津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
    大悲の海に−覚鑁上人伝

■幼き日の弥千歳の精進ぶり

<本文から>
 弥千歳は兄の千歳、二千歳とともに鹿島草葉の観音堂へ通い、慶照入寺から学問を教わるようになった。
 はじめは文字を覚えることからはじまる。
 弥千歳は記憶力にすぐれ、慶照から与えられる写本の文字を、乾いた砂が水を吸うように覚えた。
 漢学書、史伝により読み書きを学ぶうち、慶照から噛んで含めるように仏教について教わった。
「仏のみ教えと申すは、仏の智恵のことじや。仏と申すは、天竺の言葉にて、知る、覚るという意じゃ。
 仏の智恵は、一切智というてこのうえなき智恵をいうのよ。
 世のなかにありとするものすべては、時至らばうつろい滅する。生滅するものはあらわれいずる因があり、変化する縁がある。
 因縁によって生れいずるものはすべて滅するが」生滅というたとて、人間が見て五官にそう思うだけじゃ。
 たとえてみればこの瓶子を石にあて、打ちこわしてみよ。粉々になり用をなさぬことになる。これが減じゃ。
 滅というても土が生滅するのではなく、名だけが生滅いたす。声(呼び名)と触(土瓶の形)が滅せしのみじゃ。かようの生滅の姿を知って、天地一切の理を知るのが仏の智恵よ」
 弥千歳は慶照のいうところを、飽きることなく吸収し、手控えの紙に書き記す。
 いままで知らなかった仏の世界が、弥千歳の眼前に展開し、彼は眼のくらむ思いで慶照の言うところを脳裡に焼きつける。
 現世の栄華などは、一瞬にうつろうものであり、宇宙の永遠の姿を見きわめることが、人にとってこのうえもない安心の境地に達するための唯一の作業であると、幼ない弥千歳は理解した。
「どうじや、手習い学問はよきものか。左氏、春秋もそのうちには読みこなせよう。おのしどもは発心して学問を好まば京へのぼり、仁和寺へ入寺してもよかろう」
 当時、仁和寺といえば朝廷にもっとも近い大寺のひとつで、寺域には多くの学問僧がみちあふれ、強大な勢力をほこっていた。
 平次兼元は、息子たちのうち三人が自分のあとを継げばよいと考えていた。
 学問に秀でておれば、肥前辺りに住むよりはみやこへ出て寛助のもとで精進するのが、出世のいとぐちをつかむことにもなる。
 慶照のもとへ通う三兄弟は、いずれも非常な秀才であったが、弥千歳の精進ぶりはものに憑かれたかのように見えた。
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■正知正見によって煩悩解脱の道をひらくことができる

<本文から>
 彼は自らを末世に生をうけた無智罪悪のともがらであるとしてひたすら浄土を欣求すること、を否定する。
 覚鎮は無智無行のまま現世を厭うことを否定し、正知正見によって煩悩解脱の道をひらくことができると信じようとした。
 彼は真言道の修行は、正知正見をそなえた者にとっては難思難行ではなく、易行道であるといった。
 「仏智仏徳もとより我が心に具す。はじめて造作するにあらず。何のとどこおるところかあらん。
 悉地(三密相応した倍達の境地)もし成就せば精ぎて深行を修め、すみやかに大道を証せん。恩を報じ徳を謝し、法を弘め生を利せん。もししかればすなわち三密の仏法いよいよ天下に繁昌し、十住の心教いよいよ人間に流布せん。
 学侶行者山落に森羅とし証験証利華夷に遍満せん。これによって一人万類いよいよ崇重を増し、五乗七宗更に深秘に帰せん。大日、金薩、昼夜の願い、高祖大師起居の望み満足せんこと、ただこのときにあるか。すでに発しがたきの請願を発せり。いずくんぞ成りやすきの悉地を成ぜざらん。ながく名利の為におもんばからず、ひとえに無上菩提の為なり。何ぞ勝え難きの仏日をもって滅し易きの愚暗を滅せざらん」
 仏智仏徳はわが心にあるという真言の教えを修行すれば、すみやかに大道を証することができる。
 十住心の教えを世に流布して三密の仏法が天下を繁栄にみちびくのである。弘法大師の望みも満足せしむるものである。この悉地をなすのは名利のためではなく、ただ無上菩提のためで、滅しやすい愚暗を滅するものであると覚鎮はいう。
 「真言難思の功、密印神通の用、古今いまだ頂からず。霊験あに空しからん。まさに座して三身を成ずること、またいまだ難しとせず。即身に万徳を証すること、またなおもってやすきとなす。
 いかにいわんや智慧の一種においてをや。いわんやまた悟の一徳においてをや。大願一にあらず、密行随って多し。加うるに三際の功徳をもってし、添うるに数輩の念力をもってす。
 なんぞ若干の万力をもって、智慧の一願を成ぜざらん。発しがたきの道心をおこし、修し難きの密印を修す」
 覚鎮は数人の協力者の念力を加え、求聞持法を修すれば、霊験はかならずあらわれると確信する。
 覚鎮は自らの憂愁惧悩を解消するために修法するのではなく、諸仏の悲願を達成するものであるとの抱負を立願文に表白していた。
 −儂は高祖大師の仰せを道しるべといたし、人智の開発は決定疑いなしと思いさだめ、求聞持法で霊験をかならず得てみせよう−
 覚鎮はふるいたって、修行の道に分けいってゆく。
 覚凌が求聞持法の修法を九回にわたりおこなうことができたのは、先達の明寂の非常な尽力があったためであるという。
 明寂は修法についての心の支え、助成ばかりではなく、経済的な助力もおこなった。覚鎮は保安三年の立願文のうちに、明寂への感謝の意を切々と吐露している。
 「かような明寂の協力は諸仏の弘願、薩嘩の大悲にひとしく、釈尊の意楽というべきで普賢の行願にひとしいものである。悉地の妙果が成就した暁には、この広恩に酬おうとふかく感応したのはもちろんであった。
 明寂より受けた恩は深固であり、その徳は高く広大でなにものに比すべくもなく尊い。
 私はそれに比し槍浜(青海原)浅く、かえって弱い。
 身命を捨て、骨髄を砕いてもなお酬いるすべがない。いまはただ早々に悉地成就し、その神薬を明寂に服してもらい、智慧の開発をなすを願うよりほかはない」
 恩を知らぬものは禽獣にひとしく、教えを受けて報いないものは木石にひとしいとする覚鎮は、保安四年の立願文には明寂の恩徳をひたすら礼黄する。
 「悉地成就したときは明寂に従い身辺を離れず、老いし明寂の其俗の生活一切に奉仕し、もし彼が地獄に堕ちるときは自らがかわって炎のうちに身を投じょう。世間苦である経済の上での問題もすべて負担しよう」
 覚鎮は求聞持法により福徳智慧を増強し、一切の教義の文義を理解し、暗諭するための力を得ようとした。
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■金剛峯寺の僧たちは怯えたい

<本文から>
 金剛峯寺の僧たちは彼らがとても及ばない覚鎮の偉才に怯えた。
 「覚鎮は、こんど即身成仏即生入定をやるというておるぞ」
「そげなことができるか。大法螺を吹いとるだけや」
 彼らは覚鎮の揚げ足をとろうと、講蓮につらなってみても、その説くところさえ理解できなかった。
「あやつはちと学問達者じゃと思うて、いろいろむつかしき理屈ばつかりこねくさるわい。ほんに、性の悪い奴じゃ。憤らがたがいに睦みあい、所領の下人どもをいつくしみ、和やかに暮らしてきたものを、よそから入りこみ、かきまわしくさる。それに意地の汚なきことは言語に絶するばかりや」
 密厳院領相賀庄の境界あらそいは、烈しく応酬されていた。
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■覚鎮の最期

<本文から>
 覚鎮は禅明房、浄法房、土佐房、力乗戻らの手厚い看護をうけていた。陽当りのいい南向きの寝所で、赤とんぼの群れる空を眺め、過ぎ去った歳月をふりかえる。
 九歳のときにはじめて仏門に入り、真言の教えを聞いた頃、仏の広大な功徳を知らされ、みじかい浮世にいてひたすら仏道を求めるのが、わが使命であると感動した。
 その思いは年を重ねるにつれ深まってゆくぼかりであった。弘法大師の説いた密厳浄土は、森羅万象の故郷であり、それを知ることで死は生につながる輪廻であることが分る。
 死後の世界は、誰にも分らない。本来、分る能力を与えられていないのである。それならば、なぜ宗教が語られるのか。
 教学、修行に生涯を捧げつくしてきた覚鎮には、宗教が人の心の深奥から湧きあがってくる、自らの存在への問いかけであることが分っていた。
 人は母胎から生れ、食わんがための努力をかさね歳月を過ごし、子をもうけ、やがては死に、五体は腐って土に帰る。
 それは樹木が年々実をつけ、枝葉を伸ばし大木となり、やがては立ち枯れて森の肥しとなるのとおなじことである。
 人はどこからきて、どこへゆくのか。何のために現世でさまざまの欲望につきうごかされてはたらき、愛憎の大海を懸命に泳ぎ、疲れて死なねばならをいのか。死とはいかなる現象であるのか。死ねばどこへゆくのか。
 現世を動きまわっていた人が、突然、死を迎えると形骸を残すばかりである。死によって体から魂が抜け去ると、万人が思うのは当然である。
 物事を考え、しゃべっていた人が死とともに、突然いなくなる。魂はどこへゆくのか。古来、それを人は考えつづけてこないわけには.ゆかなかった。
 考えの道程で、釈迦があらわれ、謎を解きあかしてくれた。万物が生成流転し、消滅してゆくのは、すべて宇宙の意志によるものであると、釈迦は考えられたのであろうと、覚鎮は思っていた。
 宗教は抽象の世界であって、現実の世界ではない。その実在は目でたしかめられるものではなく、智恵によってのみ理解できるものであった。
 森羅万象を眺めておれば、たしかに大きな意志がはたらきかけ、万物を司っていることが分る。その秩序を人間の存在にあてはめて、納得するために、宗教が人類のあいだにうけつがれ、盛行するようになった。
 覚鍍は、青年の頃から弘法大師が求道に励んだように、さまざまの難行をおこなってきた。求聞持法をも、くりかえしおこなった。その結果、どれほど修行をかさねても、不可視の世界を見ることはできないことを悟った。
 修行のあいだに、ときたま魂が体から離れ、空中に浮遊して仏の声を聞くことがあった。覚銀はそのようを経験をかさねたが、それは感覚を磨ぎすましたあげくに見る幻覚であると理解した。
 そのうえで、弘法大師の説く教学を信じることができた。現世の彼方に存在するか否か分らない広大な謎のひろがりを、人間の心にある菩提心のうちに求めたあげく築きあげた、大日如来を中心とする大量余羅の世界は、覚鎮の浮遊する魂を、抱きとめてくれる確固とした浄土であった。
 浄土は、浄土宗の学徒が説くように、西方を過ぎて十万億の仏土があるというのではなく、自分がいるところである。弥陀は大日のほかにはなく、わが身も大日の分身であるという真言宗の理念は、覚鎮の心中に確固としてゆるがなかった。
 宗教の世界は、不可視の世界であるが、厳然と存在する。高僧が朝廷の貴人たちのために祈躊をおこない、病いを平癒させ、干天に雨を降らすのは、法力によるものではなく偶然にすぎないことを、覚鎮は知っている。
 奇瑞を信じたい人は、世間にいくらでもいる。祈躊は、彼らを安心させる代償に、金品の寄贈をうける目的でおこなうものであった。
 宗教は、そのようなものではなかった。古来から生滅をくりかえしてきた、数えきれないほどの数の人間が、わが身に問いかけていった人生の意味が、しだいにかたまり形 をととのえて、できた抽象世界であった。
 覚鎮の風気は、八月から九月になっても快方にむかわなかった。『霊瑞縁起』七よれば、彼が根来山円明寺の画廊に端坐し、如法の往生を遂げたのは、康治二年(一一四三)十二月十二日である。
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