津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          武将の運命

■信長の天下とはインドくらいまでイメージしていた

<本文から>
 彼の目的とは一体なんだったのでしょう。もちろん天下一統ですが、信長の時代は、天下というのは、日本全国という観念ではなくなってきていました。そのころ、天下といいますと、唐、朝鮮、天竺(インド)、それにもうヨーロッパもその観念に入っていますから、信長は、その全体を天下と心得ていたと考えられます。ですから、天下一統といったら、ヨーロッパはさておいて、インドぐらいは、信長の頭の中でイメージされていたはずでしょう。
 彼は、そういう構想の中で、天下一統の政権をつくることを考えていたし、そのために政権の組み替え、つまり、構成分子の組み替えをしたのだと思います。性格は信定や信秀からの遺伝かもしれませんし、部分的に斎藤道三の長所を取り入れたとしても、基本的に、信長の心の中には偶像がなく、先入観であるとか、先入主がないわけです。だからこそ、このような構成分子の組み替えという大胆で、冷徹ともいえる発想が可能になったといえるでしょう。
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■信長には世評や迷いによるプレッシャーはなかった

<本文から>
 つまり常に死と直面していた信長が受けていたプレッシャーは尋常ではなかったはずである。だが信長は、そうしたプレッシャーに潰されることなく、というよりプレッシャーを叩き出し、天下統一へと五十年の生涯を駆け抜けている。
 なぜ信長はプレッシャーに打ち克ったのか。その理由を信長の思考と行動の両面から探ることにしよう。
 元亀三年(一五七二)十一月、三方ケ原の戦いを前にして武田信玄の信濃衆の将・秋山信友は、美濃岩村城を陥れ、城主遠山景任の猶子御坊丸を人質に取り、正室も掠奪して武田勝頼のもとにつれ去っている。景任の正室は信長の叔母にあたり、御坊丸は信長の実子である。二人がつれ去られていくのに信長は、秋山が攻略した岩村城を攻めようとしなかった。すでに天下に政権を立て、十万の兵を動かせると言われていた信長である。
 この挙は、信玄によって京に喧伝された。京で信長の悪評がさくさくであったことは言うまでもない。普段、倖そうな顔をしている中・高校生が強そうでない同級生に、顔に唾をはきかけられながら黙っているようなものだ。信玄の家老如きに愚弄される信長は、鎧袖一触で信玄に倒されるとの評判が京では立ち上った。
 それでも信長は動かなかった。岩村城は瀧抜七百メートルの山頂にあり、いたずらな攻撃は兵を損なうと見たからである。ただ三年後の天正三年(一五七五)には岩村城を攻め、秋山信友を捕らえて逆さ礫に処している。明晰な論理を展開し、合理的判断をした後は、迷わず、自ら信じた道を押し進む。そして潮時を計って、攻める時は一気呵成に、退く暗も躊躇ないのが信長の戦いぶりであった。
 プレッシャーは世評や迷いによって増幅されることが多い。信長はそうしたものに縛られることがなかった。
 また信長は既成の概念、権威を容易に信じず、官僚的発想を一切排除した。そして、困難に遭遇した時は前例にとらわれず困難を岨囁して、そのつど、新たな戦略、戦術を立てている。そうした発想の自由が信長をプレッシャーから解放していたといってもよい。

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■秀吉の勝ちを呼び込む決断力と謀略のセンス

<本文から>
 それに、ぐずぐずしていれば、光秀の天下が固まってしまう恐れもある。いかに主君の仇とは言え、官僚としての才覚があり、旧幕府勢力などとも通じている彼が、畿内を固めたとなれば、情勢は地滑り的に彼の思う方向に動いてしまうやも知れない。まわりの武将たちにとっては、勝ち馬に乗ることこそが戦国の処世術だからだ。
 したがって、自分としては、何としても勝家より早く京都に帰り、光秀の態勢が整わないうちに主君の仇として討ち倒してしまわなければならない……。
 勝ちを呼び込んだ大胆な決断力と謀略のセンス
 秀吉の決断は早く、決断した後の行動も素早かった。光秀の密使を捕らえたその夜のうちに、まだ信長の死を知らない毛利方を巧妙に講和に引きずり込み、翌四日には毛利方と誓紙を交換、五日ないし六日にはもう、京都への電撃的反転を開始している。
 しかも、すでにこの時から、京都の光秀周辺に情報戦を仕掛けて、相手方の勢いを削ぎにかかっている。
 大坂にいた信長の重臣の一人・丹羽長秀らと通じ合い、光秀と近い関係にある摂津茨木城主・中川清秀、同高槻城主・高山重友 (右近)、大和郡山城主・筒井順慶、光秀の女婿・細川忠興とその父・藤孝らの動きを牽制。さらに、公家の周辺にまで手を回した節もある。
 中川清秀に対しては、五日付で次のような書状を送ったという記録がある。
 「いま京都から届いた確かな情報によれば、上様(信長)ならびに殿様(嫡男・信忠)は、光秀の襲撃を切り抜けて近江膳所ケ崎に逃れ、無事だとのこと。まずもって、めでたいことである」
 もちろん、内容はまったくのデタラメだ。京都周辺の諸将は、すでにたくさんの情報を得ていたはずで、すぐにこの書状を眉ツバものと思っただろう。
 だが、そうは言っても、事件後すぐのこの時点では、まだ値旧報が錯綜していた可能性は強い。そこにこんな書状が届けば、誰でも「そんなバカな」と思う一方で「あの恐るべき上様のこと、ひょっとすると本当にど存命なのかも知れない」という思いを拭い去れなくなる。
 光秀から参陣の要請を受けていた武将たちは、自ずと「いま軽々に動くのは危険」という判断に傾き、一気に兵力を結集して勢いに乗ろうとする光秀の計算は大きく狂うことになる……。
 秀吉は生涯のいくつかの局面で、「よくぬけぬけと」と言いたくなるようなウソやハッタリの書状を書いているが、それがことごとく大きな効果を挙げている。この時の書状もまた、そのひとつ。まさに、人の心の操り方を心得た秀吉ならではのウリ八百なのだ。
 それにしても、この書状が書かれた時点ではまだ、すぐ背後に毛利軍がいるのである。武将にとって、退却するところを後ろから襲われるほど恐ろしいことはない。普通の武将なら、「あとで信長の死を知った毛利方が、講和を反故にして追撃して来はしまいか」という心配で頭が一杯だろう。光秀周辺の動静についての情報収集はしても、自分から謀略を仕掛けていく余裕など持てないはずだ。
 実際、同じころ、猛将と謳われた柴田勝家ですら、弔い合戦の重要性を知りながら、上杉勢を背にして一気に退却するという決断はできず、秀吉に出遅れている。また、勝家にしても光秀にしても、戦う前から情報戦によって自分に有利な情況を作るという発想は見られない。
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■家康とその家臣団は、戦国から安土桃山にかけてトータルで最強の称号を付しても差し支えはない

<本文から>
 問題は戦後処理である。戦いに勝利した東軍の武将たちは、家康とはあくまでも対等な関係であったはずが、いつのまにか家康から恩賞を受け、その配下として戦ったということにすり替えられてしまった。
 しかも家康は、外様大名はみな畿内以西に追いやり、中部以東は親藩・譜代でかためてしまった。
 とくに関東地方は完全に譜代で占めてしまい、家康に敵対しょうとする者がいても、隙を窺うことすらできなくなっていた。
 こうして、家康および徳川政権の勢力というものは、いつのまにか強大無比のものとなり、他の大名はその鼻息をうかがうはかはない、という状態になった。
 その徳川政権の中核を担った三河武士が戦国最強であるという言い方や、「十六神将」という言葉が語られだすようになるのは、おそらくこのころからではないだろうか。
 もともと家康軍団、三河武士というのは、主君家康がそうであったように、無理な戦いを仕掛けることはなく、非常に柔軟で変幻自在な戦いぶりを特徴としていた。柔軟だということは、同時に臆病でもあるということだ。やる気は充分にありながら、その反面、慎重な面もある。その意味では家康自身、真に臆病であり、つねに「破滅」を恐れていた。そして、危ないときには逃げる。そうした緩急自在の戦いを重ねていくうちに、真の実力に加えて目に見えない力を身につけるようになっていったのであろう。
 純粋に戦闘能力を比較するのであれば、おそらく戦国最強の軍団は、前述の武田騎馬軍団であろう。
 越後の兵も強かったが、こちらは上杉謙信の天才に寄りかかる部分が大きいようにも思える。
 いずれにせよ、家康軍団よりも強い軍団は存在した。にもかかわらず、そうした強い相手との正面衝突を極力避け、結果的に勝利を収めていった家康とその家臣団は、戦国から安土桃山にかけての時代をトータルで眺めた場合、最強の称号を付しても差し支えはないであろう。
 さらに加えるならば、徳川政権が、安定期を迎えると、それまで槍一筋で家康を支えてきた武功派の武将たちはだんだんと身の置場を失ってゆき、算盤勘定をこととする本多正信や大久保忠隣といった連中が幅をきかせるようになる。すると「十六神将」に数えられるような初期の家康政権を支えた武将たちは、自らの武功と天下取りに果たした役割とを強調し、懐かしむようになる。
 こうした感情が、「十六神将」や三河武士団の評価を高めてゆく動きに、さらに拍車をかけたともいえるかもしれない。
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■関ケ原前後で家康は最後まで周到

<本文から>
 さらに、西軍有利となれば小早川秀秋の裏切りはなかったのであるから、東軍は一万五千という秀秋の兵力を得ることは叶わなかったはずである。
 秀秋は、正午を過ぎてもなお、東西どちらにつくべきか迷っていた。つまり、それほどまでに両軍の勢力は括抗していたのである。
 家康は、秀秋の陣所に寝返りを誘う鉄砲を撃ち込む。西軍もまた秀秋を促す狼煙を上げていたが、秀秋はそれには反応せず、西軍、大谷吉継の陣へとなだれ込んでいった。秀秋の裏切りにより西軍は総崩れとなった。
 これで勝敗は決してしまったのだが、このとき西軍がある程度の陣形を維持して戦場を離脱し、大坂城へ逃げ込んでいれば、再び徳川軍に対時できたはずだ。
 大坂城には毛利輝元が五万の大軍を擁し、立花宗茂と小野木公郷の軍勢三万に、関ケ原の敗兵を加えて十万にはなったからである。
 西軍が十万の軍勢で大坂城に立て籠もっていれば、家康が十万や二十万の兵を率いて攻めたところで、城を陥落させることは不可能である。第一、東軍の主勢力には秀頼と戦う意思はないのだから、東西両軍は和睦して兵を引き揚げるよりほかなかった。
 三成の状況判断の稚拙さに比べ、家康は最後まで周到であった。
 家康は、東軍の退路をすべて遮断させ、必死に落武者狩りを行う。これによって、石田三成、小西行長、安国寺恵填が捕らえられた。
 さらに家康は、輝元を大坂城から追い出すための工作を進める。井伊直政らが吉川広家らに宛てた書状の中で、毛利家所領の安堵を誓約しているのを見て、一族の毛利秀元らが龍城抗戦を主張するのを退け、大坂城を明け渡す。
 途端に家康は、輝元が諸大名に宛てた家康征伐の書状を持ち出し、その所領を百三十万石から三十二万石へと叩き落とした。輝元は、まんまと家康に騙された。
 これによって西軍は、最後の勝機を失うことになったのである。
 歴戦の戦国武将たちは家康とともに博打を打った
 関ケ原の戦いの主役というのは、みな豊臣恩顧の大名である。家康は、彼らを同士討ちさせることで漁夫の利を得たわけだが、決戦に勝った途端、自分に味方した大名に次々と恩賞を与え、いつの間にか自分が本当の大将になってしまった。そのすり替えのうまさは実に老檜であった。
 さらに、戦いから数年を経ると、家康は、大坂から西の外様大名を片っ端から改易していく。その意味では、家康は恐るべき策士でもあった。
 家康は、関ケ原決戦に向け、周到に策を巡らせていく。だが、決戦そのものは、家康にとっても勝敗の行方がわからない「大博打」であった。博打を打った結果、家康は勝利を手にすることができたのである。
 黒田如水は、戦のときは頭で考えていては駄目だ、とにかく何がどうなるかわからないのだから、下駄と草履をバラバラに履いて、戦場へ出ろと言っている。
 三成は、そのような実戦の現場感覚に遠かった。自分が西軍のリーダーであるにもかかわらず、決戦の前夜になっても、うろたえて判断に迷い、佐和山の居城と大垣城を往復している。そのため、家康も恐れたという歴戦の武将、島津惟新を失うこととなった。
 対して、戦国のカリスマである家康は、全体の状況を四割まで把握できれば、あとの六割は出たところ勝負と思って突っ込むという「博打」を打つことができた。歴戦の武将たちというのは、命がけの大博打を打つことができる大将についていくのである。
 三成が、豊臣政権における能吏であったことは確かである。
 だが、所詮、官僚の三成は、命がけで実戦の現場をくぐり抜けてきた大博打打ち家康の敵ではなかったのである。
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■真田三代といわれる幸隆、昌幸、信幸の行動規範は独立自尊の誇りを保つこと

<本文から>
 時の権力者秀吉ですら「表裏此興の者」、すなわち表と裏があってどちらに転ぶかわからないと評した男の生存を賭けた戦いに限りなく魅せられるのである。
 真田三代といわれる幸隆、昌幸、信幸の行動規範は、弱小の勢力が領地を守り独立自尊の誇りを保つにはどうしたらいいか、その一点にあった。
 武田、上杉、北条、織田、徳川、豊臣……。当時の信濃を取り巻く群雄は実に強大だ。そのなかで、どの勢力に属したら一番安全で家名を維持できるか、絶えずギリギリの選択を迫られてきた。
 真田家の転変とした歴史の発端は、鬼弾正の異名をとり真田家所領回復のため謀略の限りを尽くした真田弾正忠幸隆の代に始まっている。天文十年(一五四一)、武田信虎によって東信濃が侵略されたのだ。
 この年五月、信虎は娘婿の諏訪頼重、村上義清と図って信濃の地に雪崩をうって侵攻した。当時二十九歳の幸隆は一族の者と共に本領の真田(長野県小県郡真田)を捨ててかろうじて上野に逃げた。
 だが一カ月後、状況は一変する。
 信虎が子の晴信、すなわち信玄によって駿河に追放されたのだ。かねてから父親に疎んじられていた信玄がクーデターを起こし、武田家の棟梁にのし上がったのである。以後、信玄は諏訪頼重を攻め滅ぼし、射上義清とも対立する。
 信濃一帯が混沌とするなか、幸隆は重大な選択を迫られた。旧領を回復するにはどこに付いたら有利か。結論は、信玄の勢力下に組み込まれることだった。
 時の勢いを得た信玄に忠勤を尽くすことがお家再興につながるという読みの前では、おのれを放逐した武田家に頭を下げる屈辱や恨みは物の数ではなかった。
 乱世を生き抜くためには、筋の通ったカツコいい出処進退など「百害あって一利なし」というのが、あの時代の考え方である。単なる勝ち負けなら、一度は負けても後で再起する道があるかもしれない。しかし、戦国時代の負けは一族郎党が地上から抹殺されることを意味した。幸隆が信玄に身を託したのも、恥ずべきことではない。
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■異才を生んだ信濃の地勢

<本文から>
 真田昌幸は、こんな事隆の三男として天文十六年(一五四七)に生まれた。真田家存続の重責が、昌幸の両肩にズシリとのしかかってきたのは、長兄の信網、次兄の昌輝が長篠の合戦で壮烈な戦死を遂げたことによるが、それは後年になってのこと。ただ、昌幸は小さい暗から、旧領回復のために苦労する父幸隆の姿を目の当たりに見て育った。小国が生き延びるための術も、父親を通して学んだといっていい。
 真田昌幸には"利用価値"があった。それは軍略と智略の二つの面における独特の才とでもいうべきものだ。この才を駆使することで、昌幸は強者に対した。
 力で劣る者が優勢な相手に立ち向かう時は、敵と同じ土俵に上がらないのが鉄則だ。生死を賭けたナマの戦いであればなおのこと。相手をこちらのぺースに引き込み、時に裏をかくことも必要である。昌幸はその典型だった。
  例えば軍略面はどうか。信濃国はもともと山脈や河川の間に善光寺平、諏訪平など「平」と呼ばれる山間の平地や谷が複雑に切り込む峻険の地である。このような山岳地帯に住む豪族は、戦争での戦いぶりが平地の大名とはちょっと違う。
 真田家の最初の砦には半地下の抜け道が掘られ、それが険しい山の斜面を通って延々と西上野まで続いていたといわれる。三、四万の敵であっても自分のホームグラウンドに引き込んだら、二、三千の兵で引っかき回し蹴散らしてしまう。他方、あらゆる策略を巡らして敵陣営に内応者をつくり揺さぶりをかける。真田一族は局地戦で負けることがなかった。
 軍略家であり智略家でもあった昌幸の資質は天正十三年 (一五八五)、家康の送り込んできた三河の精鋭を上田城に迎え撃った時に存分に発揮されることになる。戦いは、上野にあった真田の沼田領をめぐって起きるのだが、その前に、この所領を確保するために昌幸が重ねてきた努力、右顧左晒しながら強大勢力の間を泳ぎ渡ってきた苦労を振り返っておく必要があろう。
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■真田の綱渡り外交

<本文から>
 三年前の天正十年三月、織田信長に追いつめられた武田勝頼が、落ち延びる途中の田野で自刃して果てた。長篠の敗戦から七年後のことだ。昌幸の綱渡り外交〃が始まるのはこの暗からである。
 昌幸は幼少の頃、父幸隆の人質として信玄の許に差し出されているが、信玄は彼に武田家の名門の一つ武藤の姓を与え、武藤菩兵衛尉と名乗らせるはど大事に扱った。信玄亡き後も勝頼の側近として、父幸隆譲りの謀略により、北条氏の支配していた沼田城を落とすなど大いにその本領を発揮している。
 昌幸にとって武田は恩顧ある家だったのだが、その滅亡後、家名存続の拠り所を求めて激しく揺れ動く。その頃のエビソードで面白い話が残されている。勝頼が、家臣の裏切りで織田軍の侵入を受け新府城を脱出する時のことだ。
 昌幸が勝頼に、自分の持ち城の一つである吾妻城に入り、そこで再起を期したらどうかと申し入れた。だが、重臣の一人長坂釣閑が「真田はもともと外様の家柄。そんな男の言うことなど信用できない」と反対したため、同じく重臣小山田信茂の居城岩殿城に向かうことになった。この提案に従ったのが身の不運、勝頼は城に着く前にあえない最期を遂げるわけだが、一方、昌幸は主君を迎えるといいながら、腹の底では全く別の計画を練り上げていた。所詮、武田には上がり目″はなしと、いち早く敵対する北条に帰属すべく策動するのである。
 この時の昌幸の胸の内を付度するとどうなるか。武田が滅びた後、恐らく自分の支配する沼田領は北条の手に落ちるに違いない。となると今のうちに武田を見捨て北条氏への帰属を内通しておけば、領地も安堵できるのではないか。昌幸は情勢を分析して、そう読んだはずだ。
 いかに恩顧を受けていても、もうこれでダメとなったら、裏取引をして次の道を探す。「ここで主と共に滅びん」などという純情さは脆さの裏返しであり、昌幸には無縁のものだった。
 昌幸の冷徹な計画は北条氏だけに頼ることの危うさをも警告した。彼の視野の隅に、ある男の影が徐々に膨らんでいたのである。織田信長は武田滅亡後、甲斐をはじめ武田の旧領を支配下に収めジワジワと信濃への圧力を加えていた。
 ここで昌幸の打った手は、現代の感覚からすればまさに無節操の誹りを免れない。
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■孫一が本願寺を担いだ計算

<本文から>
 山岳地帯には、強大な寺社勢力の高野山、根来寺があり、それらはまた独自に権力の介入を嫌う自治国家を形成していた。
 そうした大組織につくことをとても首肯できない気風は雑賀五搦にも伝播していた。五搦は一枚岩ではなく、雑賀荘と十ケ郷を除く他の三拐は、あわよくば他を蹴落として、自分が優位に立とうとしていたのである。三坊は、根来衆と組んで、信長の味方をし、本願寺に敵対したことさえある。
 雑賀衆の中で終始一貫、本願寺門徒として働いたのは雑賀荘と十ケ郷であり、その棟梁ということで、孫一が注目されるわけだが、孫一が本願寺を担いだことにも、実は彼なりの計算があったと思われる。
 目先の利益に敏感な雑賀衆は、傭兵として各地に出向くときは、それなりの報酬を要求した。だが、元亀元年(一五七〇)から始まった石山合戦で、雑賀衆は本願寺にいかほどの要求も行っていない。鉄砲も火薬も兵糧も、蓄えた富、命までも本願寺に投げ出している。
 雑賀衆が浄土真宗に集団で帰依したのは蓮如上人が紀州に布教に訪れた時で、石山合戦の百年ほど前である。その後、雑賀衆は熱心な門徒衆であった。誰でも阿弥陀如来を信じ「南無阿弥陀仏」と唱えれば、極楽往生ができ、人を幾人殺した者でも阿弥陀如来は救ってくれる。という教えは、戦闘集団だった雑賀衆の心を強くとらえていたのだろう。
 だが、本願寺を命懸けで支えたのは、信仰心だけからではない。かつては信長に誘われたこともある孫一は、信長の力を値踏みしていた。
 「信長は大したことはない。信長よりも、統一された国家、領土をつくりだせるのは本願寺だ」と事実、信長は永禄二年(一五五九)に上洛した後、十数年間、畿内に直接手を下していない。そんな信長の姿を見て、孫一は天下というには、まだ力が充分でない信長よりは、すでに天下を二分するほどの勢いと、諸国に多大な門徒衆を持つ本願寺に賭けたのだろう。
 しかし、孫一の見込みとは違い、信長の力は想像以上に大きかった。そして信長は天下布武のためには避けて通れぬ道として、越前では門徒衆の大虐殺を行い、執拗に本願寺を攻めたてた。
 信長は天正四年(一五七六)の本願寺攻めには突放し、一度は退いている。だが、翌年には戦略を切り替え、本願寺の戦力を殺ぐため、本願寺を支える雑賀衆の本拠地を直接攻撃している。このときも雑賀衆は懸命に防いでいたが、いかんせん畿内はもとより越前、若狭、丹後、播磨などからも徴発された信長の軍勢は大勢である。雑賀衆は遂に支え切れず、信長に降伏、屈辱的な内容の誓紙を入れている。その後の孫一に光彩はない。
 雑賀の孫一は、鉄砲に関しては最高の技術、戦術を持っていた。だが領土の奪い合いで、雑賀五椀の宮郷の長・土橋若大夫を暗殺しているように、長期的視点をもって儲賀衆全体を統率していく政治能力には欠けていたようである。
 歴史に、もしは禁句だが、孫一に目先の利を追うだけでなく、大局観を持ち、雑賀衆を一つにまとめる統率力があったとしたら、天下人としての信長は、恐らく出てこなかっただろう。逆に、天下布武の道を歩む孫一が存在したかも知れない。
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