津本陽著書
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          下天は夢か 2

■尾張領内の治安

<本文から>
 信長は東美濃攻略に、七分通りの成功を納めたのち、しばらく静観の方針をとった。犬山城から織田信清を追いはらった成果は、まず尾張領内の治安にあらわれた。
 以前は夜間はもとより白昼にも追い剥ぎ強盗が横行する有様であったが、信長の威令が尾張一国へゆきわたると、行商人が道端で荷を枕に昼寝する姿が見られるほどになった。
 美濃から細作の潜入する道がふさがれ、領内で騒擾をおこす者は、容赦なく斬刑に処されたからである。
 信長は当時から、一銭を盗んだ者を斬る、「一銭斬り」の刑罰を実行していた。盗む者は斬る、犯す者は斬るという、簡明な軍法を実施することにより、犯罪者はまったく影を消した。
 ながらくの合戦つづきで、軍役についていた百姓衆も、野良仕事をもっぱらとする日送りができるようになった。
 信長は領内の往還、在所道の改作普請を地侍たちに命じてすすめる。いっぼう新田を開起する者には、両三年のあいだ反銭(租税)の取りたてを免除すると、布令を発した。
 つぎの飛躍にそなえ、領民にカをたくわえさせておかねばならないと、信長は考えていた。
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■寄せあつめの厖大な軍兵のひきしめるために裏切り者を摘発した

<本文から>
 信長家臣団の軍事力の中核は、譜代の宿老たちの率いる幾つかの軍団で構成されていたが、尾張下二郡で二、三千の兵力を動かしていた時分にくらべると、急速に膨張した兵力の内容は、大半が降伏帰順したかつての敵兵であった。
 寄せあつめの軍兵は、量的に彪大であっても、武田勢のようにふるくからの在地領主を中心にまとまっている、地縁でつながれた兵団の武力には劣るものである。
 信長は槍衆、弓衆、鉄砲衆の養成にカをもちい、摩下軍団の戦闘力の増強を急いでいた。外見では天をつくいきおいがあるかにみえる織田勢が、一度の敗戦で雪崩のようにくずれ去る可能性があると、信長は見ている。
 彼は裏切り者の摘発が、家中の士気をひきしめ団結をたかめるために、欠かせないと考え、生駒八右衛門、森可成、滝川一益、木下藤吉郎に命じ細作をはたらかせ領内の情報をあつめさせていた。
 信長が角場でお小人頭の佐兵衛を斬ったとき、手足をゆっくりとけいれんさせる屍体をみつめていた、何の表情もあらわきない、石のような無機質の眼のいろを、光秀は思いだす。
 −信長という男は、ひとの心の奥底まで読もうとするしつこさが、常人のものではないが、あれほどでなければ、八方に敵をひかえ生きてはゆけまい
 光秀は岐阜ですごした短い月日のうちに、信長の先導獣のような行動力に、心をひかれるようになっていた。
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■信長は茶入などの骨董や女色には溺れない

<本文から>
 松永弾正久秀は、かねて信長に人質を送り誼を通じていたので、居城大和の志貴、多聞山城に退いていたが、芥川城に伺候して、信長に「つくもがみ」と呼ばれる茶人れを献上した。
 伊勢物語の「百年に一とせ足らぬ九十九髪、われを恋うらしおもかげに見ゆ」にちなんで名付けられた茶入れは、付藻茄子の大名物であった。
 大名物とは、室町八代将軍義政(一四三六〜九〇)が、東山山荘で選定した茶道具の逸品を指す。同朋衆の芸阿弥、能阿弥が補佐したといわれる。
 堺の商人今井宗久は、世に名高い大名物の菓茶入れ、松嶋の壷と、おなじく武野紹鴎所持の大名物、漢作(古い唐物)茄子の茶人れを献上した。
 ほかにも異国、本朝の珍物を献じる人々が、門前に市をなす有様であった。
 朝夕は霜を置き、日中は晴れわたる秋晴れの日和がつづいていた。山なみの緑、淀の音波も、かげふかく色を際立たせている。
 信長は十月十四日まで芥川城にいて、なお蜂起するかも知れない敵に、そなえていた。彼は畿内平定の御礼を言上するために訪れる、おびただしい客に目通りを許し、献上きれる珍物稀宝のうずたかく積まれてゆくさまを、冷然と見る。
 尾張にいるときは噂に聞くのみで、わが手にいれるなど想像もできなかった大名物が眼前に置かれてみると、信長の胸中には、ふしぎなほどにうれしきが湧きあがらなかった。
 −かように煤けしものが、城ひとつをあがなえる珍物かや。この値打ちは、ひとがつけし値打ちだのん。いうてみれば、まやかしものだで。金銀に飽きし人は、かようなる品を珍重いたす。はて、おかしきは人の心だがや。さきぎき、家来どもにつかわす給地にかえ、珍物什宝をあてるも一策にてあらあず−
 信長には骨董を賞翫する趣味はなかった。それらのものの、世間に通用する価値を、生かして用いようと考えるのみである。
 上洛ののちは容色すぐれた女性が、信長の枕席に侍ることがしばしばであったが、彼は女色にも溺れることはなかっか。
 麾下の諸将のうちには、下京東洞院界隈の傾城町で、天女とも見える美形に会い、うつつを抜かす者もいたが、信長は女性の色香よりも気性、才能に心をひかれる性格であった。
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■関所の撤廃によって、強力な軍勢と大量の軍需物資の供給ルートを掌握

<本文から>
 伊勢には工藤、関、北畠らの大名のほかに、独立した小豪族が四十八家もあり、関所の数もおびただしかった。
 極端な例として、桑名と日永のあいだの四里の海道には、六十余の関所があった。それは地侍の勢力圏が錯綜している事実を裏書きしている。
 地侍たちは、それぞれ伊勢に割拠する大小名の被官として、葡萄の実のようにあつまり大小の房を形づくっていた。
 彼らはわが領地に土着して、関所を設けている。関所のなかには幕府や公家、社寺が本所として関銭を徴集するものもあったが、その場合も関所を置き運営するのは、地侍である。
 関所は地侍にとって、関銭をとるほかに領地を完全に支配し収奪するため、外部との交流をおさえる障壁の機能を果す、重要な仕組みであった。
 彼らはわが領地の百姓からとりたてた農産物を、特定した商人によって売却させ、領内の市場、座を掌握して利益を独占していた。
 その結果は小領地がたがいに政治、経済面での交流がないままに孤立をつづけることになる。
 信長は関所を撤去し、楽市、楽座の制を導入すれば、地侍の堅固な収奪の地盤は崩壊し、物資の大量な供給消費の道がひらけると見ていた。
 領地内百姓の完全支配の手段を失った地侍たちは、信長のもとに結集して、あらたな軍団を構成すればよい。
 信長は関所の撤廃によって、強力な軍勢と大量の軍需物資の供給ルートを掌握できるのである。
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■義昭は信長に萎縮する

<本文から>
 信長は猜疑心がふかく、執念ぶかい男であった。彼の髭のすくない色白の細面は目鼻立ちがととのっているだけに、披璃のようなよく光る切れながの眼に宿っている狂気の気配は、義昭をふるえあがらせる。
 信長は少年の頃から、いつ死に見舞われてもふしぎではない、危険な環境で生きてきた。合戦の場での、打ちものとっての殺しあいは、砲爆撃で敵をふきとばす現代戦とちがい、ひとりずつしらみつぶしの手仕事であった。
 息長は血みどろのぼろくずのような、さまざまな形の屍体を見なれて生きてきた。人間といえども、死ねば腐敗分解して土になるだけの、鳥獣虫魚とまったくかわらない生きものにすぎない現実を、脳中にたたきこまれている信長は、自分に敵対する人物を見るとき、生命のない物体を見るような眼つきになった。
 義昭はそのような視線を向けられると、ひとたまりもなく萎縮した。
 義昭は誓書をうけいれてふた月ののち、信長入京の知らせをうけ、胸もふさがる思いであった。
 信長が、自分の暗躍をどれほどまで探知しているか、気掛かりでならない。あの男を憤怒させれば弑されるかもしれないと思うと、頭が痺れたようになり、ふだんの才覚がはたらかぬ。
 眠れない幾夜かをすごすうち、ついに信長はやってきた。信長の宿所は医師半井驢庵の屋敷、家康は三河から出た豪商、茶屋四郎次郎のもとに宿をとる。
 −尾張の夷めが、うせおったか−
 義昭は二条城の華麗な御殿のうちにいて、視線を宙にさまよわせ、首筋をこわばらせて不安にさいなまれる。
 信長は入京の翌朝、さっそく二条城に参向した。三月一日の朝は薄絹を張ったような晴天であった。まばゆい陽射しが外港に散乱し、外曲論の白雲たなびくような満開の桜並木が、花吹雪を散らすなか、信長は河内守護畠山高政父子、三好左京太夫ら武将とお供衆をひきつれ、登城する。
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