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<本文から> 小次郎は伊達家が改易となったのち、藩校の正規の文武両道の学習をうける機会を失った。紀州藩では武士の子弟は、六、七歳の年頃になると、漢籍の素読、習字を学び、水泳、槍術、弓術、馬術、射撃術を藩校の師範について学ぶ。
十歳になると、寒稽古を早朝からおこなう。小次郎は武士としての基本となる本格的な学習をうけるまえに、和歌山城下から放逐された。彼はその後、手当たりしだいに書物を読みあさり、独学をしてきた。
そのため、ひとりで物事を判断し、ひとりで実践してゆく経験をかさねた。彼は痩せていたが背が高く、相撲を得意として、腕力のつよい巨漢を相手にしても、めったに負けない。
だが剣術は、技の伸びざかりの年頃にまったく修練の機会を得られなかったので、十五歳から学んでも上達は望めない。武芸とはそういうものである。
剣術には送り足というものがある。右足を前に出し、左足をうしろに引き、右半身になって刀を構える。その姿勢を兵字構えというが、それを崩すことなく前進後退、左右への移動、敵への迅速な打ちこみ、敵刃をはずして大きく退く動作は、十歳の頃に身につけた者と、十五、六歳で稽古をはじめた者をくらべると、その差は剣術者であればすぐに見分けられる。
前者の動作はなめらかで自然におこなうので、身についている。後者のそれはどれほどの鍛錬をかさねても、どこかぎこちないのである。
小次郎は芝二本榎の高野山出張所に数カ月滞在したのち、市中で漢方医のもとに住みこみ、薬局で薬草を刻む。また学僕となって学塾に住みこみ、学生たちに書物を筆写する筆耕をして生活費を稼いだ。
小次郎は、徳川幕藩体制が衰えたとはいえゆるがない階級制度を組みあげているなか、なんのうしろだてもないなかで権力の中心へ近づくためには、儒学者になるほかに道はないと考えていた。
貧窮のなかから身をおこし、幕閣の頭脳として威勢をふるった儒学者には第六代将軍家宣に仕えた新井白石、第八代将軍吉宗に仕えた荻生阻彿がいる。 |
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