津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          下天は夢か 1

■若き信長は宿老たちの合戦談議を熱心に聴き戦い覚えこんでいた

<本文から>
「御大将、大勝利だぎゃ。追うところだわ、ここは」
 昂奮した物頭たちが、眼をいからせ猛りたつが、信長はおしとどめた。
「使い番、退貝じゃ」
 信長の命に応じ、法螺貝が大、小1小、大、小、小と鳴り渡った。
 退陣の手際も、あざやかであった。全軍の半隊が槍を伏せ、折り敷いて敵の追撃に備え、残りの半隊が退き、半町歩んで折り敷く。つづいて遅れた半隊が立って一町を退く。
 半隊ずつ交互に繰り引いてゆく退陣は、敵の追撃を許さない迅速なものであった。
 馬匹をつないだ場所に全軍を戻すと、信長は土を捲いて駆け去った。一里ほど疾駆して海際の山中に足をとどめる。
 「ここで夜を明かすのじゃ」
 信長の読みはあたった。
 まもなく追撃してきた敵勢が、山麓を怒涛のように通りすぎていった。
 三州幡豆の山中に野営した信長勢は、夜明けまえに帰途についた。
 細作を先に働かせ、敵状をあらかじめつかんだうえで、信長は全軍を先手、旗本、小荷駄備え、後陣備えと四陣に編成し、疾駆して那古野域へ向った。
 四陣の兵は左手、右手、中手と三手に分たれ、いつどの方角から敵に襲われても、機敏に応戦しうる隊形をととのえていた。
 平手政秀は、軍書の講述をうけるのを嫌い、石合戦、竹槍あわせなど、荒びた遊びをことのほか好む信長が、いつのまに大将としての武役を、こころえたのであろうとおどろくばかりであった。
 彼は信長が日頃から、宿老たちの合戦談議を熱心に聴き、信秀が出陣まえと、合戦ののちに古渡城でひらく評定の座に、姿をあらわすのを知っていた。
 だが、黙然と一隅にひかえているだけで、たまに信秀に意見を聞かれても、心きいた受け答えもしない信長が、大人たちの語りあう軍議を綿密に分析、岨噛し、戦いの段取りをひそかに覚えこんでいるとは、思いもしなかった。
 信長は、学問と名のつくことはいっさい嫌いであった。うつけ殿と家来、町人どもにかげぐちをきかれるほど、行儀作法をわきまえず、小姓、近習にも乱暴者をそろえ、日がな子童を狩りあつめ、竹槍合戦、印地打ちなど、血を見るほどの荒んだ遊戯を好む。
 政秀は、信長に鋭敏な洞察力がそなわっているのを知っていた。信長は家来の心の動きを察知する能力が、子供とは思えないほどするどい。
 彼は自分を軽蔑し、嫌っている相手を正確に見分け、執念ぶかくいじめるのである。
 「やはりお血筋じゃ、若さまはうつけどころか、なみはずれて、するどき頭を持ってござる。しかし、惜しいことには意地がわるく、家来に慕われぬ。それにご学問ができぬのが痛手じゃ」
 政秀は息子たちに愚痴をいっていた。 
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■斉藤道三との堂々とした対面

<本文から>
「こたびはお舅さまには、尾張においで召され、はじめてご拝顔をかたじけのうし、おうるわしきみ気色のほど、祝着至極と存じまする」
 「うむ、今日のよき日和がように、聟殿の水際立ったるいでたちをば、はじめて眼のあたりにして、縁組みいたせしは誤りならずと、道三このうえものう、うれしゅう存ずる。まずはごゆるりとおくつろぎあれ。盃事などいたそうではないか」
 堀田道空が指図して、酒肴の膳がはこばれる。
 ふだんは物事の順序をはぶき、性急な談議を好む信長が、道三の話しぶりにあわせ、おとなしくあいづちをうつさまは、林通勝ら織田の宿老の眼にも、ひとが変わったかのように思えるほどであった。
 「聟殿には、六匁筒をいかほどお持ちかな」
 「きよう、およそ二百挺がほどでござりまする」
 道三は、信長の応答を開き、眉の辺りにかげりをみせた。
 南蛮渡来のあたらしい武器の、数をそろえた信長に、圧迫されるものを感じたからである。
 「鉄砲は弾丸込めに暇がかかり、合戦にはさほど役立つまいが。大枚をついやして二百抵もそろえられしは、なにゆえかのう」
 道三は盃を手にしつつ、信長をけなし、狼狽させてやろうと、毒のこもった話しぶりであった。
 信長はいっこうに、道三の悪意を感じないふうをよそおう。
 「さよう、仰せらるるごとく、鉄砲は値も高きうえに、一挺では埋伏しての狙い撃ちほどのことにしか役立たず。しかし数をそろえなば、使いようにてなかなかに戦の用に立つものでごぎりまするに」
 道三は胸のうちで、さもあろうとうなずく思いであった。
 彼のみならず合戦の年功を経た武将は、鉄砲というあたらしい飛び道具を、毛嫌いしていた。
 「あれは弱き武者の使うものじゃ。音ばかり大きゅうて、なにほどの働きもない」
 「馬を走らせなば、弾丸込めする間に踏みにじれよう。また弓矢のほうが勝負は早かろう」
 鉄砲の効能を否む声はたかいが、信長のいうように数をそろえれば、恐るべき戦力となるにもがいなかろうと、道三は思った。
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■吉野とは一心同体であった

<本文から>
「吉野はおもしろき女子だのん」
「なにゆえにござりまするか」
「いつにかわらず、酒をこころゆくまで呑めと、すすめおるだわ」
 歯を見せる信長に、吉野はなにげない風情で応じる。
「呑みたきものを呑めば、よいのでござりまするに。欲するままに呑んでお寝みあそばいて、身に毒になろうはずはござりませぬわなも」
 信長はおちつきはらっている吉野に、そういわれると、気分がなごやかになる。
 吉野は信長の気質、嗜好をすべてこころえていた。彼女は信長に惚れこんでいるので、努力することなく、恋人の性格に同化している。
 つまり、二人は一心同体であるといえた。
 信長が熟睡できるのは、吉野と閏をともにした夜だけであった。
 彼は生駒屋敷に泊ると、翌日の陽が中天にのぼるまで、ひたすら熟睡をむさぼることもめずらしくはなかった。体内に溜った疲労が、泥のように溶けて流れ出ていったのがわかる。こころよいめぎめのときを迎えるまで、吉野は信長を寝かせておいた。
 奇妙、茶筅の二人の男児と、生れてまだ一年にならない徳姫を、信長とのあいだにもうけた吉野は、いまでは彼をがんさい(いたずら)息子のように見ることができた。
 「あなたさま、ききほど兄さまより聞き及びしに、駿河の治部大輔が間者ども御領内へ入りこみ、ご難を加うるやも知れずと、肝を寒ういたしおりまするほどに、これよりのちお外出の折りには、かならずお供のご人数を多数ご用意あすばされて、ちょーだいあすわせ」
 信長は酒をふくみつつ、吉野をながしめに見た。
「戦ごとは、女性の口出しいたすところにあらず。さようなることは申すでないぞ」
 吉野は黙らなかった。
「間者風情に命をとられては、犬死にと申すものでございまするに」
 信長は、険しい眼になった。
信長は彼の死を口にした青野に、心を刺された。疑心が黒雲のように湧きあがってくる。
 「吉野は、傾が死ぬのを待っておるのかのん」
 信長の薄い上唇が、内心の不興を示しひんまがった。
  青野は表情を変えた。
 「なにを申されまする。富野があなたさまより後に残って、なにを楽しみに生きられまするかも。あなたさまがお果てになったるときは、私も死にまするものを、なんでさようなことを勘考いたしましょうぞ」
 信長は吉野のはげしい口調に、気勢を挫かれた。
 ―この女子は、いつわりを申してはおらぬだわ−
 吉野の上気したあでやかな顔を見つめる信長の心中に、感動がひろがる。
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■村抜けを防ぐために徳政を行う

<本文から>
 野山に霞たなびき、桜が景色にはなやかないろどりをそえる頃、信長は領内諸郡に地子銭、段銭の諸税を半減する、徳政の高札を立てさせた。
 各地頭にも同じ璧息の触れ書きをまわす。徳政をおこなう理由は、永禄このかた合戦がつづき、在郷諸村に命じる軍役、陣夫役もたび重なり、男手すくなく田畑の荒廃がはなはだしいためであった。
 諸村の疲弊は、信長の治世になっていやまさるばかりである。郷中の勇士はいうにおよばず、百姓衆の屈強な若者たちが陣夫として狩りだされ、落命して帰ってこない。
 種播きの季節がきても、男手がなければ耕作もで.きぬままに、老人、女子供は故郷を捨て、村抜けして流浪の旅に出た。
 信長が今川勢との存亡を賭けた一戦をまえに、戦費の窮迫にもかかわらず徳政をおこなったのは、領民の村抜けが跡を絶たず、しだいにはげしくなってきたからであった。
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■今川の大軍へ死を決して戦う

<本文から>
 宿老筆頭の林通勝が、それまでくりかえし唱えつづけている戦法を、渋りつつ口にした。
「敵は三万、味方はわずかに三千を揃うるが精かぎりなれば、平場にてのご合戦には打つ手もござりませぬ。ただ、要害として知られしこの清洲にたてこもり、戦をひきうけ相戦うよりほかの策はなしと、存じまする」
 信長は林の申し出を一蹴した。
「そのほうが戦策は、大軍勢を小勢にてひきうくるに、寵城がよしといたす、世間の者十人が十人ともに思いつくごとき、何のかわりばえもなきものだわ。さような戦をいたさば、敵は思い通りの布石をば生かしてくるだわ。いまは今川治部が思いのほかの手をうつときだでや」
 信長は評定の場に居流れる侍大将どもを見渡した。
 信長の内部で、なにかが砕け散った。
−債は明日は死ぬ。されば思うがままに戦うてやらあず−
 窮地に追いつめられた信長の脳中から忽然と恐怖が失せ、闘争本能が燃えあがった。
 彼は幕下諸将を睨めまわし、いいはなった。
「いにしえより英雄といわるる者の興亡は、たんだひとつ、機を得るやいなやにかかっておったのだぎゃ。城をたのんで戦機を失い、生死の関頭に及び生命を全うせんとするごとき者は、すべて自滅せぎるはなし。父上のご遺誡には、他国より攻め来りしとき、寵城いたさば、将は心略し、卒は気変ず。ゆえにかならず国境を越え、野戦に生死を決せよと仰せられておるのだで」
 信長は心中に檄するものをおさえかね、円座のうえに仁王立ちとなり、叫ぶように諸将に命じた。
「儂はのう、夜が明けりゃ城を出て今川の狢めを退治いたすでや。儂について参る者は力を早くし大功をいたせ。われに十倍の敵と決戦いたすは、男子の本懐と申すべし。男たるもの、大敵を避け城に隠るるは、恥もきわまりしというべきでや」
 林ら宿老たちは、不興げに顔をそむけたが、気鋭の諸将たちは、信長の本心を聞きふるいたった。
 物頭のひとり岩室長門守が立ちあがり、朋輩に呼びかける。
 「このたびわれらが猪武者殿に与して一命を棄てんか。これいわゆる前世の悪因緑と申すものよ。かくなるうえは、われら輩いざともに打ちいでて、死に花を咲かすべし」
 評定の間に、つわものどもの不敵な笑い声が湧きおこった。
 彼らは笑いつつ感きわまり、節くれ立った両の手を顔に押しあて、涙をかくした。
 評定が果て、小姓、女中が酒肴をはこび、出陣の宴がひらかれた。
 「今生のおもいでに、わが殿が敦盛の舞いを拝見つかまつりとうござりまする」
 声に応じ信長は扇子を手に立った。
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