津本陽著書
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          下天は夢か 3

■堕落僧の比叡攻撃、西洋にも僧の腐敗

<本文から>
 佐久間は懸命にいきめようとした。
 「お殿さまにお言葉をかえすは、おそれ多きことながら、比叡の山は顕密兼学の大道場にて、皇武両門の祈願の地にござりまする。その霊験はならびなく、これによって弘隆の仏威を誇って、山徒我意をほしいままにいたせしことも多かりしとか。然りといえども、上代の帝王も、朕が心にかなわぬは、鴨川の水と山法師なりとのたまわせられ、度々の狼籍をもご宥免なきれ、穏便にさしおかれし先例しばしばにてござりまする。それほどの聖地をば、いま亡ぼされなば、国家の旧例をたがえるのみならず、天下の人望を失うこととあいなりますれば、なにとぞいま一度のご勘考あすばきれて、ちょ−でいあすわせ」
 信長は佐久間の言に、耳をかきなかった。
 「去年、浅井、朝倉と坂本にて対陣いたせしとき、いろいろ申し開かせたるに、山門の坊主どもは承引いたすべきか、敵徒と一味して禁裏公方に弓を引いたでや。あやつどもは魚鳥をくらい女人にたわむれ、沙門の道に背きし売僧だで。天下の政道をあいさまたげ、仏意禅慮にも背く国賊のたぐいだぎゃ。いまあやつどもの亡ぶは自業自得。なにをもって赦免いたせと申すでや」
 僧侶の堕落は、信長の指摘をまつまでもなく、ひろく世間に知れわたっていた。
 危難にあい、病気にかかり、老いぼれた人々を、僧侶たちが迷信にひきこんでは金銭をまきあげ、贅沢をきわめた生活を送っていたのは、日本だけではなかったようである。
 ルネサンス前期にあたる当時のヨーロッパでも、僧侶の席敗は極限に達していたという。
 フランチェスコ派の巡回修道士たちがやっていた、まやかしについての記鏡がある。
修道士は信者をあつめ、聖徒の遺物を拝ませる。彼らの手先が群衆のなかにまぎれこんでいて、眠が見えなかったり、重病に蹴っているふりをし、遺物に手をふれ、たちまち視力が回復し、健康をとりもどしたと、狂喜してみせる。群衆は奇蹟を見て神を讃美し、教会は鐘楼の鐘を鳴らして祝福し、長文の記鏡がしたためられる。
 もっと念のいった芝居をする場合がある。手先が、演壇の修道士と遺物を、世間をだますにせものだと指摘し、わめきたてる。
 だが、手先はその場で神罰をうける。にせものを指さした手指が強ばり、ロがはたらかなくなる。
 彼らはおどろいて神に詫び、瞬間にもとの体に戻してもらう。そのようなばかげた茶番で群衆をたぶらかすのである。
 また教団の尼僧はすべて修道憎の玩弄物となっていた。後女たちは俗人と通じたときは掟に従い拷問をうけるが、修道僧とであれば秘密裡につながりが保てる。子供が生れたときは殺して捨てる。
 つぎのような記録がある。
「これは嘘ではない。疑いをもつ者は、尼僧院の下水道を探ってみるがいい。そのなかに、かばそい人骨があるのは、ヘロデ王の世のベツレヘムと変りないのを知るであろう」
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■封建社会実現を目指した信長は旧体制を壊す必要があった

<本文から>
 一向一揆は、封建支配者としての信長にとって、最大の敵であった。
 彼らは本願寺法主とそめ連枝一門を頂点とし、末寺道場の坊主である名主宮姓、地侍が指導者層となり、諸国農民を掌握していた。
 信長は農民を支配するため、地侍を家臣団に吸収し、名王宮姓を村役人とする封建組織を成立させることによって、強大な武力を獲得してきた。
 応仁の乱ののち、崩壊に向いつつあった荘園体制のなかで、土豪である名王、地侍は領主である寺社の苛酷な課税を排除し、所領の完全な支配権を得ようとして、守護大名の被官となるものが多かった。
 だが守護大名には、寺社の古代勢力と対決する実力はない。土蒙たちは重い年貢に苦しむ農民と協力して土一揆をひきおこし、寺社に反抗してきた。
 信長はこれらの名王、地侍を家臣団に組みいれ、守護、寺社の旧勢力を攻撃、駆逐して、その所領に対する支配権を確立してやる。
 いままで農民とともに協力し、土一揆を戦ってきた土豪たちは、信長の家臣となると立場を一転して、農民の支配者となった。
 家臣団に組みいれられなかった土豪は村役人として、支配される側に身を置く。
 信長は支配組織の組みかえによって、ひとつの土地に、いくつもの権利が草の根のようにからみあった、複雑な所有関係を整理し、純粋な封建制度を推しすすめてきた。
 一向一揆は、信長の実現しようとする封建制度と正面から対立し、どちらかが消滅しなければ成りたたない階級構造をそなえ発展してきた。
 信長は丹羽長秀、柴田勝家、明智光秀、木下藤吉郎ら近臣たちに、内心をもらすことがあった。
 「備前(浅井長政)にせよ、左衛門督(朝倉義景)にせよ、儂に戦をしかけ、勝たんがために、本来の仇敵と合力いたしおるのは、哀れと申すも愚かのかぎりでや。一向一揆のやからどもと手を組まば、いずれはおのれが食い殺さるるだわ」
 浅井、朝倉は、領国のうちにまだ完全に服属していない、なかば独立の体裁を保っている地侍や、向背ただならない不安定な動向をみせる小大名を多く存在させていた。
 そのため、封建制度を否定する一向一揆と提携しなければ、領国の全勢力を動員できなかったのである。
 信長は支配下の分団において関所を廃止し、楽市、楽座を設けた。
 また特定の城下町をのぞき、農村に貸借棒引きの徳政を実施した。
 そのような施策は、商工業者を農村から城下町へあつめ、農民を高利貸し、商人の搾取から守り、農村に定着させ自営耕作させるためであった。
 その結果、自営農となった平百姓は、年貢のほかに自ら売却できる余剰の作物の生産をできるだけふやそうとつとめ、信長の支配から脱却できる実力をたくわえようとする。
 自立をのぞむ農民の動向に乗じ、郷村に触手をのばし浸透してくるのが一向一揆であった。
 不穏な領国支配を完全におこなうには、兵力を増強しなければならない。増大する軍費を賄うために、信長は戦争によって他国を侵略した。
 戦争をして、勝利を得るためには、強大な軍備と兵貼が必要である。その経費を調達するのに、兵農分離をさらに徹底し、農産物の生産流通過程を発達させねばならない。
 農民はいっそう実力をたくわえ、領主との対立の溝は深くなるばかりであった。
 大名と農民との相剋が深刻になりつつあるのは、信長の領国だけではなく諸国に共通した事情であった。
 信長が上洛し、天下統一をめざしているのは、畿内をおさえ、政治、経済、軍事の実権を掌中にして、各大名の分団経済の活動交流を潤滑におこなわせ、封建支配を確立するためである。
 信長よりまえに京都を制圧した三好、松永らは、農民、商工業者を完全に支配し、経済基盤を堅固にするという、険しい道を選ばなかった。
 彼らは朝廷、幕府、寺社の古代勢力に順応し、既存の商人、高利貸しを利用して領国経営をする、安易な道を歩み、将軍の権成を利用するにとどまった。
 信長は朝霧がしだいに晴れてゆく瀬田城下の街道を、馬背に揺られ進みながら、湖の対岸に薄墨を尉いたように連嶺のかげをつらねている、比叡山を眺める。
 彼は胸のうちで、くりかえしていた。
 −儂は比叡の山を焼きつくしてやるだわ。腐れ売憎どもを、ひとりのこらず撫で斬りにいたし、無人の境としてやるだで−
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■叡山の女子供まで虐殺した

<本文から>
 軍兵たちは山門に名のきこえた高僧、貴僧、智僧を容赦なく捕え、首をはねる。逃げるのをあきらめ、群れ集い山を下ってくる学侶たちも、片端から斬り倒きれた。
 荒武者どもの眼をおどろかす美童、美女も数多く捕えられ、命乞いをする。
 「のう、われわれなどは逆意などなかなか存じよらず。敵ならぬに殺すわけもなきものを」
 「これ、妾は悪しきをいたせし覚えもなし。たすけてたべ」
 足軽は彼らを縛りあげ、信長のまえに曳きだす。
 部将たちはロぐちに女子供の命乞いをした。
「悪僧の儀は是非に及びませぬが、この者どもは助命なされて下きれませ」
 信長は大喝してしりぞける。
 「いらざることをほざきおるでや。こやつらを助けたとて、さきざき仇なすばかりと分らぬかや。一人もあまさず首打ちおとせ。下知にそむかば、そのままには差しおかぬだで」
 召し捕られた老幼が、すべて斬られるのを見た僧衆のなかには、猛火に飛びいる者があいついだ。
 彼らは、「獲湯櫨炭清涼界」と高唱しつつ、燃えさかる大伽藍のなかで、仏像とともに焼かれてゆく。
 信長は山門勢力を根こそぎ抹殺しておかねば、近江に支配権を確立できないとみていた。「仏法破滅」の世迷い言を説く者を、ひとりのこらず掃蕩しつくさねば、山門はふたたび蘇生するのである。
 織田勢は九月十五日まで四日間にわたり、叡山の残妨を焼きはらい、山中の洞穴、谷間に隠れひそむ僧衆を引き出し、首をはねた。「言継卿記」によれば、四日間は晴天つづきで、地上は乾燥していた。
 燃えあがる堂塔の火の粉によって山火事が起き、脂身の魚を焼くような屍体の焦げるにおいが、谷々に重くよどんだ。
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■家康の三方ケ原の敗戦

<本文から>
 陽が暮れはて、牡丹雪の舞うなかで、徳川勢の苦難に満ちた退陣がつづいていた。
 家康を護衛する旗本の精鋭は傷つき疲労し、ほとんどが馬を失っていた。
本多正信の弟正重は、追撃する敵と白兵戦をかさねるうち、身に十四創を負い、あやうく首を掻かれるところを、家康が矢を放ち、助けた。
 家康の嫡男信康の臣、松平康安は、槍、鉄砲の名人として知られた剛の者で、敵に馬を射られ、徒歩でしんがりを固めていた。
 彼は苦戦をかさねるうち、身に数創を負い、胸に敵の矢二本が命中した。
 「これしきの痕が、何ほどのこともあらずか」
 彼は具足の前胴をつらぬき、胸に刺さった矢の一本を痛みに堪えて引き抜き、いま一本を抜こうとしたが容易に抜けず、敵が追い迫ってきた。
 康安の従者は、歩行もおぼつかない彼の様子を見て、主を失った馬を曳いてきて乗せ、退却していった。
 だが四、五町も後退するうち、顔見知りの岡崎の町役人右衛門七に呼びとめられた。
 「康安さま、それがしは膝を斬られ動けませぬ。なにとぞお情けをもって、馬をお貸し下されませ」
 右衛門七の右膝は四寸ほども斬り割られ、骨が露わに見えていた。
 康安はわが創を忍び馬を下り、右衛門七に与え退却させた。
 徳川勢がようやく浜松城に近い犀ケ崖の辺りまで退いてきたとき、武田勢の武将、城意庵景茂と玉虫次郎右衛門が軍兵を率い、急襲してきた。
 満身郎掛の家康旗本勢は、ことごとく引き返し、敵に当ろうとした。
 このとき浜松城の守将夏目音信が、手兵三十余人とともに駆けつけてきた。後は敵に向い馬を返そうとする家康を、押しとどめる。
 「一挙の勝負に命を捨てたもうは、匹夫の業にござりまするぞ。進退ともに身を全うし、後日の勝利を謀るこそ、御大将のなさるべきこと。この場にはそれがしが踏みとどまり、御身替りとなりまするゆえ、御免」
 彼は馬を下り、家康の乗馬を浜松のほうへ向け、長柄の槍で尻を叩き走らせたのち、敵に向い高声に呼ばわった。
 「われこそは三河守ぞ。首取って手柄といたせ」
 十文字檜をふるう吉信に率いられた夏目隊は、武田勢の重囲のなかで全滅した。
 家康が浜松城に近づくにつれ、従う護衛の人数は、成瀬正一らわずか四、五人となっていた。
 雪の降りしきる闇をついて、六、七騎の敵が追ってきた。成瀬らは皆徒歩であったが、檜をふるい、馬上の敵を突き落す。
 武田の一騎は槍を構え、家康に向う。家康は馬を返し弓をとって敵を射殺した。敵は家康らのいきおいに辟易して逃げ去った。
 家康はようやく浜松城を目前にするところまで、戻ってきた。彼は西方の名残口から城に入ろうとしたが、追撃の敵勢が迫るのを警戒し、深沼と溜池が左右に迫った北向きの玄獣小口から入城する。
▲UP

■義昭と共に上京も焼き尽くした

<本文から>
 義昭は信長の予測の通り、和議をはねつける。彼は意外に迅速な信長の襲来に動転しているが、あとへはひけない。
 戦闘がはじまれば、寡勢の幕府勢は敗北を免れないであろうが、そのときは洛南に逃れ、逆賊信長追討の軍をふたたぴ催おそうと、覚悟をきめていた。
 フロイスたち宣教師にとって、信長が京都に到着した三月二十九日は、一五七三年四月三十日にあたり、「主の御昇天の大祝日」であった。
 信長が突如、まったく人々の予想を裏切って、わずか十数騎を従え、洛外四分の一里の地にあらわれると、あとを追う軍勢はたちまち洛外に充満したと、フロイスは記す。
 四月三日、信長は洛外の堂塔寺庵をのぞく民家に放火し、洛中の義昭を脅かす。
「このうえにても、上意次第たるべき旨、お扱いをかけられ候えども、御許客なきの間、御了簡及ばれず」と「信長公記」に記されている。
義昭の意向しだいで、和平に応じようとの呼びかけは、焼討ちの火焔天を焦がす有様にもかかわらず、無視きれた。
 洛中洛外の住民は、大恐慌におちいった。フロイスは本国への書信にその状況を伝えている。
 「信長の使者は、公方さまもし和解せずば兵力をこぞって来り、都を焼き、火と血にゆだねんと決したる旨を告げたり。当市に於て起りたる騒擾の非常なりしことは、尊師想像せらるべし。庶民はただちに家財をあつめ、一日に千八百または二千の荷物の都を出で、兵士らはあるいは都のうちにて、あるいは衛道に於て、隊をなし家財を掠奪し、または槍、銃を用いてこれを奪いたり。当市には金銀絹及び茶の湯の高価なる道具など、相当なる富ありしがゆえなり」
 信長は摩下将兵に、放火掠奪を許していた。
 京都の住民が悲惨な戦禍をこうむるのは、義昭が幕府の最大の助力者である自分を、抹殺しようとの暴挙をあえてしたためであると、信長は世間に知らせようとしている。
 義昭を頂点とする、京都の有力者たちのうちに、信長を成りあがりのいなか大名、熟しきった無花果と蔑視する思いがひそんでいるのを、信長は知っていた。
 三月四日、信長は上京に放火した。
 「信長公記」には、みじかく記されている。
 「翌日また、御備えを押え(二条城を包囲して)上京御放火候」
 宮中女官の日記である「御湯殿上日記」にも、簡単に触れられている。
 「きゃうちゅう(京中)にはかに大やけにて、かみきゃう(上京)うち野になる。のふなか、むらゐ(村井貞勝)みまひにまゐる。この御所の御あたりはかたく申しつけてめてたし」
 御所附近への放火は厳禁されていたのである。
 上京放火についての事情を、もっと詳しく記しているのは、フロイスの書信である。
 信長が上京を焼いたのは、義昭へのみせしめだけではなく、市民に対する複雑な事情がからんでのことであった。
 「上及び下の都(上京、下京)の住民は、日本六十六カ国の頭にして名誉ある都を焼くときは、被害全図に及ぶがゆえに、極力これを焼き払わざらんことを信長に請い、上の都はこれがため銀千三百枚を、下の都は五百枚を信長に、三百枚をその部将に贈りたり」
 上京、下京の宿老たちは、信長に大枚の銀を贈り、焼討ちしないよう懇願した。
 だが、交渉の段階で、上京と下京の代表者たちの態度に相違がみられたと、フロイスはいう。
 上京には幕臣、公家たちが住んでいる。町人たちも富裕な商人が多かった。絹織物の生産にたずさわる分限者の彼らは、信長の力量を過小に評価していた。
 「われらの主は無限の御慈悲をもって、キリシタン全部の居住せる都の部分(下京)においては、交渉の手段をあやまたず、謙遜服従及び好情をもって信長を動かすことを、得させ給えり。上の都(上京)の人は富み、かつ傲慢なるがゆえに、条件をよくしてかえって信長の不快を招き、ことに建築に着手せる宮殿の周壁を破壊したることにより、その怒りに触れたり」
 上京の住民は、信長の御所修築の工事に何らかの不満があり、義昭挙兵を知って、さっそく周壁を破壊する行動に出た。
 信長はそのような動きを、見逃しはしない。
 「そこで信長はついに下の都の希望をいれ、これを焼かぎるべしとの書付を与え、その軍隊に対してはもし害を加うる者あらば、厳罰に処すべしと達し、また住民を困ばいせしめず、信長去りたるのちに公方様圧迫を加うることなからんため、銀八百枚を免除せり」
 信長は下京の代表者に、贈り物をすべて返却し、焼討ちを免ずると約束した。
 上京に対する信長の憤怒は、激しかった。
 「上の都の人々は、信長が彼らに回答を与えず、また献納したる銀千三百枚にすこしも頓着せざるを見て、彼らは内心傲慢なりしがゆえに、心中これを憤りたり」
 富裕な織物業者や金貸しの牛耳っている上京は、義昭とあい通じる、思いあがった旧勢力の温床である。
 摩下軍勢の兵粮、軍需品調達の市場である下京を焼けば、信長の今後の軍事行動に支障をきたすが、上京を焼いたところで何らの痛棒も感じない。
 上京が破滅をのがれようとの懇願はついにしりぞけられた。
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■正倉院秘蔵の蘭奢待を切り取った

<本文から>
 「儂は南部東大寺の密蔵第一の重宝、蘭奢待をば所望いたしおるでのん。お許しが出たならば、 そのほうどもも同道して、奈良に下向いたせ」
 宗久たちは、信長の言葉に息をのんだ。
 名香蘭奢待は、東大寺正倉院に秘蔵されている、唐、天竺にまで聞えた名香であった。
 かつて足利義政が寛正六年(一四六五)に、本法に従い一寸八分を拝領したことがあるが、その後有余年のあいだは、歴代将軍の所望があっても勅許されずにきた。
 それを、信長が所望するというのである。
 多簡院英俊の日記によると、「惣ノ長サ五尺、丸サ一尺ホドノ木ナリ」といわれる蘭奢待は、その文字のなかに東、大、寺の三字が隠きれている。
 歴代将軍家でさえ拝領の勅許がなされなかった稀代の名香を、信長が得ることができれば、彼の権威は、将軍を超えたことになる。
(現在までに蘭奢待を切りとったのは、足利義政、織田信長、明治天皇である)
 信長は二十三日に、蘭奢待拝領の希望を禁裏へ奏聞していた。彼がそうするのは、朝廷に対し不満があったためである。
 将軍義昭を追放して、すでに半年が経っていたその頃、京都では信長が関白か、大政大臣になるだろうとの噂が高かった。
 信長がひそかに禁裏へはたらきかけ望んだ官位は、征夷大将軍である。中央政権を樹立した信長は、将軍にふさわしい権力を手中にしていた。
 だが公家社会は、信長の武家政権がなお強力になるのを嫌い、将軍になるには源氏でなければならないという理由で拒否した。
 平氏は平清盛の公家一統の政治方針にならい、将軍にならず、幕府もひらかなかった前例がある。
 信長は、尾張の国王であった頃は、藤原姓を名乗っていたが、上洛ののちは平信長とあらためた。
 武家社会には、源平交替思想が伝統として信奉されている。信長は源姓の足利将軍家にかわり、天下の政権を掌握するために、平姓を名乗ったのを逆手にとられ、将軍の座につくのを妨げられたわけである。
 平氏幕府創始の希望を達せられなかった信長は、鬱積する不満のはけ口として、蘭奢待を所望し、公家社会を成圧しようとした。
 禁裏では、二十六日に信長に勅許を下した。
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