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<本文から> 武田勝頼は、戦況偵察において、家康に常に一歩を先んじられていた。大井川の氾濫により足どめを余儀なくされた勝頼は、わが武運のつたなさを嘆いたが、彼の耳目となる細作の動きが、徳川の諜報組織に先に探知されているので、家康に遅れをとるのはしかたがなかった。
甲府における武田家中の規律は乱れていた。勝頼の寵臣長坂長閑、跡部大炊助が、国法、軍法をまげているためである。
天正六年(一五七八)に高坂弾正が病死してのち、勝頼は二人の意見に動かされ、不公平な政事をおこなうようになった。
甲府で孕石忠弥という豪強の名のたかい侍が、成敗されたのも、とるにたらない過失を咎められてのことであった。
忠弥は甘利二十人衆の追捕をうけ、ただひとりで戦い、三人を死傷させて斬られた。家中の侍たちは忠弥の死を惜しんだ。
「あれほどのはたらきをする者を、陣場で失うはやむをえぬが、わずかの咎で成敗するとは、殿のお心得違いだずら」
信玄在世の頃、奥近習衆六人のうちにとりたてられ、重用されていた曾根与一助という侍も、とりたてていうほどでもない落度を咎められた。小山田八左衛門、初鹿野伝右衛門が討手となり、曾根の屋敷へ押しかける。
与一助は屋敷にとじこもり、若党、中間らとともに刀槍をとり、最後の抵抗をしたのち討ちとられた。彼が成敗されたのは、長坂、跡部と日頃から不仲であったためである。
長坂、跡部は、家中の訴訟公事を裁定するにあたって、謝礼の額に左右され、不公平な判断をすることも多かった。
長坂らは、富裕な当事者の裁判にあたっては、簡単に決着がつくようなことでも悶着をかさね、不要な謝礼を取ろうとはかった。
理非を無視して、礼物を多くさしだした者を勝訴とするのである。
彼らは、富裕な百姓町人を屋敷へ出入りさせ、近習、物頭衆が知らないような軍事の秘密を、得意になって教えてやった。秘事を聞いた百姓町人は、たちまち仲間にしゃべりちらす。
御館のうちで、重臣のみを集めての秘密の軍議の内容が、翌日には甲府の柳小路、連雀町、三日市、八日市などの町々で噂となってひろがった。
家康が勝頼の行動をいちはやく偵知し、敏速な対応ができるのは、武田の軍機が洩れつづけているためであった。家康は常に北条氏政と連絡をとりあい、東西から勝頼を牽制する作戦をおこなった。 |
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