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<本文から>
鹿児島から出てきて間もない亮助は、脂粉をよそおった京都の女を、まぶしく見た。
彼はなみのいなか侍ではない。薩藩船奉行の松方助左衛門に随行し、しばしば京都、長崎を往来していた。
薩藩が大枚十六万両を支払い、イギリス汽船キャンス−号を購入する交渉をした際も、松方の助手として付き添っていた。
キャンスー号は、千十五屯で、百ポンド自在砲一門、四十ポンド砲三門、十二ポンド砲も積載し、時速十六ノットという、当時としては驚くべき快速をそなえた船であった。
亮助はオランダ語を読める。また、算術にもあかるく、六分儀を使う能力もそなえているので、国許の海軍所の士官に推選されたが、ことわって京都へきた。
彼は家督を次弟に譲っていた。伊集院の家を継ぎ、鹿児島で生涯を送る気はない。命を的のはたらきをも覚悟しなければならない、探偵方の任務をひきうけたのも、京都へ出てきたいためであった。
京都屋敷詰めになったのは、遠縁にあたる家老の小松帯刀の推挙があってのことである。
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