津本陽著書
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          幕末新人類伝

■命を的のはたらきをも覚悟して京都に出てきた亮助

<本文から>
 鹿児島から出てきて間もない亮助は、脂粉をよそおった京都の女を、まぶしく見た。  彼はなみのいなか侍ではない。薩藩船奉行の松方助左衛門に随行し、しばしば京都、長崎を往来していた。  薩藩が大枚十六万両を支払い、イギリス汽船キャンス−号を購入する交渉をした際も、松方の助手として付き添っていた。  キャンスー号は、千十五屯で、百ポンド自在砲一門、四十ポンド砲三門、十二ポンド砲も積載し、時速十六ノットという、当時としては驚くべき快速をそなえた船であった。  亮助はオランダ語を読める。また、算術にもあかるく、六分儀を使う能力もそなえているので、国許の海軍所の士官に推選されたが、ことわって京都へきた。  彼は家督を次弟に譲っていた。伊集院の家を継ぎ、鹿児島で生涯を送る気はない。命を的のはたらきをも覚悟しなければならない、探偵方の任務をひきうけたのも、京都へ出てきたいためであった。  京都屋敷詰めになったのは、遠縁にあたる家老の小松帯刀の推挙があってのことである。  
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■初めて人を斬る

<本文から>  
 高崎が塀に背をつけ、足をとめた。亮助が地に伏せ、耳を土につけた。うしろの闇中に、おぼろに浮かぶ多くの人影がみえた。行手からも、一団の黒影が近寄ってくる。 「来ましたぞ」  亮助がいうと、高崎は羽織をぬぎすて、刀を抜く。 「お主はさきに逃ぐっがよか。いけ」  高崎が叱咤し、菊次郎が背をまるめ、走りだそうとした。  鞭を鳴らすような音が、土塀にはねかえり、菊次郎の体が石につまずいたように前のめりになって、地に這った。  ながく尾をひく坤き声をめがけ、みじかい火光が二度走り、鞭音が鳴った。 「おのれ、鉄砲を使いおったな」  高崎はいうなり、刀を頭上たかくトンボに構えた。 「チエーストー」  ながく尾をひく甲声をあげ、高崎は闇中に薄の穂のようにひらめく自刃にむかい、斬りこんでゆく。  右トンボみ構えをとり、天を突くいきおいで大剣をさしあげ、腰をおとし、両膝を内側に掃め、踵をあげた両足の親指と中指で身を支えている。  その姿勢から、軍鶏の走るように上体を立て、敵に襲いかかる。キイーンと、刃の噛みあう音が湧き、青い火花が水を撒くように闇に散る。 「チェェーイ」  体がぶつかりあう重い音がひびき、夜目にもしろく、砂塵が舞う。  亮助は、刀も抜かず塀に背を押しつけていた。そのまま闇に溶けこみ、誰にも気づかれないでいたいと願う。  だが、一瞬に彼の逡巡は消えた。敵の群れが壁のように迫り、彼をこの世から抹殺しようと、斬りつけてきたからである。  亮助は人を斬った経験がない。とっさに逃げようとするが、敵は前に半円をえがいて取り巻いていた。  彼は、夢中で刀の柄に右手をかけると、スッパ抜いた。逆上して自分がなにをしているのか分らないままに、正面から袈裟がけに斬りこむ敵の刃を避け、刀を左方から右ヘ力まかせの片手打ちに振った。  何の手ごたえもないのに、水の噴きだすようなおそろしい響きがきこえ、相手の体が亮助にもたれかかってくる。 亮助は必死に体当りで突きのけ、前へ出る。またあらたな敵の自刃が、鼻さきにのびてきた。
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■突然の夜襲にただ一人の生存者となった

<本文から>
「チェェーイ、チェェーイ」  彼は、すさまじい寄せ足で、敵中に斬りこんでゆく。  ガンドゥの光りの棒が迫ってきたが、いりみだれる人影と、たちこめる挨にさまたげられ、亮助をとらえられない。 「チェーツ」  亮助は敵の背中を撫で斬りにし、ふりかえろうとしたところを、突いてきた剣尖に袴をやぶられ、片手なぐりに敵の頭を払ったが、空を斬る。  亮助の打ちこみをはずした敵が、平衡を失い、もたれかかる形で肩先から体当りしてきた。  亮助ははじきとばされ、土塀に体をうちあてる拍子に、足が苗に浮いた。体がくぼみに落ちこみ、駆け寄ってくる敵の騰が眼のまえにみえた。  彼は本国寺塀際の溝にころげおちたのに気づいた。手をついておきあがろうとして、なお一段と低いくぼみに上体を落ちこませる。 「これは何だ、水門か」  頭上かち自刃を突きこまれ、膝のあたりに激痛が走った。  亮助は、夢中で凹みに這いこみ、敵を避ける。 「どこへいった。見えぬぞ」 「このなかじゃ、ガンドゥを持ってこい」  頭上で叫び声が飛び交い、辺りがほのあかるくなった。  亮助は自分が上体をおちこませている穴を探り、排水の会所であると知った。会所へは、塀のうちからも下水溝が通じていた。 (よか、この溝を伝えば塀のうちへはいこめっど。天の助けじゃ) 彼は抜き身を手にしたまま、会所のなかにもぐりこむ。 「どこじゃ、どこへいきおった。塀の内じゃ、乗りこえてなかへ入れ」  亮助は怒号を聞きつつ、四つん這いで溝にもぐりこむ。  頭をあげると、ひろい境内であった。彼は溝から飛びだし、本堂裏手へまっすぐ走った。  敵は追ってはこなかった。城川へ出て、橋を渡ったとき、うしろに人声が聞えた。亮助はそのまま裏通りへ身をかくした。  亮助は、その夜襲われた三人のうち、ただ一人の生存者となった。彼は今出川屋敷へたどりつくなり、加勢をともない、本圀寺まえにひきかえしたが、高崎と菊次郎は鱠のように斬られ、とどめを刺されていた。
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■人生が死によって一幕芝居にすぎないと知った

<本文から>
 家中の秩序に従順にしたがい、一命をなげだし奉公する者でなければ、人間ではなく鳥けものにひとしいというのは、為政者の手前勝手ないいぐさである。  西郷、大久保、吉井、岩下など、軽輩から出て、藩の運命を左右する力をあらわしている人々は、苛酷な環境を耐えぬいて現在の境遇に立ちいたった強者であった。  亮助は儒者が嫌いであった。西郷たちは薩藩に日本の支配権をもたらすために、あらゆる術策を弄していた。目的のために手段をえらばないのである。  亮助には、功名心がなかった。出世したところで、人はいつ死ぬかも知れない。天災、病、不慮の事故、あるいは斬りあいによって、人生の終蔦をむかえねばならないときが、いつであるか、誰にも分らない。  死ねば、他人をおしのけ、おとしいれ、打ち倒して手にいれた特権、地位は、たちまち無意味なものになってしまう。  亮助が人生が死によって締めくくられる、あっけない一幕芝居にすぎないと知ったのは、十五歳の夏であった。  彼は桜島の灰が眼路を覆って降っていた、暑い七月のさなか、千石馬場郷中の学舎で、朋輩の十三歳の少年にいきなり脇差で斬りかかられた。  右のこめかみから頬へかけ、氷でこすられたような痺れる感触が走り、亮助はおどろいて身をかわし、逃げた。  彼は思わず逃げつつ、敵にうしろをむけてはいけないという郷中掟を思いだし、むきなおる。追ってきた少年が、斬りつけようと刀をふりかぶったとき、亮助は無意識にまえへ出て、抱きとめた。  彼は脇差をふりまわす相手を組み伏せ、刃物をとりあげる。周りをとりまいた少年たちが、亮助をみて指さしざわめいていた。  立ちあがると、誰かが、「血が流れおっ」と教えた。亮助は胸もとをみると、白餅が赤黒く染まり、彼は笑いつつそれをしぼる。血が滝のように流れ落ちた。  いさかいは、剣術稽古の順番をあらそう、些細なことから起った。恥ずかしめられたときは、死をもって恥をつぐなうという観念が、少年のあいだにもゆきわたっていて、亮助は斬りつけられた。  駆けつけた蘭方医は、亮助の傷をみて、もう一分(三ミリ)ほど脇へ寄っておれば、脈を切られ命がなかったと告げた。  そのときから、亮助は命のはかなさを思うようになった。どうせみじかい命であれば、気に染まないなりわいをして、日を送ることはなかった。 「小花、俺はやいたか事をなして、行き詰っときゃ、死ぬ。死ぬときゃ、お前も道連れじゃ」  小花は、亮助の胸のうちで、うなずく。 「私は、いつなとお伴しますえ」
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■高崎の仇を討つ

<本文から>
「渋茶を呑みつつ、しやべっているとき、西田は背後に足音を聞いた。 「なんだ」  ふりかえったとき、襖があいた。  西田は懐から短銃を抜き、手に持っていた。背から外光を浴びて立っている男の顔を、たしかめる。  伊集院だ、と思ったとたん、彼は顔から胸へ火柱の走るような衝撃をうけ、のけぞった。鼻孔に血潮があふれ、息ができないとわずかに思いつつ、彼はそのまま無明の闇へ沈んでいった。  ほのぐらい座敷の敷居際に左膝をつき、返り血を頭から浴び、西田の額から胸へふかく斬り下げた刀を、頭上に鳥居に構え、残心構えを示しているのは亮助であった。  彼の右肩の袷が焦げ、肩の肉がわずかにえぐれて血を噴いている。西田がいまわのきわに放った短銃の弾丸が、かすったのである。 「よくやったぞ。一太刀で息の根をとめたな。とどめを刺すこともあるまい」  後ろからついてきた益満が銃を置き、刀を抜きはなった。  彼は、座敷の隅に身を寄せあうようにしている二人の同心に声をかける。 「ご貴殿がた、拙者どもとお相手願えようか」  恐怖に眼をみはった同心たちは、わずかにかぶりをふった。 「ふむ、腰抜けいぬが。ならば奉行所へ立ち帰り、奉行殿に申すがよい。元薩州藩士西田郁太郎は、幕府に寝返ったる不忠者ゆえ、浪士組有志が討ちとったとな」  その夜、亮助は気がたかぶって眠れなかった。弾丸は彼の肩をかすっただけであったが、狙いがわずかに違えば頭蓋を粉砕していたわけである。  彼は小花を抱きしめ、終夜眼ざめたままでいて、あけがた酒を呑み、ようやく眠った。いったん眠りこむと、泥のような睡気が押しよせてきた。  高崎の仇を討った安堵のおもいが、全身にたまった緊張を解きほぐしていた。翌日の夕刻まで眠り、めざめると肩の傷は、血がとまっていた。 「小花、これで俺の侍稼纂は終りにするぞ。刀を使うのは、もういやだ。いつまでもこんなことをしてはおられぬ」 彼は、いつわが命を失うかもしれない危険に、身をさらす愚かな行いを、くりかえすのは嫌であった。
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