津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          暗殺の城・上

■信玄も落城させられなかった小笠原長忠の高天神城

<本文から>
 武田勢は、塩男坂本陣からなだれるように迫ってくると、突撃せず静かに押し寄せてきた。
 小笠原右京は、旗差物を薄のようになびかせ、野を埋めて近づく武田勢を前にして、三度輪乗りをしたのち、味方に告げた。
 「化粧戦の繰り引きというは、このことぞ。いまここにて強みをあらわし戦ったなら、二万を超える敵の大軍に、城へつけ入られるずら。いまただちに、手早く引き揚げざあ」
 右京は退却の途中、城方の若侍たちが山蔭の切所に折り敷き、槍衾を立て、左右の高所に弓、鉄砲衆をひそませ、武田勢を追いはらおうとしているのを見て、怒って采配を振った。
 「なにをしているんだ。ここは手早く引きとるが手柄だに」
 古参の侍たちも、声を嗄らして味方に退却を促した。
 武田先手の将、内藤昌豊は、小笠原勢の進退の巧みさを褒めた。
 「あの采配は、敵ながら天晴だらず。われらが手のうちを読みとりしか」
 甲州勢の三段備えは、頭を打つときは尾が後ろへまわり敵の退路を断つ。尾を打つときは頭が噛みついてくる。
 中段を打てば先手は後ろへまわり、後備えは敵を横撃する。このため、兵力に劣る敵が誘いこまれたときは、蜘蛛の巣にかかった羽虫のように、動きのとれないまま武田勢の好餌となるしかない。
 武田先手の部隊は、高天神城大手惣門の前に押し寄せ、鉄砲を放ち、三十匁玉筒で柵門を撃ち砕き、硝煙の静まらないうちに繰り引きの態勢をとり、引き揚げていった。
 高天神城の士卒は、険しい山肌の曲輪に布陣しているので、惣門の辺りに銑砲撃をうけても痛棒を覚えず、高所から遠矢を飛ばし、大筒を撃ちかけ、敵を悩ませた。
 彼らは武田勢の旗差物が退いてゆくのを見ると、きおい立った。
 「あれを見よ。甲斐の奴輩が退いていくぞ。俺たちの矢玉を受けて、城際に居らんねえから、逃げていくんだ。追いかけて、皆殺しにしてやらざあ」
 若武者たちが柵をひらき、追撃しようと馬首をそろえたとき、本丸から城主長忠の使番が走ってきて、押しとどめた。
 「塩買坂にいた武田の総軍勢が、坂を下って国安村まで、五十町ほどのあいだを、打ちつづいて屯しているんだ。いま先手の人数が逃げたからといって追いかけりや、武田は総攻めをしかけてきて、城に付け入られたらおしまいだ。まずは敵を見送り、引きとらせるがいいら」
 城兵はやむなく動きをとどめ、内藤隊が整然と繰り引きをおこないつつ退却してゆくのを、見送った。
 国安村に本陣を進めていた信玄は、城兵の手堅い守備を見て、褒めた。
 「こなたより退いてやれば、押し出てあとを追いたきものずらい。それをせざりしは、与八郎もなかなかの器量者だらず」
 小笠原長息は、城を包囲する武田勢と対時するうち、軍評定をした。諸将はさまざまの戦法を提案する。
 「夜中に一手が瑞手口から萩原の峠を越、え、大谷口から大板村の西へ出て、浜松から徳川の後巻きの人数がきたように見せかけ、ときの声をあげる。また東からも一手を進め、掛川城からの援兵と見せかけ、夜討ちをかけりやあ、あやつらはうろたえるずら」
 小笠原長忠は、城外へ兵を出し、鉄砲を撃ちかけ、伏兵を置き、武田勢にゲリラ攻撃をしかけようとした。
 だが信玄は長期の攻囲をせず、まもなく内藤昌豊を高天神城の押えとして残し、本隊を引き揚げた。武田勢は掛川城、久野を包囲する態勢をあらわしたが、攻撃することなく、天竜川東岸沿いの道を北上した。
 飯田、天方、秋葉山、光明山、只釆、鍵掛山の諸城に兵を入れた信玄は、信州伊奈に退去した。
 信玄が高天神城攻略を断念したのは、険阻な山城に拠る小笠原勢に老練な武者が多く、無理に我責めをしかければ、甚大な損害をうけると判断したためである。 
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■三方原の戦い

<本文から>
 徳川右翼の酒井忠次隊が、むかいあう馬場隊に突撃すると、徳川全軍は槍先をつらね敵に襲いかかった。
 法螺貝、押し太鼓の音が、耳を聾する城声に消され、両軍の人馬は地響きをたて、入り乱れ荒れ狂う。
「信玄の首をとれ。余の首はいらぬだわ」
 小笠原長息、大須賀康息、本多忠勝らが馬上で長槍をふるい、武田の備えを二段まで撃ちやぶった。
 彼らは敵の驚武者と出会えば、まず槍をふるってその宵を殴りつける。鞍上から転げ落ちる者は串刺しにして、馬蹄にかける。落馬しないまでも、体勢を崩せば、たちまち脇腹をひと突きにする。
 徳川勢は日頃から武田驚軍団の猛威を畏怖しており、決死の覚悟をきめていたので、戦闘がはじまると、かえって士気さかんとなった。
 徳川勢は信玄の旋旗をめがけ殺到し、そのいきおいはとどがたいほどに見たが、武田旗本本陣勢五千人の逆襲をうけると、戦勢が逆転した。
 まず酒井忠次隊が、隊形を崩し潰走すると、武田勝頼隊と甘利小荷駄衆が、家康本陣を左右から襲った。
 織田の援将佐久間信盛は、かねて信長から命ぜられていたので、武田勢の猛攻をかわし退却する。平手汎秀は、地理不案内のため迷い、三方ケ原西南端の稲葉(浜松市東伊場)で、三百人の部下とともに武田勢に包囲され、討死にを遂げた。
 徳川勢は総崩れとなり、家康は旗本衆が懸命に確保している三方ケ原東端を、退却していった。
 家康旗本衆は主君を逃がすため、追撃する武田勢へ斬りこみ、わが身を犠牲とした。家康に物見を命ぜられ、開戦を思いとどまるようすすめ、叱責された鳥居信元も戦死した。
 家康がわずか七、八騎の家来とともに、浜松城に近い犀ケ崖の手前まで辿りついたとき、武田の部将城意庵景茂と玉虫次郎右衛門が攻めかけてきた。
 家康の旗本たちが駆け集まり、敵にあたろうとしたが、矢玉は尽きていた。そこへ浜松城
の留守居をつとめる部将夏目吉信が、三十余人の手兵とともに駆けつけてきた。
 彼は家康の乗馬を浜松のほうへむけ、槍の柄で尻を叩いて走らせ、押し寄せる敵に高声に呼ばわった。
 「われこそは三河守だわ。この首取ってみよ」
 吉信以下、夏目隊の士卒は全滅したが、家康は浜松城へ逃れることができた。
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■長篠の戦い

<本文から>
 当時、勝頼の敗北を諷したつぎのような狂歌があった。
  信玄の後をようよう四郎殿
   敵の勝つより名をば長篠
 武田勢が長篠で失った兵力は、一万人、あるいは一万数千に及ぶなどと、世上に伝えられているが、実際の戦死者は意外にすくなく、千数百人であったという説もある。
 日が経つにつれ、逃げ散った軍兵もしだいに甲府へ戻ってきた。だが、扶桑随一の騎馬軍団を率いる、山県昌景、馬場信春ら指揮官の大半を失ったことが、勝頼に再起不能の打撃を与えた。
 勇将の下に弱卒なしというのは、真実であった。怯儒な兵も、巧みな操兵をおこなう指揮官のもとでは、ふるいたって戦う。
 また、信玄以来、諸国大名に破壊力を怖れられた、武田の威光が地に墜ちたことも、勝頼に深刻な影響を与えた。
 いままで、武田勢に対する敵は、陣頭に立てた孫子の旗を見ただけで戦意を失い、退却した。徳川の士卒は、設楽原合戦で一方的な勝利を得ると、それまで鬼のように怖れていた武田勢の意外な脆さに、拍子抜けがした。
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■父を徳川に殺されたうのの復讐

<本文から>
 牛之助は、宙を飛んで高天神城へ戻り、長忠に援軍到来を告げた。
「こんどこそは、疑いござりませぬ。浜松城外曲輪に、篝火を真昼のように焚いて、幾千の軍兵が合戦支度をいたしおりました」
 だが、結局救援の軍勢はあらわれず、小笠原衆は見捨てられた。
 牛之助は、偽りをかさねた家康に背かなかったが、家康は自らの恥多い半面を知られた牛之助を、生かしてはおかなかった。
 忍びの者の早駆けの速度は、一日四十里(約百六十キロ)である。うのは父の無残な最期を見とどけたのち、小山城へ入り、武田方についた。
 彼女は甲府へむかう山道を、体の重みがない物の怪のような足取りで走る。途中で刀槍を手にした追剥ぎに幾度か出会ったが、彼らはうのに頭を飛び越えられると、胆をつぶした。
「オシラさまじゃ。這いつくばれ、眼が潰れるぞ」
 黒木綿筒袖上衣に黒地山袴をつけ、腰に四角鍔を忍び刀を帯び、手裏剣を巻き、つづらを背負ったうのが、陣笠の下から錐先のような眼差しをむけると、残忍な山賊たちが怯えて腰が抜ける。
 十六歳のうのは疲労を知らない。父牛之助は切腹し、母も自害きせられた。うのだけが単身で浜松城を逃れ出た天涯孤独の身である。
 彼女の胸中には、優しかった父母を死なせた家康への憎悪が燃えあがっている。彼女は四十里の山坂を一昼夜で駆け、甲府に到着した。つつじが崎屋形の門前で急を告げると、番兵はおどろいて主殿へ走りいり、うのは広大な庭園へ案内された。
 勝頼は広い前庭にのぞむ座敷にいた。周囲には数人の小姓が控えている。うのは縁先に膝をつき、陣笠の緒に巻きこんだ密書をとりだし、捧げた。
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