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<本文から>
「何や、何かあったんか」
角野がたずね、一人が答えた。
「いま日直当番の五年生が、えらいこと教えてくれたんや。和中第一中隊、第二中隊あわせて四百名は、三つに分割されるらしいで。播磨造船へ行くものと、大阪の藤井寺にある飛行機部品の工場へ行くもの、川崎航空へ残る者に分けられるそうや。ここに残る者は、百人ほどになるらしいで」
皆は、その噂に衝撃をうけていた。誰もが川崎航空機での生活に飽きはてていたので、いきなり降って湧いたような配置転換の諸に、魅力を感じていた。
「大勢でいてるよりも、小人数で働くほうが家族的でええわなあ。教師の取締まりかていまよりきつうないやろし、囲ももっとええかも分らんで」
「それや、その餌のことやけど、造船会社の配給は特別ええんやてなあ。川崎みたいに食堂がピンハネして、豚の餌みたいなもの食わすとこから見たら、天国みたいらしいで。わいら、そこへ働きに行きたいなあ」
例によって、さまざまの憶測が皆の間で行われていた。誰かがいった言葉が、私を刺した。
「五年生の首謀者とみなされる連中は、退学のかわりに、満鉄社員として働きに行かされるらしいで」
私たちは不安のうちに日を過ごした。さまざまの憶測が皆の間を流れた。工場内の各職場で、和中隊の生徒は白眼視されることがいよいよはなはだしく、愛国者ぶった伍長に鉄拳制裁をくらう者さえ出る有様であった。
十月になると、はやくも和中隊への処分が行われた。脱走の指導者とされた者のうち高田は残されたが、他の十数人は和歌山中学校を中途退学のうえ、満鉄見習社員に採用され満洲へ出発した。
第一中隊、第二中隊四百名のうち、陸海軍学校へ合格した五十数名の生徒は、いちはやく自宅待機するため、和歌山へ帰された。
残りの人数は、噂の通り播磨造船と大阪の部品工場にふり分けられる者が選別され、二百数十名が玉津寮を去っていった。
明石に残留する生徒は、わずかに八十数名となった。私たちは空部屋のつらなる層内で、なるべく蚤のすくない部屋をえらび、毎晩好みの場所で寝た。
まもなく、工場側から動員学徒に対する取締り規則の変更が発表された。その内容は、従来まったく認められていなかった、郷里の父母との寮における面会を許可し、毎日曜日の自由外出を許可するり夕食後の内務規則の緩和、の三点であった。 |
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