津本陽著書
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          天翔ける和冦(上)

■五峯に雇われた雑賀衆の有能さ

<本文から>
 五峯は亀若たちの規律に従った行動を、注意ぶかく見ていた。
 馬場に着くと、五峯の家来が永楽餞の孔に糸を通し、槙の古木の枝に吊した。糸は一尺ほどで、揺れがとまったのちも、風が吹くと永楽銭は左右に動いた。
 「あれでも打てるかと、聞いてなはるが、気遣いないわのう」
 源次郎が聞くと、若衆のあいだからまばらな笑い声がおこった。
 「源次郎はんが知ってることやのになあ」
 若衆たちは二列横隊に、馬場の一隅に整列し、鉄砲に弾丸硝薬をこめ、糊杖で突く。
 「さあ、一人ずつ射っていけ」
 源次郎がいうと、亀若が答えた。
 「一人ずつやと手間もかかるさけ、十二人ずつ打とかえ」
 亀若の希望に応じ、一町先に杭が二本立てられ、それに渡された横木に、十二個の永楽銭が吊される。
 支度がととのうと、亀若が号令をかけた。
 「前の列、構えてよ」
 声に応じ、前列十二人が、膝台の構えになった。
 鉄砲の火挟みをおこしつつ左膝を立て、火縄を吹いてはさむ。つぎに台尻をとって鉄砲を胸まえによこたえ、右手中指で火蓋をきる。
 「狙うてよ」
 若衆たちは台尻を頼にあて、照準をきめる。
 「放してよ」
 十二挺が同時に轟然と発砲し、黒煙が立ちこめた。
 一町先で、白旗が十二度振られた。全弾命中である。
 五峯たちは溜息をつき、たがいにせわしく話しあっている。
 「後の列、前に出よ」
 後列の十二人が前列といれかわり、亀若の慣れた号令に従い、発射する。
 こんども的をはずした者は、ひとりもいなかった。
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■大明の海賊と格段の力量の差の雑賀衆

<本文から>
  六百人にちかい海賊と敵将沈九を捕虜とした顔思斎は、雑賀衆のめざましいはたらきを褒めたたえ、引出物として海賊船に積んでいた紅糸百斤を与えた。
 亀若は糸箱を受けとり、丁重に礼をのべた。
 「われらはさほどのはたらきもいたさざるに、過分のご嘉賞を頂戴いたし、面目の至りにござりまする」
 紅糸は編んで鎧、兜を綴り、腰腹を束ね、刀帯、書帯、画帯に用いるもので、百斤につき銀四十貫にあたいする高価なものであった。
 維賀の若衆たちは、敵との斬りあいで誰も傷つかなかった。二重に編んだ丈夫な鎖唯子、鎖はばきで身ごしらえを厳重にしているため、海賊どもの刃をうけてもかすり傷をもうけなかった。
 「さあ、もうあと一刻(二時間)もすりゃ、馬蹟潭じゃ。お前ら、それまで休んでよし。祝い酒呑むのもええのう」
 源次郎にいわれ、長蔵が頬をほころばす。
 「それにかぎるのう。酒と肴、持ってきちょう」
 若衆たちは、銃器刀槍の手入れを念入りにすませたのち、棚の床に車座になって坐った。
 唐酒と豚の煮物がはこばれてくると、皆は盃をあげ、戦捷をよろこびあう。
 「大明の海賊ちゅうたら、もっと強かろうと思うたが、こんなものかえ。これやったら何の苦もないのう」
 海賊どもを大太刀で斬りまくった甚与茂が、酔いに染まった顔でいう。
 「ほんまやのう、あいつらは格好ばっかり派手で、刀でも槍でも扱いが手ぬるいわえ」
 金平が応じた。
 海賊にくらべ、若衆たちの太刀さばきは格段に迅速で、斬りあえば力量の差はあきらかであった。
 「和歌にいてたら、唐天竺ていうたて、夢のよなもので、地獄極楽とおんなしよに遠い国やと思うてたけど、こうやってきてみたら、思いのほかに近いわえ。皆の衆よう、こげなとこまで来てみて、よかったのう」
 長蔵がいうと、若衆たちはうなずきかえした。彼らはほどよい冒険の楽しみをあじわい満足していた。
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■亀若らは莫大な利益をあげて帰る

<本文から>
 源次郎は佐太夫と孫一に帰着の挨拶をする。
「若はんと硝石五百斤、おとどけいたしまっさかい、どうぞご受納なはってくだはりませ。また、お預り申した若衆二十五人のうち甚与茂は、烈港と申す島での合戦で、敵の大将と刺しちがえて落命いたしてござります。大事なご人数を損じて、お詫びのしようもござりまへん。若はんはじめ若衆が、合戦の功名によって、五峯大海賊より貰いうけたる褒美は五万両でござりますよし。それは若はんらのお望みによって、すべて鉄と鉛にかえ、船倉いっぱいに積んできたよし」
 孫一は思わず問いかえした。
「源次郎、それはまことかえ」
「まことよし、私の船はもうこのうえ積めんとこまで、荷い積んできたんよし」
 五万両という金額が、いかに巨額であるかは、永禄十二年(一五六九)織田信長が堺の町に二万貫の矢銭献上を命じ、富裕をもって知られる堺の町衆が、いったんはそれを拒絶し、戦をも辞さない態度をあらわしたことによっても、わかる。
 当時は銅銭二百五十匁が銀一両であったから、二万貫は銀八万両に相当する。
鈴木佐太夫、孫一父子は驚嘆した。
「なんと夢のような話じゃのう。大明へいけば、そげな大金が儲けられるんかえ」
「そうよし、そやけど命をば的にせんならんけどのし」
 孫一がふとい笑い声を天井に響かせた。
「命をば的にする値打ちあるのう。それだけ儲けられる仕事ぐちは、日本国にゃないわよ。源やん、金と硝石さえいくらでも手に入るようなら、雑賀衆ほ天下取れるがのう。どうなえ、こんど平戸へ去ぬときゃ、雑賀の若衆をば好きなだけ連れていてくれ。はいて、こんどくるときゃ、十万両も持ってきてくれよう」
 源次郎は腹をゆすって笑う。
「孫一旦那、ほや亀若旦那といまの二十四人の若衆は、皆平戸へ帰りたがってるよって、また連れて帰りますらよし。ほいて、はかに勝手いうて悪りけど、五十人達れていきますで。ええかのし」
「かめへん、どこの親も、息子がびっくらするほど稼いできてくれたら、文句いう奴ないよ」
「ただいうとくけどのし。なんというても海賊商売は、あぶないよし。船一腹沈んだら、皆死ぬよし。大海のなかじゃ、ひとりも助からん。それでもええんやのし」
「かめへんよ。お前の欲しいだけ、連れていちゃってくれ。陸にいてたて、鉄砲玉にも当りや、はやり病いにもかかる。どこで死ぬんも、おんなしことよ」
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■亀若は金儲けより、知らない土地で気楽に暮らしたいと願う

<本文から>
 亀若はかぶりをふる。
「兄さん、儂はのう、また平戸へ戻りたいんや。儂は金儲けもとりわけ考えてないんよ。ただ、遠い他国で暮らすのが、儂の性に合うてるよなでのう」
「そうかえ、ほや、お前の.好きなようにひたらええ。こっちにいてても、紀州で合戦するか、大坂、泉州で合戦するかじょ。大明の海賊相手に戦ひてるほうが、かえって楽かも分らんよ」
 亀若は、未知の土地へむけ、船に命を託して旅立ってゆくときの、すべての係累、生活のくびきから解きほなたれた、自由なかろやかな気分を、味わっていたかった。
 彼は孫一に内心をうちあけた。
「誰も知り人のいてない土地で暮らひたら、ほんまに気楽やよ。おんなし所で何年もいてたら、またいろいろと、うるさいことができてくるやろけど。儂はどこぞ大明の知らん土地へ分けいって、暮らひてみたいのう」                「その気持ちは分かるよ。分かるけのう、亀若よ。お前に天竺か南蛮か大明か知らんが、遠国へ行たきりになられるわけにゃ、いかんのや。お前には平井の城を預けたいと、お父はんはいうてなはるさけのう」
 平井とは、和歌の浦の北方二里半の十ケ郷という土地にある、鈴木の出城であった。
 平井の城に住み、おたよと暮らす、胸をするどく刺すほどの楽しい空想が、頭のなかをよぎったが、亀若はうち消す。
 いまは乱世であった。長命して、楽しい明け暮れを送ろうと考えている若者はいない。誰もが、現在の快楽のみを追いもとめ、明日のことは考えようともしなかった。
「厭離穢土、欣求浄土」の雑賀衆の族旗の文言が、亀若の身内に重く沈んでいる。長生きしたところで、苦い思いに耐える時が長くなるだけのことであった。
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