津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          巌流島 武蔵と小次郎

■武蔵は木刀で真剣の相手に立ちむかう

<本文から>
 武蔵は幼ない頃、武仁に十手剣術を教えられた。道場の道具棚には、四、五本の乳切木と長棒が置かれていた。乳切木とは大人の乳の高さに切られた棒の意で、四尺二、三寸の樫の丸棒である。
 先端には二、三十匁の切子玉分銅をつけた、三尺ほどの鎖がとりつけられている。
 長棒は七尺の頑丈な丸棒で、先端に鉛が仕込まれていて、赤銅の帯で巻き締めてあった。いずれも十手術の稽古に遣うものであるが、十二、三歳でなみの大人のような体格に成長した武蔵は、遣いかたのむずかしい乳切木よりも、長棒を遣うのを好んだ。
 その腕力は抜群で、弟子たちの不在のとき、当時弁之助と称していた武蔵が、兜割り十手を持って相手に立った父の武仁を、道場の隅へ追いつめたことがあった。
 彼がいまも木刀をとって真剣をふるう相手に立ちむかうのは、その記憶によるものであった。 
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■幼ななじみのお千を慕っていた

<本文から>
 武蔵が讃甘を離れるのは、幼ななじみのお千が、新免家の重臣の嫡男と婚約をかわしたためでもあった。
 お千の父親剣持孫兵衛は、武蔵からお千をひきはなすため、娘の意向を聞くことなく、縁談をすすめたのである。
 武仁はすでに国を捨て、牢人として去っていった。武蔵は家禄を継ぐことができず、兵法修行をつづけるうちに、いつ命を落すかも知れない。
 そのような危うい身のうえの彼に、お千を近づけては不運を招くと、孫兵衛は考えた。
 武蔵にとって、弥蔵とお千は、何事もうちあけられる幼な友達である。お千が他人の嫁になれは、武蔵ほ讃甘にいることができない。悲哀にさいなまれる夜を過ごすよりは、命を賭けた兵法勝負の旅に出たい。
 お千は幾度か、ひそかに会いにきたが、武蔵はいい聞かせて帰した。
「農はお前を嫁に貰いたいが、親父殿の許しがなけらにゃ、どうにもならん。ほんなら駆け落ちするか。諸国をまわって兵法試合をするうちに、儂が死んだらお前は他国の空で、どがいするんなら」
「私は弁やんの嫁になると、まえから決めとったんじゃけ、いまさら牛之助と祝言する気にゃなれまいが。私を連れていっておくれ。弁やんが死んだときは、私も死ぬが」
 武蔵は出立の日を、お千に知らせず、弥蔵にうちあけていた。
 武蔵が幼ない頃、義母のよし子にむけていた思慕は、いまほお千への熱湯のような愛情に変っている。
 だが恋情は断ちきらねばならない。一所不住の兵法修行は、わが命への執着さえも捨てなければなしとげられな小、難行苦行であった。
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■六十度害える試合に勝ち、生き残ったのは神意によると思った

<本文から>
 武蔵は路銀もろくにない少年の自分が、いつ死んでもかまわないと、餓狼のように眼を光らせ、敵に立ちむかっていった頃をふりかえる。
 少年の武蔵は、命が惜しいとは思わなかった。死にたいとさえ思っていた。宮本村の屋敷にひとり取り残された孤独の日々、自ら命を断とうという衝動にかられたこともあった。
 そのような自分を支えてくれたのは、幼な友達の弥蔵とお千であった。
 だが弥蔵とお千は、新免家旗本の子女であった。武蔵の父と兄は、新免家の血をひく家に生れたが、本位田外記之助を上意討ちしてのち、家中の士に嫌われ、逐われるように豊前国へ去っていった。武蔵は宮本村にとどまっておれば、姉のお吟をはじめ親戚の厄介にならねばならない。牢人の境涯におちぶれ、弥蔵、お千とつきあうこともできない身分になるのは、あきらかであった。
 慕っていた義母のよし子とも会うことさえ叶わない。
 そのように孤独に追いつめられた立場にあったため、武蔵は兵法廻国修行に出かけ、血まみれて死にたかったのである。
 −死のう、死のうと心がけておりながら、六十度害える試合に勝ちのこってきたのは、運がよかったためじゃろうが−
 武蔵は、自分が天下無双の兵法達者であるとは思わなくなっていた。世間には、おそるべき腕前の名人がいる。彼は山中で、自分が生涯修行しても、足もとにも及ばないと思える兵法者に幾度か会ったことがある。
 彼らは神仙にちがいないと、武蔵は思っていた。自分が慢心しないよう、突然あらわれて、人間業とはとても思えない神技を披露し、試合を挑むこともなく、突然消えうせる。
 武蔵はいつからか、自分が真剣勝負をかさね、生き残ってきたのは、神意によるものだと思うようになった。決してわが実力による成果ではない。
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■小次郎を破る

<本文から>
 小次郎の猛威は、家中に怖れられているようであった。彼は刃渡り三尺の長剣を抜き、朱鞘を芝のうえに投げた。
 小次郎はなにげないふりをして、武蔵の様子をさぐっている。彼もまた何やら気にかかるところがあるのであろう。
 見分役が芝生のまんなかに立った。
 疎林が海風をさまたげ、陽は頭上にさしかかっている。試合の条件は五分である。
 「参られい」
 見分役がいった。
 小次郎は武蔵とむかいあい、刀を八相にとった。剣尖がまぶしく陽光をはじく。武蔵は右手に木刀を持ち、切先を垂れていた。
 やわらかい小次郎の体は、猛獣のような弾力を秘めていると見えた。
−こやつは燕返しできめるか。それともはかの技を遣うのか−
武蔵は眉をひそめ、一小次郎の全身を視野にいれた。五間の立ちあい間合を置き、じっと立っていた小次郎が、芝のうえを滑るように歩み出てきた。
 武蔵は木刀を中段にとった。間合が三間にせばまったが、武蔵は歩み出ない。小次郎の眼に不審げな色が動いた。武蔵は小次郎の動きを見ている。
 撃尺の間合に小次郎が踏みいろうとしたとき、武蔵が低い気合を放った。老人に教わった、茶碗を割る気合である。
 小次郎は、武蔵がおどろくほど苦痛の反応を示し、一気に間合を詰めてくると、右袈裟に太刀を打ちおろした。武蔵は五分(約一・五センチ)の間合を見切って切先をはずす。
 小次郎はまた刀を八相にとった。
 −こやつは、これが得意の技か−
 武蔵の身内に余裕が湧いてきた。さきほどまで得体の知れない相手と思えた小次郎が、怖れるにたりない凡々とした構えをしているではないか。
 武蔵はまた低い気合を放った。小次郎が眼を吊りあげ、右袈裟を打ちこんできた。それをはずした武蔵の木刀が捻り、小次郎の眉間を打った。見ていた弥蔵が、あっと声をあげた。小次郎の膝が折れ、芝のうえに横倒しになったからである。
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