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<本文から> 彼は絶えず四囲の情勢を勘案し、これときめた目標を達成するために、ああでもなし、こうでもなしと、縦横の糸を織りなすように策謀を練っては崩す。
ようやく納得できる計略をたてると生駒八右衛門、蜂須賀小六、森可成など、腹心の紳作(忍者)たちに任務を与え、実行に移した。
信長は清洲城をわが手中に収め、尾張下四部の主人となるのに、合戦をせず一兵をも損じなかった。
正面から攻囲すれば、手痛い損害をうけるにちがいない、織田広信、坂井大膳らに二千にちかい手勢を動かさせず、謀略で破滅させたのである。
七年間の内戦のあいだに、早くも信長の生涯を通じての特性があらわれている。
それは事をなしとげるのに驚くばかりに慎重で、フレキシブルな行動をとることである。
家康の性格を、
「囁かずんば、囁くまで待とうほととぎす」
という歌にたとえるが、それは信長のことではないかと思えるほどである。
当時彼はひとつの城を取ると、家来たちが気を逸らせつぎの城を取ろうとしても、構わず兵を引いた。
家来たちはせっかくの功名の機会をのがしたのを、おおいに不満とした。
だが、取らなかった城は城主の信望が地に落ち、家来たちがしだいに離散してゆく。
ついには主人もいたたまれなくなって逃亡する。そこで信長は半年か一年後に一兵を損ずることなくその城を取るのである。
彼はその頃から、つぎのようなことをいっている。
「戦いの勝敗というものは、七割が戦場へ出るまでに決まっているものである。戦場に出てのち勝敗を決する要因は、三割しかない」
戦いのまえに決する勝因の七割は、情報戦であった。
戦国大名は、信長、秀吉、あるいは毛利元就のいずれを見ても、忍者の頭領のようなものであった。
信長はまず戦おうとする相手の、家中の事情をくわしく調べあげる。主人から遠ざけられている重役、欲のふかい重役は、どの家中にもいるものである。
信長はそのような連中を、利をもって誘い、寝返らせる。
そのうえで、相手よりも多い兵力を集め、相手より優秀な武器をそろえ、自分に有利な時に、有利な場所へ相手を誘導し、合戦をしかけ一挙に潰滅させるのである。
信長は情報戦のおそるべき効果を知っていた。
情報の威力がもっとも端的に戦果にあらわれた好例は、信長が織田天下政権を確立してのち、天正三年(一五七五)五月の、長篠設楽原合戦である。 |
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