津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          下天は夢か 4

■長篠合戦では勝頼を騙して誘いこんだ

<本文から>
一信盛は長閑に申しいれた。
「私はかねて主人信長に恨みを抱いている。ついては、このたび勝頼公が信長と決戦されるとき、私は戦いの最中に裏切り、織田本陣をついて信長を討ちとるであろう」
 佐久間信盛は当時、織田家随一の重臣であった。
「甲陽軍艦」では、設楽原出陣のとき、信盛と家康がそれぞれ六千の兵を率いていたとしているが、同列の軍団長といえる地位にいたようである。
 信盛摩下の寄騎には、水野信元がいた。家康の外伯父であるが、天正三年十二月二十七日に、武田勝頼への内応の容疑で、信長の命で家康に殺される人物である。
 水野信元は信玄存命の頃から、武田家に心を寄せていたようで、三方ケ原合戦のときにも、織田家援軍として戦場に向ったが、到着が遅れ、内通の噂が立ったことがある。
 佐久間信盛も織田信秀以来の老臣として、とかくさしでロをききたがり、信長に疎まれている。
 信盛には謀叛のきぎしはないが、信長は勝頼をだますには格好の人物であると、考えたのではあるまいか。
 信盛を用いての謀略が、真実であったか否かは分らない。信長と首脳の将領たちが秘密のうちに運んだことである。
 ただ、信長は決戦のまえに断言していた。
 「四郎はきっと、ひとすじに押してくるだでや」
 武田勢が設楽原に攻め寄せてくるとの確信を、信長は何によって得たのか。
 信盛ではなくとも、有力な織田軍団の部将が、戦いのさなかに寝返りをうつと勝頼をだまして いた事実が、あったにちがいないと思われる。
 (私は設楽原をおとずれたとき、戦場となった地域の、想像をうわまわる狭隘な窪地であるのにおどろかされた。現在は当時よりいくらか平坦になっているといわれるが、それでもいたるところに小丘あり段差あり、とても騎馬軍団が疾駆できるような地形ではない。そのような場所へ、武田勢が突撃してゆくのは、正気の沙汰とは思えない。勝頼は、もっと有利な条件で戦う機会をえらぶことができたのに、なぜ自ら破局に向っていったのか。やはり彼の判断を迷わすだけの誘引を、信長が仕掛けたのであろう)
▲UP

■天下を用いる信長

<本文から>
 信長は、越前平定ののち、伊達輝宗への十月二十五日付の書状で越前、加賀の状況に触れている。
 「越賀の凶徒数万を撫で切り、即時平均に属し候。この両国多分に一揆のたぐい、物の数にあらず候といえども、時にあたり天下に対しその禍をなすのあいだ(中略)討ち果し候」
 文中に、天下の語があらわれている。信長は自ら「天下」の主体になろうとしていた。
 天下とは、中国で生れた観念である。天の覆う下、あめがしたという意で、全世界を指す。
 日本において、源頼朝以来の武家政権がもちいた天下の語は、天皇の支配圏を意味していることが多い。
 中国の「礼記」に「天下を公となす」とあり、「六韜」には、「天下は一人の天下にあらず、すなわち天下(万民)の天下なり」とあるのは、天下の権は私するものではなく、公共のものであるという意である。
 信長は天下を禁裏と同義にもちいることもあり、天皇の全領土とその住民の意を托してもちいることもあった。
 彼はまた、信長に味方することが天下のためになるという。この場合は、天下と自分が一体で自分が公共を体現していると考えている。
 信長は日本全土の戦国大名の領国のうえにあって、それらを統合し、大名のすべてを望むがままに動かせる中央政権を、天下と呼びたかったのである。
 「上さまは、ほんにふしぎなお方でいらせられまする」
 安土仮御殿で、信長と楽しい日を送っているおなべが、閏のうちでつぶやくことがあった。
 「なにがふしぎかのん」
 黙って天井を睨んでいた信長が聞く。
 彼は常に考えにふけっている。たまに好きな小歌のひとふしをくちずさむこともあるが、すぐにやめる。
 解決せねばならない問題を、あまりにも多くかか、えこんでいるので、つぎからつぎへと考えごとに熱中せねばならない。
 「お傍におりますれば、諸事にお心をおくばりあそばいて、おなさけのほどもひとしお身に沌みまするに、ひとたぴ表の問においであそばさるときは、ご家来衆のおそれはばかるきまは、ただごととも思われませぬ。上さまにはにわかに鬼神の乗りうつるかのごとく見えまするに」
 信長はみじかい笑い声をたてる。
 「人にはそれぞれ世渡りをいたすに、方便をつかわねばならぬものでや。儂が家来どもはもとより、遠方よりおとないし剛の者どもにも、おそれあがめらるるようにいたすは、儂の方便だわ。安土に本城を普請いたすもまた、天下を治めんとする方便だがや」
 彼には自分の盛運を誇ろうとする気はない。夢幻の生の苦味をかみしめているかのような孤独の余韻が、言外にたゆたっていた。
▲UP

■贅沢をせず質素な食事をとり、睡眠を惜しみ、懸命の努力をつづける

<本文から>
 信長は永禄十一年(一五六八)生野銀山を収め、代官生熊太兵衛に精錬法を研究させた結果、灰吹き法を用い、莫大な金銀を得るようになっていた。
 織田の軍勢は、軍装、兵器は新品をそろえ、金銀金具もまばゆいばかりであったといわれていた。軍資金が豊富でなければ、一挺の価格が米十五石といわれた鉄砲を、三千五百挺も装備することはできない。
 当時、十万人の兵力を動員できるのは、信長だけであった。十万人の兵摂は、言分で米五百石である。
一カ月では一万五千石。四斗俵にして三万七千五百俵である。馬糧、陣営具、弾薬など、合戦に必要な品をととのえ、兵站能力に万全を期するためには、莫大な財力のうらづけが必要であった。
 信長は一代で成りあがった僣上者が、好んで衣食住にあらわす贅沢には、まったく興味を示さなかった。
 彼が贅沢をあえてするときは、自らの権威と富力を誇示することによって、他者を慴伏させようと考えているのである。
 信長は安土城の本丸に日本の城郭建築に前例のない七層の天主をあげる年来の構想を、実現しようとしていた。
 彼は「天下」と呼ぶ中央政権を確立するために、自分の全能カをかたむけようとつとめている。安土の天主は、「天下」の象徴となるのである。
 質素な食事をとり、睡眠を惜しみ、常に諸方の反対勢力ヘの対策に心をくだき、懸命の努力をつづける信長を見る側近の男女は、専制君主への畏れよりもつよく、敬愛の念を抱いていた。
▲UP

■朝廷の権威を超越した政治家としての行動をとっていた

<本文から>
 城内各層の座敷に描かれた賢者、儒者、仙人仙女、釈迦、天人、三皇五帝などは、信長が彼らの誰よりもすぐれた、最高の存在であることを、絵を見る者に覚らせるためにえらばれた画題であった。信長は地上最高の神にふさわしい朝ごとの儀式をおこなうため、全国から数首体の神像、仏像を安土城に集めている。
 彼はそれらを崇拝するのではなく、それらに自らを崇拝させる儀式を、毎朝欠かさずくりかえしていたのである。
 信長とともに起居するおなべは、後が禅仏信仰を人間が心の拠りどころとして求める幻想にすぎないとしながらも、自らをなみの人間ではないと信じはじめているのを知っていた。
 信長は自分が宇宙の意志の体現者として、現世に生れてきたのかもしれないという考えを胸中で育てている。
 「なべ、儂は近々に官位を辞するでや」
 「それはなにゆえにござりまするか。ご真意のほど、なべにお洩らしあすばされてちょ−でいあすわせ」
 四十五歳の春をむかえても白髪もなく、沈んだ白督の肌に張りを失わない信長は、宙に鷹のような眼差しをすえ、つぶやく。
「儂はこののち五、六年も経つうちには、万国安寧、四海平均をいたすだで。さすれば、海のそとはたらき場所を求めねばならず。さようなる世になれば、儂にはこれまでがようなる位階は似あうまいでや」
 おなべは信長の言葉に気がたかぶり、鳥肌が立った。
 「上さまは、まことに人にてはおられませぬ。智恵の泉というもおろか、私には生き神さまとしか見えませぬ」
 信長はすでに、朝廷の権威を超越した政治家としての行動をとっていた。
 彼は天正三年十一月、権大納言になってのち、公家、寺社に所領を給付するとき、相手の格式によって、「進覧」「進献」「進之」「宛行」などの語句を用いている。
 それらはすべて、信長が「新地」として与えたもので、書状に天下布武の朱印が捺された。
 新地は石高で表示されており、直接支配を命じているところから、荘園制にかわる近世知行制度がとられたと見てよい。
 信長は、輿福寺別当職の補任のような天皇の権限にかかる事例にも、決定権を持とうとしていた。
 彼は朝廷の経済と政治を、「天下」政権によって掌握しようとした。
▲UP

■重臣らへの処断

<本文から>
 信長折檻状に記されている彼の落ち度としては、とくにとりあげるほどのものはない。信長が気にさわっているほどには、客観的に失策といえるような事例はなかった。
 叱責の主な理由は、五年間石山を攻囲しながら、これというはたらきがなかったということであるが、信長が本願寺攻略の方針としたのは、カ攻めを避け、包囲をもっぱらとする長期作戦である。
 五十余の支城を設け、諸国門徒の応援をうけている石山本山は、織田勢が全力をあげ攻めかかっても、こゆるぎもしない態勢をととのえていた。
 拙速策をとれば、敗北するばかりであったため、信長は石山を包囲しつつ、本願寺に協力する敵を各個に撃破していったのである。
 本願寺が屈服すると、信長がその間の事情を忘れたかのように、信盛の無能を責め、家中最長老の地位を奪い、知行貯えのことごとくを召しあげたのは、苛酷の処断といわざるをえない。
 信盛と息子の甚九郎正勝は、天王寺砦において信長の使者から覚書をうけとると、とるものもとりあえず、高野山へ向った。ぐずついていると殺されかねない。
 信盛は夢斉定盛、正勝は不千斎定栄と号し、剃髪して高野山に住む。父子は金剛峰寺小坂妨に金子八両余と渋紙包み四個をあずけ、賄を頼んだ。
 万が一のときは常灯、卵塔内の石灯などの建立を依頼しているのもあわれである。
 「信長公記」によれば、信盛父子はやがて高野山をも逐われた。
 「ここにもかなうべからざる御諚について、高野を立ちいで、紀州熊野の奥、足に任せて遂電なり。しかるあいだ、譜代の下人に見捨てられ、かちはだしにておのれと草履をとるばかりにて、見る目も哀れなる有様なり」
 信盛父子を追放したのち、八月十七日に京都へ戻った信長は、家老の林通勝と重臣安東伊賀守父子らの知行を召しあげ、追放した。
 信長があげた通勝の罪科は、二十五年前の弘治二年(妄五六)、柴田勝家とともに信長の弟勘十郎信行を織田家の後継者にかついだ罪であった。
 通勝はそののち信長に忠誠をつくしている。彼の息子林光時は、「槍林」の異名をもつ勇士であった。
 信長は光時の勇猛を愛し、家中随一の勇者をさだめる投票をおこなったとき、光時を中傷する票が七つあったのを、すべて無効としたほどである。
 光時は天正元年(妄七三)九月、信長が伊勢長島一向一揆を攻め敗北したとき、殿軍として奮戦し討死にした。
 信長は、林一族のそのような功績を無視し通勝にいい渡した。
 「そのほう、弘治年中譜代の家老に似あわぎる悪逆謀叛の条、糾明のうえは一命を取るが本意なれども、先年のいきさつあれば助けてとらすでや」
 通勝が二十五年前、信長を謀殺しようとした弟美作守のたくらみに同調しなかったため、命だけは助けてやるというのである。
 通勝とともに信行をおしたてた柴田勝家に、何の答めもないのは、ふしぎな裁量であった。
▲UP

■朝廷の特権・歴の改正をいいだす

<本文から>
 朝延には、旧制度を徹底して破壊してゆく信長に対する、不安感がわだかまっている。仏教から現世の権力を剥奪した荒技への反感もある。
 しかし、現在の信長の意向に、反対できる公家はいなかった。
 信長が将軍任官を拒むのは、朝廷の官職からはなれ、あらたな権力機構をうちたてるためかも知れなかったが、それは家来たちの想像の域をこえていた。
 信長は勅使側のつよい要請によって、六日に女官たちと面会したが、任官を受ける意志表示はしなかった。
 彼は夕刻に及び、琵琶湖に三根の大船を出し、勅使を接待させて、そのまま大津へ送らせた。酒肴の膳部をまえに、湖上の涼風に吹かれる勧修寺晴豊の胸に、信長への恐れがわだかまっている。
 信長はその年の二月、暦の改正をいいだしていた。
 暦は天子が制定するというのが、中国古来の思想である。日本でも古代から朝廷に陰陽寮を置き、陰陽頭が作暦をおこなってきた。
 当時の陰陽頭には土御門家が世襲で任命され、全国の陰陽師を従えていた。
 同家のこしらえる京暦は、諸地方の暦の基準となっているが、天正年間には地方によって、京暦と異なる暦も多かった。
 信長が京暦にかわらせようとしたのが、尾張美濃で用いられている三島暦であった。
 三島暦は相模、下総から信濃東北部、越後にひろく用いられている。上杉景勝、真田昌幸、北条氏直らが、三島暦を使っていた。
 京暦が宣明暦を基本とするのとは、別の暦法に拠ったものであろうが、三島暦には、天正十年十二月に閏月があった。
 京暦によれば、天正十一年一月に閏月を置くことになる。
 久備は尾濃の暦師賀茂在政と対決させられた。
 信長は久備に命じた。
「京暦を尾張の暦にあわせて、閏十二月を立つるがよからあず」
 京都へ戻った久備の報告を開いた朝廷諸官は、騒然となった。
 天子が国の制度として定める暦の内容を、信長が変更するのは、大問題であった。朝廷の権威がこの一事で揺らぎかねない。
 三月に入って信長が信濃、甲斐へ出陣したため、暦の論議は中断きれているが、信長はかならずこの件をふたたび実現しようとするにちがいなかった。
 天下を統一するためには、暦の統一をかならず実現せねばならない。だが信長が自ら暦の制定者になるのは、天皇の権威をないがしろにする行為といえた。
 朝廷では、信長が将軍職を拝任しなければ、大政大臣、関白のいずれかに推す用意をもととのえていた。
 天正十年二月二日に大政大臣に補任された近衛前久は、わずか三カ月の在任ののち、このとき辞官していた。信長のために席を空けたのである。
 だが信長は、ついに官職に就く意志をあらわさなかった。
 彼は勅使が安土を去ったのち、おなべの方にみじかい感懐を洩らした。
 「いまとなりては、遅きに過ぐるだわ。もはや位などは望まぬ。儂はのん、いまは何びとも思い及ばざることを、勘考いたしおるのだで」
「それは、いかなることにござりまするか」
 おなべはたずねたが、信長は口辺にかすかな笑まいのかげを浮かべたのみであった。
▲UP

■秀光叛逆をそそのかしたのは足利義昭かもしれない

<本文から>
 また明敏な信長は、それほどまでに光秀を追いつめておれば、当然彼の窮余の反撃があるかも知れないと、警戒するであろう。
 光秀に信長襲撃をそそのかしていたのは、備後の鞍の浦に亡命していた足利義昭であったかも知れない。
 本能寺の変の当日、光秀は信長父子を討ちとめたのち、備中高松で羽柴勢と対峠している小早川隆景に、つぎの密書を送った。
 「急度、飛檄をもって言上せしめ候。こんど羽柴筑前守秀吉こと、備中において乱妨を企て候条、将軍御旗を出され、三家御対陣の由、まことに御忠烈の至り、ながく末世に伝うべく候。然らば光秀こと、近年信長に対しいきどおりを抱き、遺恨もだしがたく候。今月二日、本能寺において信長父子を誅し、素懐を達し候。かつは将軍御本意を遂げらるるの条、生前の大慶これに過ぐべからず候。この旨、宜しく御披露に預かるべきものなり。誠憧誠恐。
  六月二日
  惟佳日向守
  小早川左衛門佐殿」
 この密書は光秀の使者が、闇夜のため羽柴の陣所を小早川の陣所とまちがえたので、秀吉の手に入ったものであるとされている。
 これは後世の偽書ではないといわれるものだが、光秀の決断にあたり、裏面から義昭がはたらきかけていたのではなかろうかと、想像できる文面である。
 義昭は京都の公家、町衆と常時交流を保っていた。光秀は丹波を領国としたのちにも、京都に多くの重臣をとどめ、義昭と同様に旧来の勢力と密接な関係をつづけている。
 朝廷にとって、天正十年六月初めに予定されている信長の中国、四国親征の途次の上洛は、彼が中央政権を確立するための、名目的地位を表明する機会として、重視すべき時期であった。
 信長はこのときに、朝廷から推された征夷大将軍任官につき、奉答する用意をしていたと考えられる。
 安土へ下向した勅使に格別の返答をしなかった信長は、上洛に際し自らの意向をあきらかにしなければならない。
 勅使が安土に持参した誠仁親王の御消息にも、「よろず御上洛の時申し候べく候」と記されており、信長には奉答の必要があった。
 彼がいかなる名目を欲していたかは知るすべもないが、天下を体現する自らの地位をどのように位置づけるかの、重大な意志表示である。
 朝廷は、彼の返答がどのようなものかと、危催の念を抱きつつ待っていたにちがいない。
 信長はすでに、暦統一の件で朝廷を凌ぐ権力をめざそうとする意向をあらわしていた。
 朝廷と、京都の永遠の繁栄を期待する町衆にとって、信長は不要であるのみか、危険な存在となっていた。
 公家と町衆には、先祖代々幾多の戦乱に堪えぬき、京都で生きてきたながい伝統がある。
「信長は、四囲、中国を平らげたのちは、城を安土から大坂へ移しょりますやろ」
「その先は、どこへいきよるやろか。しまいには唐、天竺へ城を持ちよるやら分らん」
 彼らはひそかに、このような言葉をかわし、信長を危険人物と見るようになっていたであろう。
「いまのうちに、信長を退治するのが上分別というものどす」
「どうやって退治するのやろ」
「日向守はんをけしかけるのや。そうおしやす」
 彼らは自分では動かない。
 義昭のような人物を語らい、光秀をそそのかさせるのである。
 光秀はこののち衰運に向うであろう立場にいる。彼が思いきって叛逆し、信長を倒せば、朝廷、京都町衆はもとより、寺社勢力、信長に淘汰され、あるいは人材登用の恩恵に浴さず閑却されている地侍勢力が、こぞって味方につくとささやきかけるのがよい。
▲UP

メニューへ


トップページへ