津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          武神の階(上)

■父の死を境に一家の存亡の危機に

<本文から>
 虎千代は、為景の死を境に味方の武将の態度が、あきらかに変ったのを感じとっていた。
 幼い彼は、日頃から父の忠実な幕僚としてはたらいてきた、山吉政久、福王寺孝重、安田弥八郎らが、為景に見せた畏敬の物腰を晴景にはひそめるのを見て、こころもとなさを覚えた。
 為景のまえに出ては頭を垂れ、ひれ伏さんばかりの臣従の姿勢をあらわしていた国人たちは、晴景に命令をうけても、聞き流すことがある。
「こりや、おのしは新館殿がお下知を何とこころえる。しかとお受けいたさぬか」
 長尾顕吉が苛立って一喝すると、彼らは薄笑いをうかべ、応じる。
 「これほうかといたし、まことにご無礼申した。新館殿、ご容赦召されよ」
 府中の幕僚たちは、晴景が自力では越後国主の地位を全うできない現実を、見通していた。
 彼らは内心では、もし晴景が没落すれば、つぎに越後の国主となるのは誰であろうかと、前途を模索しているのである。
 わが運命を託すべき主人が亡びるときは、自分もともに破滅するからであった。
 晴景の身上にわずかでも暗雲がさしそめれば、彼らは別の主人を求めるため、先をあらそい府中長尾を捨てるであろう。
 虎千代は、そのような事情を母の虎御前、姉桃世から聞かされ、一家が存亡の危機にのぞんでいるのを知った。 
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■十四歳の景虎が有能な武将であると知った家来

<本文から>
 およそ味方の倍もあろうかと思える敵部隊は、待ち伏せのかいもなく、ついに景虎勢を撃滅する機を失い、大損害を蒙ったあげく攻撃を中断した。
 味方の死傷は、わずかに十数人である。
 歴戦の家来たちは、景虎の巧妙な指揮によって、大勝を博したことが信じられないような顔つきであった。
 −若殿がお下知によって夢中に動きしのみなるに、かようなる勝ち戦となろうとは思いもかけぬことじゃ。これはまことに毘沙門天のご化身かも知れぬわい−
 合戦の場数を踏んだ彼らは、指揮官の能力を正確に判断できる。
 十四歳の景虎が、晴景とは比較にならない有能な武将であると知った家来たちは、おどろくばかりであった。
 数千とまとまった人数の兵団が、戦場で発揮できる戦闘能力は、指揮官の能力によっておおきく左右される。
 指揮官が凡庸な人物であれば、どうしても適切な対応ができない。刀槍をつらねて敵と激突する戦場で、指揮官が見当はずれの用兵をおこなえば、どれほど精兵が揃っていても、たちまち危険な状態に追いこまれてしまう。敵の攻撃の変化に鋭敏に反応し、彼らの先手をとらねばならないのが、反対に後れをとって、戦線の各所に破綻が生じてくるのである。
 そうなった場合、合戦に慣れた将兵たちは大将の指図を無視し、各個に敵の攻撃をはねのけようと戦うことになる。
 景虎の幕僚たち、さらに下級の将校たちは、景虎が兵学に長じ、亡くなった為景に幼時からおおいに期待をかけられていたことを知っている。
 また春日山在城中に、近郊に攻め寄芸上条上杉勢と幾度か小戦闘をまじえ、勝利を得た実績をも知っている。
 だが、栃尾への遠征で、したたかな地侍の大群を相手に死闘を展開するとき、やはり若年の景虎ほ、用兵に誤り宣ずるにちがいないと、予想していたのである。
 歴戦の侍衆は、地侍を相手の変転きわまりないゲリラ戦では、兵書で学ぶことのできない、突発状況がいくらでもあらわれてくるのを知っていた。
 そんなときに表機応変の策をくりだし、兵士を進退させるには、よほど老練の才と胆力が要求される。
「いまだ野戦のおそろしさをご覧にならぬ若さまの指図だけでは、動けぬこともあろう。さようなときは、われらがそれぞれにはたらき、急場をきりぬけねばなるまいゆえ、心構えをいたしておこう」
 幕僚たちは、いざとなれば各個に敵を撃破する覚悟をきめていたが、景虎の采配は、そのような懸念を無用とする、万全の読みによっておこなわれた。
 景虎勢が栃尾笑城するまで、地侍は再度の襲撃をしかけてこなかった。
 彼らは景虎勢の予想をうわまわる精強な実力を知り、おそれをなしたのである。
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■景虎は神器とたとえたい非凡の光芭をはなっていた

<本文から>
 本庄は三十五歳であったが、景虎との年齢の差を忘れていた。
−若殿さまは、われらごときとは将器がちがう。まことに天与の才というべきじゃ。二日の間の乱戦のなかでは、采配の振りようを誤れば、敵の大兵にとりこまれ、進退も叶わぬ窮地に陥るところでありしものを。こののちは、若殿さまを頼ってゆかねばなるまい一
 山吉行盛をはじめ幕僚たちも、本庄と感慨をひとしくしていた。
 彼らは、暗黒風雨のなかで、景虎が敵の手のうちを見抜き、一糸乱れず兵を運用した統御の才が、神器とたとえたい非凡の光芭をはなっていたのに、心をうたれていた。
 栃尾城に到着する前後からの、息つく暇もない地侍勢の攻撃を、巧みに封じた景虎ほ、ようやく自信を得た。
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■降参した者を家来に加える大器に従う地侍

<本文から>
 栃尾城に戻った景虎は、三千人の捕虜を家来に加えることとした。
 彼らをさきに降伏した千人の地侍とともに、外曲輪の警固につかせるのである。
 捕虜となった侍のうちには、一家春族をただちに栃尾城下へ移したいと願う者が多く、景虎は許した。
 ぐずつき、日を重ねているうちには、旧主からの報復が肉親に及ぶこととなるためであった。
 翌朝から合戦のたびに蹂躙され、焼跡の目立つ外曲輪に、仮小屋が建てられる。にぎやかな槌音が山峡にこだまし、昨日まで捕虜であった新参の家来たちは、かいがいしくはたらいた。
「たび重なっての大勝利、まことにめでたき儀にて祝着至極、若殿さまのめざましきご采配には、われらほただただおどろくのみにござりまする。まことに毘沙門天の再来もかくやとのおはたらき。人為とも思えませぬ」
 景虎は笑って答える。
「さほどのことにてはなし。何にしても勝ち戦つづきにてめでたきことじゃ。降参いたせし人数をあわせ、味方は七千人となった。新参の者どもも、ふたたび寝返りいたすこともあるまい。しばらく様子を見しうえにて人質をせり、合戦に使うてみょうではないか」
 景虎の脳裡には、つぎの戦の企てが組みあげられている。
 地侍たちは、景虎が有力な大名に成長する器であると知ると、彼に従おうと望んだ。
 彼らは常に強い首領を求めている。首領の保護を仰がなければ、せいぜい数十人の家来しか持たない地侍は、存立してゆけなかった。
 景虎は実城で幕僚を集め軍議を練るあいまに、曲輪うちの馬場に出て、武芸鍛練をした。
 大柄な景虎は、まだ筋骨のかたまっていない年頃であったが、刀槍をよく使った。彼の学ぶ剣術は、鞍馬流と呼ぶ、山伏のあいだに広まっている流儀である。
 景虎は腕の立つ近習を相手に、雪空の下で汗が流れるまで激しく太刀打ち稽古をした。
 汗をかき、湯にはいったのちに酒盃を手にする景虎は、周囲を圧する威厳をそなえていた。
「とても十四歳とは思えぬわい」
 本店新左衛門は、幕僚たちと感じいるばかりであった。
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■父の宿敵の一向一揆を味方にする

<本文から>
 父為景は宿敵の一向一揆を終生弾圧した。彼は永正十五年(一五一八)と十七年に、越中へ遠征し、一向一揆を征服した。
 越後でも、一向宗は民衆のあいだに浸透し、敏も知れないほどであったため、為景は永正十八年に「一向宗禁止綻」を発し、大弾圧をおこなった。
 景虎が一向門徒の信心を宥免するのは、幼時から母の虎御前に教えられた宗教をあがめる考えに発している。
 一向禁制をゆるめるのは、景虎の実力を増す有効な手段でもあった。
 為景が死に至るまで、諸方の叛乱に苦しめられ、奔命に日を送ったのは、民心を充分に把握できなかったためである。
 一向宗を許せば、農民たちはすべて景虎のもとへ馳せ参じるであろう。
 景虎が一向宗禁制を解く方針をあきらかにすると、廃寺となっていた大利がつぎつぎに復活しはじめた。
「栃尾のお殿さまは、債らがお念仏を唱えるのをお許し下されるそうじや。かようなありがたいことがあろうかや。よくぞ長生きいたせしものじゃ」
 農民の長老たちは涙を流してよろこぶ。
 景虎が民心を掌握すると、その戦力は目にみえて伸長していった。
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■景虎の出家

<本文から>
 景虎は善光寺から帰陣した翌年の弘治二年(一五五六)三月、出家を志し国政をかえりみないようになった。
 六月にほ先師天室光育に遺書をつかわし、出家した。景虎の年齢は二十七歳である。
 戦国武将が老齢になって、遁世をほかるのならばともかく、景虎のように血気さかんな大国の領主が、突然仏門に入るのは、前例のないことである。
 当時、大名のあいだで入道し、剃髪して僧籍に入ることが流行していた。晴信は永禄二年(一五五九)に入道して信玄という法名に名をあらためた。
 彼が僧籍に入ったのは、そうするほうが大名でいるよりも、高い官位が得られるためであった。
 法名宗心こと景虎の場合は、信玄がそうしたようにひきつづき軍事政務にたずさわるのではない。世俗から離れ隠遁するのだから、前代未聞の出来事と世人がおどろいたのも無理はなかった。
 景虎が出家して、世を捨てようと思いたったのにほ、二つの理由があった。ひとつは越後国内での地侍たちの所領争いの浅ましさを、見せつけられたことである。
 いまひとつは、最愛の女性に身辺から去られた衝撃である。
 戦国乱世の土地争いは、武力で解決されてきた。景虎が越後国主となったのちも、当分ほそのような地侍のあいだの抗争が見られたが、しだいに減っていった。
 武力のかわりに、国主景虎の裁断に皆が従うようになったのである。
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■景虎には巨大な富があり交易をはかった

<本文から>
 五千の大軍を擁する景虎が、上洛のために通過した諸大名の領地で、何の紛争もおこさないばかりか、むしろ歓待されたのは何故であったか。
 景虎には巨大な富があった。
 彼は日本で最大の金銀生産量を誇る、越後、佐渡の碗山を所有していた。
 越後上田庄の上田銀山、岩船郡の高根金山、佐渡西三川金山、鶴子銀山から、おびただしい金銀の運上を得ている。
 戦国武将の財力としては、東山梨郡の黒川金山、武蔵秩父の秩父金山、西八代郡の下部金山などを領有してかた武田晴信とともに、東西の横綱ともいうべき地位にあった。
 景虎は金銀以外の物産の交易にも、力を注いでいた。
 越後上布とその原料の青苧も、重要な産物であった。
 青苧とは麻の一種で、木綿のまだ普及していなかった当時、衣服の材料としてもっとも珍重されていた素材である。
 青苧の主な産地は、頸城平野、魚沼の一帯であった。
 景虎は京都へ大量の青苧を出荷し、収入を得ていたり直江津に入津する苧船からとりたてる税金だけで、年間銭四万貫というおどろくべき収入があった。
 四万貫といえば、石高になおすと三十五、六万石にあたる。
 府中長尾家は、景虎の祖父能景の時代から、巨富を背景に朝廷、幕府と親密な関係をむすび、青苧座の本所(商業許可機関)である三条西家と連絡をとり、交易にはげんできた。
 京都と越後をつなぐ交易ルートを確立してきた府中長尾の経歴が、朝倉、佐々木ら守護大名に信頼を与えているのである。
 景虎が訪問すれば、朝倉らは商品経済上の利益をはかるための、商談ができる。
 景虎上洛は、将軍義輝との間柄をつよめる政治上の効果を狙うとともに、有力大名とのあいだに商談をまとめる目的をも果たすため、莫大な経費をもいとわず実行されたものであった。
 景虎は上洛の行列を美々しくよそおわせ、途次の諸民に武威を誇示した。
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■政虎と信玄の一騎打ち

<本文から>
 政虎と信玄の一騎打ちは、「甲陽軍鑑」に記載されているものである。
「上杉年譜」では、越後衆の先陣荒川伊豆守長実という者が、信玄に三太刀まで斬りつけたと記している。
 「川中島五箇度合戟次第」にほ、何の記載もない。
 「甲陽軍鑑」にほ、つぎのような記録もある。
 「政虎がのちに家老衆と語りあったとき、自分が斬りつけた相手は信玄と、およそ見当をつけたが、信玄は謀略にたけた人であるため、同じいでたちの法師武者を大勢仕立てておいたと聞いた。そのため本物か否かが分らず、もしただの侍と組みあい、生け捕られでもすると恥をかくと思い、馬から下り組み伏せなかったが、実に残念なことをした」
 政虎は、自分が斬りつけたのが信玄であるとの確信を、持っていなかったのである。
 政虎と信玄の一騎打ちについて、川中島合戦から五十四年のちの元和元年(一六一五)、上杉家の家来清野助次郎、井上隼人正の二人が、「上杉将士書き上げ」という書類をまとめた。
 このなかに、政虎と信玄の一騎打ちについて、つぎのように記している。
「去る年の合戦にて、見え候につき、堅く守りて対陣つかまつり候。このとき、謙信と信玄の直の太刀打ち、信玄手を負い申し候。
 御幣川の中へ謙信乗り込み候ての太刀打ちに候。世上にては、信玄、床凡に腰かけており候ところへ、謙信乗りつけ候を、信玄太刀抜き候隙なく、信玄軍配にてうけられ候と沙汰あり候。大きに相違つかまつり候」
 この説によれば、政虎と信玄ほたがいに刀をふるい、斬りあったことになる。
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