司馬遼太郎著書
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          義経・下

■景時は義経による主従扱いを嫌っていた

<本文から>
 一−いやな男だ。
 景時は、義経という若者の昂りを、つねにそのような印象でみている。無知で無教養なくせに、権式だけは高く、景時ら幕僚へのものの言いかたが、つねに高圧的だった。
 梶原景時は、堀川館からちかい六条の廷寿寺という寺を宿館にしている。義経からよびだしの使いがきたとき、
 「九郎どのこそ、これへござれと言え」
 とどなりつけたことさえあった。景時の階級解釈では義経と自分とは主従ではなく、ともどもに鎌倉どのの御家人である以上同格であるとおもっていた。義経はどうやら主従だとおもっているらしい。
  義経の能力を買っていない。
 「奥州そだちの小冠者めが」
 と、聞こえよがしに放言したこともある。さらには頼朝との縁の深さという点でも自分のほうがはるかに深いとみている。
 景時は、鎌倉どのの恩人であった。それも命の恩人であった。
 頼朝がいわゆる石橋山挙兵に敗れたとき、景時はその敵側にあり、他の将士とともに頼朝を捜索していた。このとき、景時は、頼朝が朽木のかげにかくれているのを目ざとくみつけたが、声をのみ、顔色を変えず、気づかぬふりで自軍の捜索隊を他の方角へゆかせた。景時は、頼朝を命びろいさせることによって、ひそかに自分の将来の運をひらこうとした。時勢は、やがて思惑どおりになった。景時は恩人として鎌倉に召し出され、頼朝から格別な恩寵をうける身になっている。奥州から流れてきて、頼朝挙兵に何の功もない義経とは筋目がちがう、と景時はおもっていた。
 それに、景時がおもうに、あの小冠者と自分とは教養がちがう。
 「九郎どのは都のうまれというが、歌ひとつ詠めるか」
 と、その郎党に広言していた。
 事実、景時は、多くは文字も書けぬ坂東の田舎武士のなかにあっては異風な男で、歌が巧みなばかりか、文藻が深く、上奏文などはたちどころに書けた。それに筆だけではなく、無類の能弁家であった。教養ずきの頼朝は、こういう点の景時をも敬愛した。
 ついで、謀才がある。それも景時のばあいは頼朝にとって秘めごとをひそひそとともに語れる才能であり、性格であった。ひとは景時を陰険であるとして忌みきらったが、頼朝がおこないつつある権謀政治にあっては景時のような人物は必要であった。 
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■軌跡の勝利、一ノ谷の凱旋

<本文から>
都じゅうが、衝撃をうけた。その名は、平通盛、平忠度、平知章、平業盛、平経俊、平盛俊、平師盛、平敦盛、平経正。ほかに生けどられた者として平重衡。
一戦場でこれだけ多くの将領が討ち取られた例は、日本はおろか、唐土にもあったためしがない。
 ほかに平家の将士で討ち取られた者は千余人である。他はことごとく海上へのがれた。総大将の宗盛も逃げた。宗盛は安徳天皇を擁して讃岐(香川県)の屋島へのがれた。源氏にとって最大の失敗は宗盛をのがしたことと神器をうばいかえせなかったことであった。しかしこの失敗は追撃に用うべき海軍勢力が皆無だったからにすぎない。
「しかし、なぜそれほどの大勝利をおさめ得たのだ」
 と、後白河法皇は報告者たちに質問した。法皇は奇跡のたねを知りたかった。ところでその事情をくわしくきいてみると、
(どうやら、九郎義経が奇跡のたねらしい)
 ということであった。あの若者はあの日、わずかな騎兵団とともに都から婆を消した。意外にも丹波路をとったらしい。丹波の森林地帯を大迂回し、敵の一ノ谷の背面の山ににわかに出現したという。義経が出現するまでの戦況は平家方が優勢であった。この出現で戦況が一変した。義経は逆落しに成功するや、すかさず敵の本営に火を放たしめた。黒煙は、縦三里の一ノ谷城の天をおおい、このことが平家の戦意をくだいた。要するに義経が着想し、指揮し、実旋したすべての戦術が平家を潰走せしめた。
 「あの若者が、な」
 と、後白河法皇には、ちょっと信じられなかった。色白で小柄な、どこからみても見映えがせぬ若者のどにそのような天才性が宿っているのだろう。
 その翌日、すべてがあきらかになった。そのうわさの義経が、平家方の首桶を先頭に京へ凱旋してきた。      
 都じゅうが、沸きかえった。墨染あたりから六条堀川までの凱旋の沿道にひしめいた群衆は十万であり、かれらはひと目でもこの神のような天才を見ようとした。
 弁慶が、義経のうしろをゆく。
 (これが)
 と、弁慶はおもった。
 (合戦のおもしろさだ。僧の世界にも、公卿の世界にもない)
 義経といえば数年前までは流浪の子であり、きのうまでは無名の若者であったのが、きょうは神であった。戦争が、その変化を遂げさせた。戦争というぼう大な生命の賭け以外に、これほどの奇跡を現じさせるものはない。
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■義経はちがった合戦観をもっていた

<本文から>
−なんと可愛気のある男か。
とおもったのは、範頼は凱旋将軍として鎌倉へ帰ってからもはればれしい態度をみせず、
「武衝(頼朝)のお怒りはまだ解けぬか」
 と軍監にも言い、一ノ谷での功より尾張での罪の大きさをひたすらに怖れつづけている様子であった。まるで厳父をおそれる少童のようではないか。
「いや、尾張でのこと、このたびの戦功によって帳消しになった。もはや気にするな」
と、頼朝は戦勝の祝賀婁の席で、範頼にいってやった。範頼は顔いっぱいの皮膚をうずうずとゆるめつつ、やがて、
「うれしや」
 とつぶやき、はじめて頼朝の大きな床を正視する勇気をとりもどした。
 その後、数日のあいだ、頼朝とその幕下たちは諸将の戦功調査で多忙をきわめた。
「誤るな。よくしらべよ。公平に評価せよ」
 と、頼朝は調査員たちをよく指導し、戦闘活動のはしばしにいたるまで正確につかみとろうとした。もし恩賞が不公平ならばそれだけで人心は去り、鎌倉の府は霧のように消えてしまわざるをえない。
 軽い分限の者は侍所がその調査にあたり、重い分限の者は頼朝自身があたった。
 どの男も、
「わが功こそ無類である」
 とし、口やかましく申し出ては自分の針ほどの戦功も棒ほどに表現した。
当然ながら範頼も、おのれの功を主張した。ふたりの軍監(春鎌長)梶原景時と土肥実平も例外ではなく、他人の戦功を記憶せねばならぬ立場にありながら、まず自分の功をひたすらにのべたてた。
 これらのなかで、
「九郎御曹司の功は大きい」
 と、代弁してくれる者はたれもない。そういうゆとりや奥床しさはこの時代の坂東武士の気風にはなく、かれらは戦場ではわれ勝ちに突撃し、よき敵をあさり、われがちに戦い、われがちに手柄する一方、その樹てた手柄を吹聴する点でも、われがちなすさまじさをもっていた。とうてい、他人の義経の戦功をのべてやるなどの余裕はない。
 「そのとき義経はどうしていた」
 と頼朝はときに反問するのだが、みなあいまいにしか答えなかった。第一、どの男も義経に戦功があったとはおもってもいない。
 −あのお人は、たれの首をお獲りになったか、とんと、聞かぬ。
 と、むしろ否定的であった。
 かれら坂東人の感覚では、義経の戦功は理解できなかったであろう。かれらがいう合戦とは、あくまでも敵のなかの「個人」との格闘であり、そういう各個の格闘のかずかずをよせあつめたものが「合戦」ということになっていた。
 が、義経はちがう。まるでちがった合戦観をもっていた。敵味方を対立する組織として義経はみていた。後世になればこれはなんでもない、あたりまえの、ごく平凡な概念にすぎなくなるが義経の当時にあっては、義経だけがそれを持っていた。
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■頼朝だけが義経のはたらきを恐怖した

<本文から>
 (義経のはたらきによってこの大勝利のすべてができあがった。かれの大功にくらべれば、他の将士の戦功など、子供の砂あそびにすぎぬ)
 という点に気づいている男が、すくなくとも鎌倉でひとりはいる。
 頼朝であった。
 (それだけに、おそろしい)
 と、むしろ身ぶるいしたくなるほどの恐怖心を感じはじめていた。もしあの一ノ谷の攻撃をこの頼朝みずから指揮していたならば、こうはあざやかな勝利をおさめ得なかったであろうし、あるいは逆に惨敗していたかもしれない。そのことを、頼朝自身は感じていた。感じているだけに、かれ自身の口から義経の戦功はいっさい語り出さなかった。
 (面妖しい)
 と、鎌倉の空気を、それとはなく感じとったのは、義経の郎党武蔵房弁慶であった。弁慶はこの時期、鎌倉へきている。その表むきの用務は、平家の降将である三位中将平重衡の護送であったが、内々の用件は頼朝に拝謁して一ノ谷における義経の活動をつぶさに語るためであった。
「兄によしなにつたえよ」
 と、義経は弁慶の雄弁に期待していた。弁慶でも派過せぬかぎり、このまますてておいては鎌倉における義経の評価は零になってしまうであろう。
 数日滞在するうち、弁慶のおどろきは次第に大きくなりはじめた。
(これは容易ならぬ)
 とおもうのは、義経という名を鎌倉ではほとんど耳にせず、あの一ノ谷の大勝利をつくりあげた戦功者は、梶原であったり土肥であったり、畠山であったりした。
 しかも、義経については悪ロのほうが多い、その悪口を言いふらしているのは、義経の軍監だった梶原景時であった。景時は並いる鎌倉衆の前で頼朝にむかい、
「おん弟ぎみながら、あのお方の青臭さ、思いあがり、増上憤はがまんなりませぬ」
 といった。梶原のいうところ、義経は鎌倉どのの弟であることを昇にかけ、われわれにむかって主人面をし、高飛車にものを言い、相談などはせぬ。このため諸将は義経をにくみ、
 −このような物狂いの男の下知に、たれが従えるか。
 として、みな範頼の塵下に入ることをのぞんだ、という。頼朝はこれをきき、
 「さもあろう」
 と、梶原の言葉にうなずいた。頼朝はたれよりも義経の性格について通じていたから、梶原のいう情景が目にそえるようであった。
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■義経は位打ちにあい頼朝に誤解を

<本文から>
「受けたか」
 と、そのあと法皇は報告をきき、大いに満足した。
 位は、六位であった。
 「さらに追いうちをかけよ」
 法皇は、側近にひそかに命じた。宮廷ではむかしから、
 −位打ち
 ということばがあり、不都合な権臣に対しては矢つぎばやに位を昇らせて行って、ついに人格を崩壊させ、自滅させる。このたびの義経の場合も、それに似ていた。
 八月六日に右の任官をさせ、翌九月十八日にはさらに昇格した。
 従五位下に叙せられ
 大夫尉に進められる
 という特別な人事がおこなわれた。検非違便の大夫尉といえば、世間では、
 「判官」
 と通称している。このため義経は、
 「源ノ判官義経」
 といわれるようになった。かつ従五位下といえば、昇段 − 御所清涼穀の南廟に昇ることをゆるされる。それを、
 「殿上人」
 と言い、歴とした宮廷人の仲間に入ることを意味している。
 義経は、殿上人になった。
 その御礼のためのはじめての参内のとき、義経は武家としての姿をとらず、公家の束帯をした。
 公家のように牛車にのった。それも、
  −八葉の車
 という、とほうもない華麗な事を用いた。車体に八葉の紋をつけたもので、これに乗るのは大
臣など宮廷の最高官の者であり、たかが判官程度ののりものではない。
 が、義経はつねに華麗なものを好んだ。この事に駕し、しかも騎乗の衝府三斯、供侍二十人という多数を前後にしたがえてその行列をいやがうえにも華凝にした。
 その報は、鎌倉につたわった。
 「義経は、ついに狂うたか」
 頼朝は叫び、激怒を粧った。むろん頼朝にすればこういう結果が出るであろうことは見ぬききっていた。しかしそれにしても、なんと義経は派手やかにそれをやったことであろう。
 「鎌倉への挑戦である」
 と言いながら、頼朝は義経というあの弟の心底がわからなくなった。
 (自分で、自分のやっている意味がわからないのだ)
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■壇ノ浦の勝利は頼朝の出発、義経は主題の終結

<本文から>
壇ノ浦の合戦は、義経にとって四度目の成功である。成功というより、ほとんど魔術的ともいうべき勝利であった。平家五百膿の水軍を西海にほろばし、おもだつ敵の族将たちを海底にしずめ、その総帥の宗盛父子を捕虜にし、三種ノ神器のうちの神剣をのぞく二種を得た。
 この日、文治元年三月二十四日であった。源氏はこの日をもってその武権を天下にうち樹てたというべきであろう。
 義経は、これを都の法皇と、鎌倉の頼朝に急報せねばならなかった。急報のための使者が京都についたのは四月三日であり、鎌倉についたのは四月十二日であった。京も鎌倉もこの奇跡の勝利にどよめき、頼朝などは、その勝利があまりにも大きすぎ、にわかに信じられなかったためか、座からうごかず、声も発せず、しばらく瞳をしずめて息を詰めるような表情をしつづけていた。
  義経の歓喜は、もとより大きい。
 −これで兄も、この自分の存在がどれほど大事なものかがわかったであろう。兄の勘気もこれによって解けるにちがいない。
  そうおもった。
 が、厳密にはそのことはちらりと思った程度で、それよりも勝利そのものの快感のほうがこの至って感情の過剰な若者にとっては大きく、大きすぎ、そのあたりを駈けまわりたいほどうれしかった。考えてみれば平家をほろばして亡父の怨みにむくいるというのはかれの少年のころからの志であり、そのことをようやく達成した。
 「わしがうまれてきた意義は、この日のためにあった」
 と、かれは郎党の佐藤忠信にいった。弁慶にも、伊勢義盛にもいった。人の一生に主題があるとすれば、かれの主題は単純明快でありすぎた。復讐である。復讐以外のことはすべて余事であるとおもい、その余事についてはうかつに暮らしてきた。とにかくも、このように壮大な、このように華鴛なかたちでその主題をかれは完結することができた。
  −−あとは余生だ。
 とまではかれは考えぬにしても、あとのことはさほどに意を労さなかった。鎌倉の頼朝にとってはこの勝利が頼朝の新政治構想の出発であったかもしれないが、義経にとってはこの戦勝がかれの主題の終結であった。
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■坂東武者が頼朝を押したる理由が義経と郎党も理解にくるしんだ

<本文から>
京にいる義経は、鎌倉の機嫌が尋常でないことに気づいていたが、その真意がどこにあるのかわからず、さらにまたかれの周囲−武蔵房弁慶をはじめかれの私的な郎党−も、理解にくるしみ、
 「梶原めが」
 と、ふたことめにそのせいにした。義経の不幸はその私的な幕僚が田夫野人のあがりであったということであろう。そのなかには弁慶のように文章にあかるい者もいたし、伊勢三郎義盛のように野盗あがりながら世故に良け交渉事に上手な者もおり、他の者もそれぞれ屈強の勇士で武勇の点で坂東武者におとる者はひとりもおらず、戦場では頼朝の家人たちと功を競いつつめざましく働いたが、正規の地所持ちがいないことは地所持ちの気持がわからぬということであり、なんのために坂東武者が頼朝を押したてたかということに思いをいたす感覚もなければ、そういう方面の世間智もなかった。坂東武者が頼朝を押したてたのは、
 −頼朝が貴族であるから。
 というだけの理由で理解していた。その理由のみならば(かれらはかかだとおもっている)わが主人義経は頼朝に次ぐ育種であり、いわば義朝の子ということで尊さは同格であり、坂東人は頼朝をあおぐがごとく義経をもあおがねばならぬとおもっている。
 さらにまた義経の不幸はそういうかれらたちの多くが近畿の育ちであるということであろう。近畿の育ちは京の朝廷の尊さのみを知って、鎌倉などは田舎者のあつまりにすぎぬとおもっており、義経が殿上人として京の法皇の申されることのみをきいていればよいと思っている。そういう意識の集団であり、当然、首領の義経はその意識集団のなかでもその傾きのもっともはなはだしい者であった。
−しかし、鎌倉から疑われている。
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■義経は六ケ月の栄華の後に賊として滅んだ

<本文から>
法皇は、車のなかで指を折りつつかぞえた。
 (−義経が、西海から凱旋して)
 どれほどの歳月になるのであろう。法皇はかぞえた。ところがかぞえてみると歳月というほどではなく、その栄華はわずか、六ケ月とすこしだけにすぎなかったことに法皇はあらためて気づき、わざわざ指を折るほどの情熱すらうしなった。
 その後、数日して法皇は義経の不幸を知った。なるほど、大物ノ涌から船出はしたという。ところがすぐ悪風が吹き、僚船がちりぢりになり、義経の船は住吉ノ浦へ打ちかえされたという。そのあと、河内を転々としているとも言い、青野山に入ったともいわれた。
 いずれにせよ、法皇はそのあとも義経についての政務が多忙であった。義経が都を去った四日後に、法皇はあれほどに寵愛しておきながら、義経の官位を容赦なく没収し、伊予守でも判官でもない、ただの九郎に堕してしまった。さらに義経退去のあと九日目には、
−義経こそ賊である。追討せよ。
 という院宣を法皇は鎌倉の頼朝に対してくだした。すべて頼朝への遠慮であり、配慮であり、朝廷という古典的権威をまもるためのやむをえざる処置であった。
 義経は、諸国の山河にかくれ、隠れては弄り、転々としつつ、朝廷と鎌倉から追跡され、ついに奥州の平泉まで逃げ、追いつめられ、最後に衣川の持仏堂に逃げ入り、自害した。
 その首が酒漬けにされて鎌倉へはこばれてきたとき、頼朝は、
 「悪は、ほろんだ」
 といった。なるほど、国家の機能をあげての弾劾と追跡をうけた義経は、悪といえば類のない悪であるかもしれなかった。が、「悪」ということばを頼朝の口からきいたひとびとも、それを洩れきいた世間の者も、また京の廷臣たちも、
−−悪とは、なんだろう。
 ということを一様に考えこまざるをえなかった。後世にいたるまで、この天才のみじかい生涯は、ひとびとにその課題を考えさせつづけた。
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