧の実力を発揮する。
 往古にくらべ衰弱したとはいっても、山門大衆の軍事能力も侮りがたい。僧衆のうち、学侶は純然たる学僧であるが、大衆は山門領を支配する軍隊であった。
 僧兵がわが国に出現したのは平安朝時代である。当時の僧侶は、社会上層部の将軍、執権、管領から武士階級、下層にあって農業に従事していた民衆のすべてに、密接不可分の接触を保っていた。
 宗教によって、社会のあらゆる層に精神的な影響力を及ぼしてゆく僧侶階級は、やがて善捨によって広大な荘園を所有し、武士も対抗できないほどの強力な僧兵を養うようになった。
 僧兵とは、僧侶と武士がむすびつき、組織されたもので、ヨーロッパの騎士団に匹敵する戦闘力をそなえていた。
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■追い込まれる光秀の状況

<本文から>
 光秀は彼らを擁し、京都の軍政を担当してきたが、信長はいまでは光秀の官僚組織を使わないでも、不自由をおぼえなかった。
 信長は三男の神戸三七信孝を、四国征伐の大将に任じるつもりでいた。
 長宗我部討滅ののちは、彼を四国の大守とするのである。
 光秀は、ながらく長宗我部との交渉にあたってきた実績から考えて、自分が四国攻めの大将となるつもりでいるのに、ちがいなかった。
 それが当時の習慣であった。彼がなるべき大将の役目を信孝に与えると、どうなるか。
 光秀は落胆するであろうが、信長の措置を納得せねばならない。甲州征伐では、滝川一益が大将の信忠の指揮に従っている。
 中国征伐でも、秀吉は信忠の指揮下に属している。
 そのような前例からみて、光秀は四国攻めの副将にさえなれば、面目を保てる。
 信長が迷うのは、光秀に野戦の才能が乏しかったためであるが、それよりも大きな理由がほかにあった。
 この頃、中国路から光秀謀叛の風聞がしきりに流されてくるのである。それを信長のもとに知らせるのは、秀吉であった。
 織田政権のなかで、光秀が閑却された立場に置かれているらしい、との情報を得た毛利陣営と、備後の師にいる義昭が、内部分裂をはかって虚報を流しているのである。
 信長はそのような事情を知っていたが、敵からつけこまれやすい織田陣営の弱点となった光秀が、うとましくてならない。
 この際思いきって光秀の面目を失墜させ、彼を現在の地位から追いおとせば、政権機構を増強する結果になろうと、信長は考えた。
 信長は、彼を尊敬しいわれるがままに動く他の家来どもとはちがい、光秀が批判の眼差しを向けてくるのを知っている。
 光秀は自らの知力に頼るところがあり、信長は有職故実を重んじようとする彼の、賢ぶったふるまいが嫌いであった。
 天下政権を、できるだけ効率よくはたらかすためには、常に無能者を選別し、見捨ててゆかねばならなかった。
 光秀は四国攻めに際し、大将でなくとも副将には命じられると予想していた。ところが、長宗我部征伐の陣触れが発表されると、大将が神戸信孝で、副将は丹羽長秀が任ぜられ、光秀は外されたのである。
 光秀が享禄元年(一五二八)に出生したという説をとれば、天正十年(一五八二)には五十五歳になっている。
 当時としては老境に入り、晩年をむかえようとする光秀は、九歳年下の秀吉に蹴落される運命に陥ったのである。
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