|
<本文から> 大岡の声が耳もとで聞こえ、自利し子の稽古着に竹胴をつけた彼が、敵のただなかへ斬りこんでゆく。
つづいて島村が乱髪をなびかせ駆けつけてきた。官軍の兵士たちは二人に斬りたてられ、たちまち後退した。
「いまだ、山へ逃げろ」
周三はさわ子に脇を支えられ、湿った坂道を走った。
流弾が耳もとで喰り、敵があとを追ってきたが、病院に箱館勢が詰めかけてきて、裏庭ではげしく自刃を打ちあう音がおこると、戻っていった。
「誰もこなくなったぞ。俺たちは助かるかもしれない」
大岡が走りながら、周三をふりかえる。
山道には足跡が乱れていて、周三たちよりさきに逃げた者が、大勢いる様子を示していた。
港口には甲鉄、春日、陽春が艦首をならべ、弁天台場への砲撃をつづけている。浮き砲台となった回天と、単独で弾雨のなかを応戦する蜂竜の砲撃は、まだやんではいなかったが、七重浜はすでに官軍の手に制圧されていた。
「夜になれば、上磯のほうへ出て舟を拾い、沖へ出よう。俺たちが乗る船は、あそこに見える三本煙突の、白塗りの蒸汽船だ。あの船には、フランス砲兵のブリユーネや、カズヌーブも乗るはずだ」
大岡が、雑木のかげから海上を指さしていった。
周三は箱館市街の火の手がさらにいきおいを増し、黒煙が天を覆うさまを眺めた。戦場は東へ移動し、五稜郭が官軍の攻撃をうけるのは、間もないことであると思われた。
島村が返り血に汚れた顔を手拭いでこすりつつ、嘆息した。
「蝦夷島に新政体をうちたてる夢は、消えたか。もはや徳川の天下は望めなくなったな。白根、俺はどこでもいい、異国へ渡って暮らしたいよ。ここを落ちのび、生きながらえたとしても、薩長の奴らに虫けらのように扱われるのは、いやだからな」
周三がうなずく。
「お主の気持ちはわかるさ。それなら、フランス船に乗ったついでに、異国へ送りとどけてもらえばいい。どこで死ぬのもおなじことだ」
「白根、大岡、いっしょにいこう。上海でも、西貢でも、いっそフランスヘいってもよいではないか」
周三はかぶりをふった。
「俺はだめだ。まだしなければならぬ仕事があるからな。俺はひとりになっても、薩長政府に刃向かってやる」 |
|