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<本文から> 佐久間は懸命にいきめようとした。
「お殿さまにお言葉をかえすは、おそれ多きことながら、比叡の山は顕密兼学の大道場にて、皇武両門の祈願の地にござりまする。その霊験はならびなく、これによって弘隆の仏威を誇って、山徒我意をほしいままにいたせしことも多かりしとか。然りといえども、上代の帝王も、朕が心にかなわぬは、鴨川の水と山法師なりとのたまわせられ、度々の狼籍をもご宥免なきれ、穏便にさしおかれし先例しばしばにてござりまする。それほどの聖地をば、いま亡ぼされなば、国家の旧例をたがえるのみならず、天下の人望を失うこととあいなりますれば、なにとぞいま一度のご勘考あすばきれて、ちょ−でいあすわせ」
信長は佐久間の言に、耳をかきなかった。
「去年、浅井、朝倉と坂本にて対陣いたせしとき、いろいろ申し開かせたるに、山門の坊主どもは承引いたすべきか、敵徒と一味して禁裏公方に弓を引いたでや。あやつどもは魚鳥をくらい女人にたわむれ、沙門の道に背きし売僧だで。天下の政道をあいさまたげ、仏意禅慮にも背く国賊のたぐいだぎゃ。いまあやつどもの亡ぶは自業自得。なにをもって赦免いたせと申すでや」
僧侶の堕落は、信長の指摘をまつまでもなく、ひろく世間に知れわたっていた。
危難にあい、病気にかかり、老いぼれた人々を、僧侶たちが迷信にひきこんでは金銭をまきあげ、贅沢をきわめた生活を送っていたのは、日本だけではなかったようである。
ルネサンス前期にあたる当時のヨーロッパでも、僧侶の席敗は極限に達していたという。
フランチェスコ派の巡回修道士たちがやっていた、まやかしについての記鏡がある。
修道士は信者をあつめ、聖徒の遺物を拝ませる。彼らの手先が群衆のなかにまぎれこんでいて、眠が見えなかったり、重病に蹴っているふりをし、遺物に手をふれ、たちまち視力が回復し、健康をとりもどしたと、狂喜してみせる。群衆は奇蹟を見て神を讃美し、教会は鐘楼の鐘を鳴らして祝福し、長文の記鏡がしたためられる。
もっと念のいった芝居をする場合がある。手先が、演壇の修道士と遺物を、世間をだますにせものだと指摘し、わめきたてる。
だが、手先はその場で神罰をうける。にせものを指さした手指が強ばり、ロがはたらかなくなる。
彼らはおどろいて神に詫び、瞬間にもとの体に戻してもらう。そのようなばかげた茶番で群衆をたぶらかすのである。
また教団の尼僧はすべて修道憎の玩弄物となっていた。後女たちは俗人と通じたときは掟に従い拷問をうけるが、修道僧とであれば秘密裡につながりが保てる。子供が生れたときは殺して捨てる。
つぎのような記録がある。
「これは嘘ではない。疑いをもつ者は、尼僧院の下水道を探ってみるがいい。そのなかに、かばそい人骨があるのは、ヘロデ王の世のベツレヘムと変りないのを知るであろう」 |
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