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<本文から> 富子は、男にうまれているべきであったであろう。
−うまれそこねた。
と、徽女はつねづね嬉野を相手にこぼしている。権謀の才というか。
そういうものが、彼女の肚のなかにくろぐろと渦をまいている。才能というものはそれ自体がエネルギーなのであろう。それを表現し消費せずにねむらせておくと、やがては鬱屈するものであるらしい。唄をうたいたいものは、唄をうたえ。
富子の方略は、こうであった。
昨夜、義政が閨から去ったあと、富子は嬉野をよんでうちあわせておいた。
女合戦そのものがめあてではない。
と、富子はいうのである。そうであろう、お今の里屋敷の器物をうちこわして快をさけぶほど富子はこどもっぽくはない。鬼切りの太刀を奪うためである。
しかしそれも、それそのものが目的ではない。源四郎を当方にひきずりこむことであった。あからさまにいえば、源四郎を捕縛することである。
が、それそのものも、富子の目的ではなかった。源四郎など、捕えてそれっきりであれば、なんの変哲もない。
別な、大構想に利用する。太刀と源四郎をである。
「お今は、足利家を横領しようとしている」
という疑獄をつくりあげるのである。その証拠は、まず源四郎であった。かれは真偽はべつにせよ、足利六代将軍義教の落胤であると称している。足利家を相続する権利が自分にあると称しているらしい。
「お今はそれを利用しょうとしている」
と、富子は言いふらすのだ。つまりお今は源四郎の養母になり(齢はさはどちがわないが)、いまの義政将軍に子がないのをさいわい、その後嗣たらしめ、後嗣の母ということで足利家で威権をふるおうとしているということを富子は作りあげる。お今にとって不利なことは、源四郎をひき入れていること、それに鬼切りの太刀を、巧言をもって義政からまきあげていること、この二つを動かぬ証拠にしてしまえば、「お今の陰謀」という真実性をうたがわなくなるであろう。
と、富子は嬉野に自分の智恵を誇った。嬉野も、おどろいた。
「なんというお智恵のふかさでございましょう」
「だから、まず手はじめが女合戦なのです」
そのうわなりうちの総指揮は嬉野がとれ、と富子は命じた。
女ばかりでゆく。
男をまじえては、慣習上、世間のつまはじきをうけるから、入れない。ただ念閑だけは入れる。念閑は僧形である。僧形は男にあらず女にあらずといわれているから、たれも非難せぬであろう。
その念閑にあたえる役目は、源四郎おびきだしの役目であった。しかるべき所までつれてくれば、あらかじめ伏せてある侍所の人数をしてからめとらせてしまう。
とにかく、念閑を説得してその役目をひきうけさせねばならない。 |
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