津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          荒ぶる波涛 幕末の快男児 陸奥陽之助

■武士としての基本を受ける前に放逐されたので儒学者を目指した

<本文から>
 小次郎は伊達家が改易となったのち、藩校の正規の文武両道の学習をうける機会を失った。紀州藩では武士の子弟は、六、七歳の年頃になると、漢籍の素読、習字を学び、水泳、槍術、弓術、馬術、射撃術を藩校の師範について学ぶ。
 十歳になると、寒稽古を早朝からおこなう。小次郎は武士としての基本となる本格的な学習をうけるまえに、和歌山城下から放逐された。彼はその後、手当たりしだいに書物を読みあさり、独学をしてきた。
 そのため、ひとりで物事を判断し、ひとりで実践してゆく経験をかさねた。彼は痩せていたが背が高く、相撲を得意として、腕力のつよい巨漢を相手にしても、めったに負けない。
 だが剣術は、技の伸びざかりの年頃にまったく修練の機会を得られなかったので、十五歳から学んでも上達は望めない。武芸とはそういうものである。
 剣術には送り足というものがある。右足を前に出し、左足をうしろに引き、右半身になって刀を構える。その姿勢を兵字構えというが、それを崩すことなく前進後退、左右への移動、敵への迅速な打ちこみ、敵刃をはずして大きく退く動作は、十歳の頃に身につけた者と、十五、六歳で稽古をはじめた者をくらべると、その差は剣術者であればすぐに見分けられる。
 前者の動作はなめらかで自然におこなうので、身についている。後者のそれはどれほどの鍛錬をかさねても、どこかぎこちないのである。
 小次郎は芝二本榎の高野山出張所に数カ月滞在したのち、市中で漢方医のもとに住みこみ、薬局で薬草を刻む。また学僕となって学塾に住みこみ、学生たちに書物を筆写する筆耕をして生活費を稼いだ。
 小次郎は、徳川幕藩体制が衰えたとはいえゆるがない階級制度を組みあげているなか、なんのうしろだてもないなかで権力の中心へ近づくためには、儒学者になるほかに道はないと考えていた。
 貧窮のなかから身をおこし、幕閣の頭脳として威勢をふるった儒学者には第六代将軍家宣に仕えた新井白石、第八代将軍吉宗に仕えた荻生阻彿がいる。 
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■敵が斬りつけるより早く逃げて白刃をくぐり抜ける

<本文から>
 幼時から独学をかさね、孤独の思索に慣れている小次郎は、単純に尊攘運動に入りこんでゆき、騒動をおこしては飯の種にする、いわゆる勤皇屋とはまったく違う喚覚をはたらかせつつ、志士の生活へ慎重に歩み入った。
 「俺はいつでも、算盤勘定をしてる。前途の深い霧のなかを手探りして歩くのや。うっかりして、這いあがれんような穴へ落ちこんだら、それでおしまいや。父上は藩のために縦横にはたらいていたが、急に改易され、辛酸をなめさせられた。俺はいつでも天下の形勢を見ながら、危ない橋は渡らんことにする。武士らしくない、勘定高い男やといわれても、きっと昔の伊達家の隆盛を取り戻すのや」
 小次郎はその頃から、きわめて武士らしくない、身を守る法の鍛錬をはじめた。
 彼はそれを隠さず、友人たちに語った。
 「俺は父上が改易されたので、武芸の稽古をしておらぬ。紀州藩の学問所では、国学、蘭学、天文、数学の教場があった。軍学所もある。
 剣術は田宮派抜刀術、新陰流、柳剛流などいろいろの流儀が稽古できる。しかし俺は十歳で城下を放逐されたから、いまさら剣術の稽古をはじめても、実地に役に立つほどの技を身につけるには、年が年やさかいむずかしい。これから尊攘運動に身を投じたときは、自刃の下をくぐることがかならずおこる。
 そんなときにどうすればええか。俺は考えたあげく、ひとつの方策を思いついた。
 その場にいた志士たちは、身を乗りだして聞く。
 「刀を使うほかに、襲ってくる敵から逃れる方策とは、どのようなものだ」
 小次郎は笑みをうかべていった。
 「斬られまいと思うなら、もっともたしかなのは、敵が斬りつけるより早く逃げることだ。車馬雑踏のなかを、うまく身をかわしながら、誰も追いつけないほど早く走り抜けるようになれば、非常のときの役に立つというものだ」
 志士の一人が嘲るようにいった。
 「そうか、それで分かった。近頃、君が浅草あたりの車馬の混みあう往来で、狂ったように雑踏をかきわけ、すり抜けて走っているのを見た者がいた。そういうわけか。しかしそんなくだらないまねをして、非常の場合に何の役にたつのだ」
 小次郎は答える。
 「君はひとつ俺と喧嘩をしてみんか。だんびらを抜いて、かかってくるがいい。俺は見事な逃げっぶりをしてみせるよ。刀で斬りあってみろ。相手に殺されないまでも、手足が不自由になったり、指をもがれたりしかねないんだ」
 血気さかんな志士たちは、小次郎のいうことに、共感しなかった。
「もっと大胆になれ。そうでなければ、尊嬢浪士として立派なはたらきができないぞ」
「そうだ、命を捨てなければ大事をなし遂げられないのだ」
 いつでも命を捨てる覚悟があるといきまく、血気の志士たちのなかで、日頃から小次郎と仲のいい長州藩の伊藤俊輔だけが、いった。
 「俺は小次郎の意見に賛成だよ。尊攘の大事をなし遂げるためには、生きていなければいかん。大義の捨て石になるといえば、いさぎよく聞こえるが、死ぬ者貧乏という諺があるだろう。
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■父兄が帰参し活躍する情勢変化があっても帰藩しなかった

<本文から>
 このような情勢のなかで、紀州準王徳川別離は京都に出て、将軍のもとに伺候した。粟田口の伊達宗広のもとに帰っていた宗興は、帰参を求められた。宗広もともに帰参させるというのである。
 朝廷とのつながりのない紀州藩は、中川宮に出入りを許され、一時は用人をつとめた宗興を、外交方として用いようとした。宗興は旧知行三百石を与えられ、活躍の場を得た。
 小次郎は父兄の吉報を耳にしても、和歌山へ帰藩するつもりはなかった。
 「紀州家の家来に戻って、家中のしかるべき家に養子に入ったとして、おだやかな暮らしがいつまで続くか分からん。イギリスは償金の払いが遅れたら横浜を占領するが、陸へあがったら、侍が二百万もいてるさかい、鉄砲、大砲だけじゃアヘン戦争のときのようにあっさりとは片づかん。
 外国人共もそれを知ってるさかい、できるだけおだやかに事を進めたいと思うてる。攘夷派は、幕府を潰して、三百諸侯が一致協力すれば、イギリスも怖れるに足らぬ底力が、神国日本にはあると信じておる。幕府は外国の力を借りても攘夷派を討ち滅ぼし、開国したい。外国人と通商交易したら、けっこう金が儲かるさかいのう。
 摸夷派は、なんとしても幕府を潰したい。この先はどうなるか、見当もつかん。」
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■龍馬との出会い

<本文から>
 龍馬が伊達家をたずねてきたのは、伊達宗広が本居大平の直弟子で国学にくわしく、歴史学者としても高名であることを知ったためであった。
 龍馬がきたとき、宗広は外出していた。宗興も紀州藩邸へ出かけていて、留守であった。妹の初穂がいった。
 「あいにく父も兄も他出しております」
 龍馬は笑顔をむけた。
 「江戸の昌平コウにいたという、小さい兄さんも、留守ですろうか」
 龍馬は伊達家で二十歳になった小次郎が、まだ小さい兄さんと呼ばれているのを、耳にとめていた。
 「小さい兄さんは在宅でございます」
 「そんなら、ちと話ばあしたいと龍馬がいうちょると、伝えて下さるろうか」
 「ちょっとお待ち下さいませ」
 初穂が立つと、その背中越しに小次郎が顔をのぞかせた。
 「坂本さん、よくおいで下さいました。私でよければお話相手にならせていただきます。どうぞおあがり下さい」
 「それはありがたい。ちくとしゃべらせてもらうぜよ」
 龍馬は小次郎に案内され、梯子段をきしませて昇り、天井の低い六畳間に体を縮めるようにして入り、座布団にあぐらをかく。
 「龍馬さんは背が高いですな」
 小次郎がいうと、龍馬は陽灼けした頼をゆるめた。
 「ほうぼうでいわれるき、高いことは高いが、六尺にちくと足らんほどぜよ。お前さんも高かろうが」
 小次郎ははじめて会う龍馬が、これまで会ってきた土佐藩士や撰夷浪士とちがい、殺気をあらわに感じさせようとしたり、こちらの様子をうかがう暗い気配を身辺にただよわせたりしていないのを感じとった。
 これまで二階にあがったことがないのに、住みなれた自分の部屋にいるようにくつろいでいた。
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■上海へ往復するうちに、日本という島国につなぎとめていた眼にみえない鎖が断ち切れた

<本文から>
 胡蝶丸で上海へ二度の航海をした小次郎は、はじめて海外の大陸の空気を呼吸した。揚子江は海のように広々として、黄色に濁っていた。呉松江という支流に入り、碇を下ろす。
 江岸にはガス灯が立ちならび、通信に用いる電線が架設されている。なめらかな道路の両側には街路樹がつらなり、欧米諸国の官庁、邸宅の高層石造住宅がならび、国旗をひるがえしている。
 波止場には荷物陸揚げ用の軌道があった。夜になると、地中に管を埋めてガスを導くというガス灯の明るさに、おどろかざるをえない。五十匁、百匁蝋燭の比ではなかった。
 欧米人の居留地は整然と街路がととのっていたが、清国人の住む城内に入ると、景観が一変した。
 城門には「藩兵」という文字を染めぬいた服を着た兵隊が、立哨していた。城壁に、槍、小銃などの武器を立てつらねているが、兵隊の動作が緩慢で威勢がなかった。
 表通りは石が敷かれているが狭く、汚水がほうぼうに溜まり、あきらかに糞便とわかる異臭がただよっている。
 道に面した商店は二階建てであるが、軒が頭につかえるほどで、間口も狭く、飲食店では店頭でさまざまの動物の肉を煮炊きしており、糞便のにおいと混じった悪臭を、さらに濃くしていた。
 役人が多数の兵隊をひきつれ、市中巡見にあらわれたのを見ると、軍服をつけている者はわずかで、おおかたは、ボロをつづった雑巾のような上衣をつけていた。
 欧米人は、清国人を使役するとき、牛馬を扱うように鞭で殴りつける。清国人はそうされるのが当たりまえと思っているのか怒りもせず、小次郎たちを見ると小銭を恵んでほしいと、ひたすら哀願した。
 上海へ二度往復するうちに、小次郎の内部で、彼を日本という島国につなぎとめていた眼にみえない鎖が断ち切れた。彼は龍馬にいった。
 「上海の風に吹かれたら、胸のなかがカラッとするような気がします。湿りけが吹き飛ぶように思うのは、大陸にきたからでしょうか」
 龍馬はうなずいた。
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■上杉末次郎が切腹させられた後は龍馬が戻るまでは社中から離れ安全を確保した

<本文から>
 このような変動の最中、陽之助の名は慶応二年の社中書類にまったく名をあらわさなかった。そのあいだ、彼が社中を離れ独立行動をとっていたであろうと想像できる。上杉末次郎が切腹させられ、苦悶のうちに死んでいった有様を見た陽之助は、いつか自分も社中盟約に違反したとして、自害させられる陥し穴に落とされるにちがいないと直感したのである。
 それで上京した龍馬のあとを追い、彼の留守中は社中を離れ、単独で生活をする許可を求め、許された。無断で社中を脱退すれば、盟約違反の罪に問われるためである。
 龍馬は社中同志の内部にひそむ、激しい競争意識、排他性を知っていた。上杉末次郎は土佐藩の上土でも下士でもない。饅頭屋の息子である。だがその学才は他をぬきんでており、グラバーともっとも親密であった。そのため、同志たちの嫉みをうけていた。
 陽之助も社中の異分子であった。彼は紀州藩の元執政の息子であるが、長い年月を苦難のうちに過ごしたので、武士にふさわしくない要領のよさが身についていた。神戸海軍塾にいた頃から、龍馬の庇護がなければ塾生の誰かに斬られていたかもしれない。
 陽之助はそのため上杉が切腹させられたあと、事情をただちに龍馬に告げ、龍馬が戻るまで社中から離れて、単独で行動する了解を得たと推測される。
 社中にいるあいだに、陽之助の悪評はいくつか残されていた。彼は社中で用いる自分のふとんをつくるため、木綿布は買ったが、ふとん綿を買う金がなかったので、長崎市中の綿屋に命じた。
 「社中で航海のときに使うふとんを新調しなければならない。ついては見本の綿をとどけてもらいたい」
 陽之助は届けられた各店の見本の綿から、ひとつかみずつ抜きとって返し、ふとんをつくるだけの綿を集めた。
 また市中の料理屋へ出向き、店頭に置かれていた鯛の煮つけの裏側の半身を、人目につくことなく食べてしまう。買い物にゆくとき、財布の下のほうに天保銭を入れ、上には銀貨を入れて、中ほどを紐で縛り、店の者の前に投げだして上客の扱いをうける。
 どれも生活の余裕のなさがうかがえる、自慢にもならない挿話であったが、社中同志はそのような陽之助のふるまいを、本気で憎んでいた。
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■英語を習得しヨーロッパの旅に出た

<本文から>
 陽之助は、社中を離れて自活するため、長崎のアメリカ人宣教師のもとにボーイとして雇われ、その妻から仕事のあいまに英語を学んだ。彼は数カ月のあいだに、読み書き、会話の基礎を覚え込んだ。彼は五代才助が英語を流暢にあやつり、グラバーの信頼を得ているのを見て、英語を修めなければ今後の発展はないと見ていた。
 そのあと、彼はイギリス帆船に船員として乗り組んだようである。英語をさらに深く修得するのが目的であったのだろう。
 陽之助は数学に明るく、測量技術において社中同志のなかでぬきんでていた。そのため、イギリス船にたやすく採用されたのである。彼の乗る汽船に、たまたま乗りあわせたのが、薩英戟争ののち五代とともにイギリス艦隊に抑留され、一時ともに関東に潜伏していた薩摩藩医師松木弘庵(のちの寺島宗則)であった。
 松木は五代才助が藩命によって元治二年(一八六五)実行した、欧州留学生十六名を渡航させるための船奉行副役、教育掛として、同年三月ヨーロッパ外遊の旅に出た。
 彼は翌慶応二年五月に帰国した。マルセーユから上海までイギリス汽船で航海し、そこでイギリス帆船に乗りかえた。
 その船に陽之助がいたと、松木は後年、自分の年譜につぎのように記している。(現代文でしるす)
 「マルセーユを三月二十八日に出帆した。上海に到着して、同行してきたイギリス人らと別れ、イギリス帆船に乗りかえて帰国する。航路の日数は五十五日であった。
 幕府は海外への密出入国は禁じているので、出発のときは薩摩藩羽島の浦から出て、帰国に際しても長崎に立ち寄らず、五月二十四日、薩摩阿久根港に上陸した。
 このイギリス帆船には陸奥宗光(陽之助)と薩人林多助がいた。なぜこの船に乗っているのかと聞くと、帆船の操縦法を覚えるためであるといった。阿久根海岸に陸奥は上陸せず、林は二人の薩人とともに鹿児島城下に帰還した」
 このとき、陸奥と松木は面識があったのか、分からない。たぶん初対面であったのであろうが、異境での日本人どうしであり、たがいの身元を明かしあったと想像できる。
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■明治後の波瀾の人生

<本文から>
 陸奥陽之助は、その後、兵庫県知事などの官職を経て、明治三年(一八七〇)九月、和歌山藩欧州執事としてヨーロッパに渡り、三カ月ほど滞在して、ドイツ、フランス、イギリスを訪問した。渡欧の主な目的は、和歌山藩の軍隊教官として、十名内外の士官を招聘するためであった。
 当時、和歌山藩では全国にさきがけて徴兵制を実施し、プロシア陸軍下士官カール・ケッペンの教練によって、「新しいプロシア」といわれるほどの精強な歩、騎、砲、工の軍隊ができあがっていた。
 兵器、装具の製造工場も設けられ、ドイツ公使マックス・フォン・プラント、アメリカ公使デロング、イギリス公使パークスがあいついで和歌山へ視察にきた。
 長州の山田顕義、薩摩の西郷従道、村田新八など、新政府の武官たちも訪れ、注目を集めた。
 陸奥陽之助は新政府の首脳部のほとんどが、薩長出身者で占められている実状に不満を抱いていた。彼はまもなく実施される廃藩置県の際に、武家支配の実権を奪われる諸藩主が叛乱をおこし、第二の維新ともいうべき激動が避けられないと見ており、その際に数万の和歌山藩兵を率い、上京して政治の主導権を握るつもりであった。
 帰藩した陽之助は、新政府からの出仕要請をことわり、和歌山落成兵都督心得となった。だが風雲に乗ろうとした陽之助の夢はやぶれた。
 明治四年(一八七一)七月、新政府が薩摩、長州、土佐藩の兵力を東京に召集し、断行した廃藩置県の処置に対し、全国の諸藩は予想していた抵抗の姿勢をまったく見せなかった。
「新しいプロシア」といわれる和歌山藩兵は、新政府から解散を命じられると、不穏な形勢をあらわす。
 陽之助は八月十二日、戊兵都督の職を辞し、新政府から神奈川県知事に任命され、横浜へ去った。電光石火の変わり身である。
 明治五年六月、陽之助は大蔵省租税頭となり、地租改正にはたらき、まもなく大蔵小輔心得という、局長級の官職を与えられた。
 明治七年、彼は薩長閥のもとではたらくのを不満として、時勢を批判する「日本人」と題する論文を木戸孝允に提出し、辞職した。
 明治八年四月には、新設された元老院議官としてふたたび政府に出仕した。このとき陸奥は陽之助を改名して、宗光と称した。元老院とは、のちの貴族院のことである。
 だが、彼は西郷隆盛の率いる私学校生徒がおこした、明治十年(一八七七)の西南の役に際し、土佐立志社有志らの政府転覆計画に荷担した事実があらわれ、除族のうえ禁鋼五年の刑をうけた。
 宗光の反骨は、なお稜々たるものであった。山形監獄、宮城監獄に在獄のあいだに、宗光は学問に励み、イギリスの法学者ベンサムの「立法論」などを原典により読んだ。
 明治十六年(一八八三)一月、宮城監獄を特赦の恩命によって出獄した陸奥宗光は、翌明治十七年四月に横浜から汽船でヨーロッパへ出向き、ウィーン、ロンドンで二年間、憲法、国際法について学んだ。それは旧友伊藤博文の尽力によるものであった。
 明治二十一年(一人八八)、駐米公使となった宗光は、着任の半年後の同年十一月に、メキシコとのあいだに、わが国で最初の対等条約である、修好通商条約を結んだ。
 明治二十三年、宗光は第一次山県内閣の農商務大臣となり、第一回総選挙に和歌山県から当選。明治二十五年三月に免官、枢密顧問官に任ぜられたが、八月に外務大臣となった。宗光はカミソリといわれる手腕を発揮して、幕末に結ばれた不平等条約の改正に尽力、日英通商航海条約を調印し、治外法権解消の成果をあげた。
 さらに日清戟争、独仏露の三国干渉に際する外交交渉にめざましい成果をあげたが、宿柄の結核のため、明治二十九年(一人九六)五月に外務大臣を辞職し、翌年八月、五十四歳で世を去った。
 陸奥宗光の生涯は、あいついで押し寄せる怒涛を、扁舟を操って乗りこえてゆくような、波潤に満ちたものであった。
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