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<本文から>
弥千歳は兄の千歳、二千歳とともに鹿島草葉の観音堂へ通い、慶照入寺から学問を教わるようになった。
はじめは文字を覚えることからはじまる。
弥千歳は記憶力にすぐれ、慶照から与えられる写本の文字を、乾いた砂が水を吸うように覚えた。
漢学書、史伝により読み書きを学ぶうち、慶照から噛んで含めるように仏教について教わった。
「仏のみ教えと申すは、仏の智恵のことじや。仏と申すは、天竺の言葉にて、知る、覚るという意じゃ。
仏の智恵は、一切智というてこのうえなき智恵をいうのよ。
世のなかにありとするものすべては、時至らばうつろい滅する。生滅するものはあらわれいずる因があり、変化する縁がある。
因縁によって生れいずるものはすべて滅するが」生滅というたとて、人間が見て五官にそう思うだけじゃ。
たとえてみればこの瓶子を石にあて、打ちこわしてみよ。粉々になり用をなさぬことになる。これが減じゃ。
滅というても土が生滅するのではなく、名だけが生滅いたす。声(呼び名)と触(土瓶の形)が滅せしのみじゃ。かようの生滅の姿を知って、天地一切の理を知るのが仏の智恵よ」
弥千歳は慶照のいうところを、飽きることなく吸収し、手控えの紙に書き記す。
いままで知らなかった仏の世界が、弥千歳の眼前に展開し、彼は眼のくらむ思いで慶照の言うところを脳裡に焼きつける。
現世の栄華などは、一瞬にうつろうものであり、宇宙の永遠の姿を見きわめることが、人にとってこのうえもない安心の境地に達するための唯一の作業であると、幼ない弥千歳は理解した。
「どうじや、手習い学問はよきものか。左氏、春秋もそのうちには読みこなせよう。おのしどもは発心して学問を好まば京へのぼり、仁和寺へ入寺してもよかろう」
当時、仁和寺といえば朝廷にもっとも近い大寺のひとつで、寺域には多くの学問僧がみちあふれ、強大な勢力をほこっていた。
平次兼元は、息子たちのうち三人が自分のあとを継げばよいと考えていた。
学問に秀でておれば、肥前辺りに住むよりはみやこへ出て寛助のもとで精進するのが、出世のいとぐちをつかむことにもなる。
慶照のもとへ通う三兄弟は、いずれも非常な秀才であったが、弥千歳の精進ぶりはものに憑かれたかのように見えた。
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