司馬遼太郎著書
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          妖怪・上

■源四郎は腹大夫と共に妖怪・唐子天を退治に向かう

<本文から>
  (本当に腹大夫はやる気か)
 源四郎は、半信半疑だった。あの男は酔ったいきおいであのように気炎をあげていたが、神仏や物怪に挑戦できるような勇気はあるまい。
(あるとすれば、馬鹿だ)
 と、源四郎はおもった。天子も将軍もかなわぬものが神仏や生霊死霊の崇りであり、妖怪であり、それを怖れるというのが人間の可憐さなのである。神仏や霊異を怖れぬようになれば人間はどうなるのであろう。ことごとくの人間が悪のかぎりをつくし、強者は弱者を食み、この地上で貞女はひとりもいなくなり、まじめに稼業にいそしむ男はいなくなり、みな互いに殺しあって他人の物をとろうとするであろう。それをせぬのは人間が地獄を怖れるからであり、人間が神罰、仏罰をおそれるからである。
 腹大夫はちがうらしい。
 −人間こそえらいのだ。
 ということを打ちたてねば、この男は、堕地獄の人殺しである足軽や、地獄必定の猟師などの庇護者である印地の大将になれぬのであろう。印地の大将という稼業がら、ああいう空威張りの付け元気でさんざんばら神仏をこきおろしたのであろう。
 が、日が暮れて、
(えっ)
 とおもった。腹大夫がやってきて、
「さあ、行こう」
 あごで源四郎をせきたて、ゆらりと外へ出たのである。 
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■源四郎は将軍の正室・日野富子を想う

<本文から>
「死のうかと思ったことが三度ある」
 それほどつらかったということだろう。
 「だから、京のころを想った。京といえばおまえが知っているただふたりの女が、日野富子だ。いまひとりはお今御前だ。ひとりは将軍の正室、ひとりは将軍の側室、そのふたりしか女というものに接触がない。だから富子を思いえがき、あこがれ、あこがれることによって兵法修行の苦行から一瞬でものがれて自分を慰めたかったのよ」
 「気か」
 腹大夫はいった。気であって、心であるまい、という意味である。
 「恋は気ではないか」
 と、源四郎は、軽くわらった。こう断定するあたりでも以前の源四郎とは別人である。
「おれはこの恋を遂げる。遂げるために京へもどってきた。日野富子の敵はお今御前だったが、いまでもそうか」
 「いよいよその形勢だ」
 「さればお今を退治る。お今にはあわれであるが恋のためだ。お今のもとにはあいかわらず唐天子はいるか」
 「いるはずだ」
 「その唐天子を討ち、お今を京から追っぱらい、人無き島にでも閉じこめ、それによって富子の心を得たい」
 「あれは食わせ者だぜ。妖怪、霊異などというが、あの女こそ日本一の妖怪かもしれないぜ」
 腹大夫はいったが、源四郎は風のなかにいた。聞いていないらしい。
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■源四郎は唐天子に取り憑かせた

<本文から>
 唐天子のような男の言葉には、片鱗も真実がない。かれが真実を告白している。告白としては真実もまじっているかもしれないが、それは巨大なうそをつくための道具にすぎないことを源四郎は感じている。
 −いっさい信じるな。
 と、源四郎は心のなかで何度も繰りかえし自分に言いきかせてきたが、しかしかれ
 (乗ってやれ)
 とおもった。
「よかろう。唐天子、ぬしの話に乗ろう。日野富子を斬ってやる」
 「まぎれもなく?」
 「ああ、まぎれもなく」
 「しかし」
 唐天子は、口約束が出来ると、急に態度をふてぶてしくした。
「口約束ではどうにもならない。わぬしの垢付きの肌着を一枚もらっておく」
「肌着を。なににする」
「のちの証拠さ。わぬしがもし将来において裏切るとすれば、この肌着が生きてくるさ」
「どう生きてくる」
「わぬしがどこに居ようとその魂を遊離させ、わしの手もとのこの肌着にまでよびよせることができる。いわば、約束ができた以上、わぬしはわしに魂を売ったようなものだ。」
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■今度はお今に取り込まれる源四郎

<本文から>
 熊野から都へのぼってきた。将軍継嗣の資格者として名乗りあげるためだったとあなたはいうが、実際は印地の大将(腹大夫のことか)とつきあったり、日野家の小屋に住んだり、御台所富子にそそのかされたり、兵法を学びに関東に駈けくだったり、また駈けのぼってきて宇賀ノ図子で盗賊の首領にかつぎあげられたり、どこに自分の意志や魂があるのかわからぬ日を送っている。憑き神はそういう者に憑くのだ、とお今はいった。
 (まるで説教ではないか)
 と、源四郎はおもつた。牢浪の境涯で、この世のたれから叱言をいわれることもない身の上だが、ことにお今からまるで姉気どりのような叱言を食う筋あいはまったくない。お今は唐天子を使っている。稲荷ノ神が狐を使っているようにお今は唐天子をつかい、その唐天子のおかげで源四郎はこういう苦渋をなめている以上、罵るべきは源四郎の側ではないか。
 「わかりましたかえ」
と、お今は、体温を感じられるまでに近づき、のぞきこんでいった。
 「あなたのお為をおもえばこそ、こういうことをいうのです」
 (なにかまちがっている)
 源四郎は、叫びだしたくなった。しかしどういうものか言い返しができないのである。
 お今は、やさしすぎる。声音、ことば、ものごしに優しさだけでなくまるで弟にいうような真実味がこもっている。こういう優しさに勝てた男子が古今あったであろうか。
 が、こまる、とおもうのだ。この問題の加害者はお今ではないか。
 (げんにおれは)
 縛られて突きころがされている。これもお今の指図である。その女が、姉のような優しさと真実で源四郎に忠告するのだ。
  −ああ。
 と、源四郎は泣きだしそうになった。どこかでなにかがまちがっている。
 「今参りのお局」
 源四郎は、やっと叫んだ。
 「あなたは、妖怪ではないか。−」
 そうにちがいない。そうと解釈する以外、この奇妙な優しさの見当がつかない。源四郎は事態の奇妙さに気がくるいそうになった。
 「人間ですよ」
 と、お今は落ちついて囁いた。囁かねばならぬほどお今の唇は源四郎にちかづいて おり、ついには近づき切った。
 −あっ。
 とおもったとき、お今の唇が源四郎の唇にかさなっていた。きりつ、と源四郎の下唇を、痛くない程度に噛んだ。
「なにをする」
「妖怪ではありませぬ。あきらかに人間であることをお見せしただけ」
「唇を噛むことがか」
「わからないおひと。あなたを好きになっている、ということです。妖怪が、恋をしますか」
「恋」
源四郎は、愕然とした。意外なことばをお今からきく。本気か。
「本気でそのことばを、あなたは」
「たれがうそで言います」
 (こいつはばけものだ)
とおもった。
 ところがお今は本気らしい証拠に、胸にはさんだ短刀を口にくわえ、くわえたまま中身を抜き、それをもって源四郎の縄をふつふつと切りはじめたのである。手足の自由をゆるせばどのような危害をお今に加えるかもしれぬ男を、お今は無造作に自由にしてしまったのである。
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