津本陽著書
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          武神の階(下)

■死のなかに生あり、生のなかに生なし

<本文から>
 法興和尚は道端にひぎまずき、隊列を見送ろうとした。
 輝虎は目ざとくこれを見つけ、近侍の本庄清七郎を呼び、法興に問わせた。
「兵を進むるに神速なるを規矩となす。法を弘むるの方便、何をもって規矩とす」
 法興は衣の裾を払い、しずかに立ちあがった。
 法興和尚は答える。
「兵を進むるに死を先にす。法を弘むるにも死を先にす。今日当体(輝虎)生を知って死を知らず」
 輝虎は馬を下り、払子軍配を打ち振って、重ねて聞く。
「弱きを見て退き、強きにむかいて進む。逆なるか順なるか」
 和尚はためらわず答える。
「死を恐れざるものは安く、生を楽しむものは危うし。強弱進退死生の迷悟、あたれるや」
 輝虎は破顔して一言告げた。
「死のなかに生あり、生のなかに生なし」
「珍重、珍重」
 和尚はうやうやしく拝礼した。
 輝虎はほじめ進退遅速を問い、ついで強弱順逆を問うた。
 だが和尚は進退強弱をあげつらうべき問題とせず、ただちに生死に言及して、輝虎は死を知らずときめつけ、死生超脱の意を告げたのである。
 和尚の言葉は、輝虎の心中の琴線にふれた。
 輝虎は春日山城中の壁書に、「生きんとすれば必ず死するものなり。帰らじと思えばまた帰る」
 と大書していたが、和尚のいうところに合致する境地であった。
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■輝虎の街作り

<本文から>
 海上交通も発達していた。
 居多浜、郷津、柏崎、出雲崎、新潟から越中、能登への廻船が頻繁に出航している。
 輝虎は街道筋に宿駅を置き、飛脚、伝馬、宿場の施設をととのえていた。公用の荷は優先して運送させ、民間の貨物運送についての馬方の直接取引は、しばしば横暴の害があるため禁じ、商人と問屋との談合によって運賃をさだめさせた。
 沿道の要所には砦が置かれ、火急の変に際しては、春日山城に狼火もしくは手旗で迅速に通報した。
 三国峠と廠橋城のあいだには、一里(一里は約四キロ)ごとに三カ所に鐘撞き場を置き、逐次撞き、その昔によって本城に急報をもたらしうる仕組みをつくりあげていた。
 輝虎は領民を領外へ逃散させないよう、関所では越後への入国者は規制しないが、出国者は厳重に詮議した。            
 関所通行免札は男は木札、女は紙札を用いた。士分の者は柏崎、甘粕両家連判の券状を必要とする。
 戦国乱世の当時は、四隣に敵をひかえているため、他国と物資を交易し、たがいに不足を補うことが不可能であった。
 食料から、生活に要する諸道具、武器に至るまで、すべて自給自足しなければならない。
 輝虎は平時から領内諸産業を育成し、必要な物資の生産に支障のない体制を築きあげていた。
「国の至宝としてまず挙ぐべきは百姓じゃ。百姓が田畑を耕さねば、われらはすべて生きてはゆけぬ」
 輝虎は移民を迎えいれ、開墾を奨励する政策を、一貫してつづけていた。
 信濃、越中から戦乱に追われる百姓が、妻子をともない避難してくると、彼らを歓迎する。
 輝虎は家老たちにその優遇策を命じる。
「逃れ来し百姓どもにほ齢に従いて扶持米をやり、蒲原郡などの沼地にやって荒地を切りひらかせ、新田を与えよ。作物を得るまでの月日の糧と住いも、やるがよい」
 山間には漆を栽培させ、蝋の製造をおこなわせる。家ごとに樺を植えさせ、建築用材の確保につとめさせた。
 輝虎ほとりわけ竹林の保護を厳重にした。
 竹は弓矢の製造に欠くべからざる資源であった。幾本かを束ねて槍の柄とし、矢玉を防ぐ竹把にも用いる。
「竹木伐らせまじく候。伐り候えば、村要害なおなお手浅に見なすものに候」
 と輝虎は濫伐禁止の達示をしばしば発している。
 春日山城内には細工組があり、刀、槍、弓、鉄砲、甲宵、鞍、鎧など各種の武器を製造していた。
 これらの工人はすべて世襲で、部下の職人を使い、生産に従事する。春日兼則という刀鍛冶の名ほ、他国にまで聞えていた。
 府中の城下町では、紀伊根来と能登から塗物師を招き、食器など漆器類の製造をさかんならしめた。
 はかに絵師、紺掻き、番匠、鍛冶、弓細工師、具足師、研師、槍細工師、鋳物師、筒張り、籍結、蝋燭かけなどの職人が店舗をつらねている。
 越後の特産物として有名な苧麻は、朝廷から専売を許されていた。例年京都へ大量に輸出され、輝虎の財源の支えとなっている。
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■鉄砲を重視しなかった

<本文から>
「上杉全軍団の軍役量は、全体で槍三千四百九人。手明六百人。鉄砲三百人。旗三百四十八人。馬上五百三十五人。合計五千百九十二人である。
 上杉軍団の特徴は、鉄砲が槍の十分の一と比重の低いことである。
 当時、北条氏の軍役表を見れば、槍五十九丁に対し鉄砲十三丁。毛利氏では槍と鉄砲の装備比率が一対一となっている。
 謙信は永禄二年二度めの上洛の際、大友宗麟が幕府へ献じた鉄砲の玉薬の調合法を記した書物を、将軍義輝から贈られた。
 だが、越後にいては、南蛮渡来の新兵器と弾丸硝薬は、畿内から入手するしかなく、鉄砲の普及は遅れざるをえなかった。
 そのうえ謙信も鉄砲の使用に積極的ではなかった。彼は越中の一向一揆が用いる火器にしばしば悩まされたにもかかわらず、鉄砲を彼の軍団の主戦兵器に用いる気がなかった。
 野戦操兵の天才である彼にとって、鉄砲乱射によって敵の鋭鋒を挫く戦法は、あまりにも単純にすぎたからである。
「鉄砲などは、竹把、掻楯でいかようにも凌げよう。また、夜討ちを仕懸けなば、鉄砲の的にならずとも済む」
 上杉軍団の全動員数五千二百人というのも、極端に低い数字である。
 戦国大名のうち随一の富裕を誇ったといわれる謙信であれば、この数倍の兵力を募ることも可能であったであろう。
 謙信はかねがねいっていた。
「われに八千の兵あらば、天下のいかなる敵をも相手に駆け悩ましてくれようぞ」
 五千二百人の将兵に、小荷駄の軍夫を加えれば、およそ八千人になる。
 彼にとって、八千人をこえる大規模な軍団は、無用の長物と思えたのでほないか。川中島合戦の際は、万をこえる人数を動員しているが、実際の戦闘は常に八千以下の軍勢でおこなっている。
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■景勝への教訓

<本文から>
 「おのしほ、自分がなにゆえ儂のあとを継ぎ、上杉の当主となって、三軍を指図する身になるのか、分っておるか」
 景勝はしばらく考え、かぶりをふる。
「何も分りませぬ」
 謙信はうなずく。
「儂にもしかとは分らぬ。われらが現世でのおこないはすべて、神仏の指図であろう。そうとすれば、神仏はなにゆえわれらに殺生をいたさせようとなさるのか。それを考えたことがあるか」
「ござりませぬ」
「そうであろう。儂は父老がみまかりしとき、葬列を出す時にさえ、甲冑をつけねばならぬ有様であった。眷属を護るため、儂は十四のときから敵の矢面に立ち、知恵をしばって戦わねばならぬ仕儀となった。敵はすべて、合戦の場のかけひきに長ぜし古つわものばかりであった。戦というものは、采配の段取りひとつで、勝敗いずれの側にも傾くものじゃ。わずかなあやまりも許されぬ。運よく一度の合戦で勝ちを得しとて、気を緩めなば、たちまち墓穴を掘らねばならぬ。世のなかを見渡さば、家督を守り身を全うする者より、家をやぶり、一族もろともに滅亡いたす者のほうが、はるかに多きものじゃ。
 儂は身を粉にし、頭脳をはたらかせて今日まで生き延びてきた。こなたより仕懸けし戦はなく、いつにてもよこしまなる敵を退治するための、破邪顕正の剣をふるって参った。債が打ち倒せし悪人らは数えることもできぬほどじゃ。儂はなにゆえ、さようなことをして参りしと思うかや」
 景勝は返答ができない。
 沈黙したまま、父子は盃をとりあげる。
 謙信はほほえみを見せた。
「儂ははじめのうちは、父祖の領分を守り、家督をのちに伝えるため、戦うのが当りまえじゃと思うておった。ところが、あるとき考えがかわった。儂が越後の国の主となり、またおのしが儂のあとを嗣ぐのは、すべて神の思し召しというものであったと、思うようになってのう。人はこの世に生れ、さまぎまな暮らしようをいたすが、それは前世の約定に従うて動いておるまでじゃ。現世にて、ひたすら己れが業に励みしのち、彼岸に参らば、またかの地でのなりわいが待っておる。
 体は滅しても、人は滅びぬ。死ねば死後の世界が待っておる。われわれは常に神仏の指図に従い、修行しつつ六天をめぐるのじゃ」
 景勝は、つぶやくように語る謙信の表情に、ふしぎな寂静の気配がただよっているのを感じた。
 謙信は臆病について、語りはじめた。
 「一軍の将として、臆病なるは不器の第一となすべきではあるが、また臆病なるところのなくては、敵に不意をうたるるものじゃ。臆病は悪しきとほ、一概にほいえぬ」
 戦闘に際し、恐怖を知らず猪突猛進して、いたずらに命を捨てるのほ匹夫の勇であると謙信は説く。
 彼は半生にかさねた実戦の経験から、独自の意見を持っている。
 「耳が臆病にて、眼に勇を宿す大将は不覚の敗北をいたさぬものじゃ。そのわけは、万端物音に気をくばり、油断いたさぬゆえ、落度をすることはない。これにひきかえ、目に臆病にて耳に驚きのなき大将がおる。かようの者は、しばしば不覚の敗北をいたすものじゃ。そのゆえは、心は目に連れ、目は心に連れるからじゃ」
 謙信は少年の頃から小勢で大軍の強敵に当るとき、勝敗を論ずることなく、ひたすらわきめをふらず斬り崩し、敵中を突破するほどのいきおいを示して、死中の括を得てきた。
 ただ勝とうとのみ思うのは、臆病者の性であり、仕損じたときは討死にと覚悟して仕懸けなければ、勝利は得られるものでほなかった。
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