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<本文から>
一−いやな男だ。
景時は、義経という若者の昂りを、つねにそのような印象でみている。無知で無教養なくせに、権式だけは高く、景時ら幕僚へのものの言いかたが、つねに高圧的だった。
梶原景時は、堀川館からちかい六条の廷寿寺という寺を宿館にしている。義経からよびだしの使いがきたとき、
「九郎どのこそ、これへござれと言え」
とどなりつけたことさえあった。景時の階級解釈では義経と自分とは主従ではなく、ともどもに鎌倉どのの御家人である以上同格であるとおもっていた。義経はどうやら主従だとおもっているらしい。
義経の能力を買っていない。
「奥州そだちの小冠者めが」
と、聞こえよがしに放言したこともある。さらには頼朝との縁の深さという点でも自分のほうがはるかに深いとみている。
景時は、鎌倉どのの恩人であった。それも命の恩人であった。
頼朝がいわゆる石橋山挙兵に敗れたとき、景時はその敵側にあり、他の将士とともに頼朝を捜索していた。このとき、景時は、頼朝が朽木のかげにかくれているのを目ざとくみつけたが、声をのみ、顔色を変えず、気づかぬふりで自軍の捜索隊を他の方角へゆかせた。景時は、頼朝を命びろいさせることによって、ひそかに自分の将来の運をひらこうとした。時勢は、やがて思惑どおりになった。景時は恩人として鎌倉に召し出され、頼朝から格別な恩寵をうける身になっている。奥州から流れてきて、頼朝挙兵に何の功もない義経とは筋目がちがう、と景時はおもっていた。
それに、景時がおもうに、あの小冠者と自分とは教養がちがう。
「九郎どのは都のうまれというが、歌ひとつ詠めるか」
と、その郎党に広言していた。
事実、景時は、多くは文字も書けぬ坂東の田舎武士のなかにあっては異風な男で、歌が巧みなばかりか、文藻が深く、上奏文などはたちどころに書けた。それに筆だけではなく、無類の能弁家であった。教養ずきの頼朝は、こういう点の景時をも敬愛した。
ついで、謀才がある。それも景時のばあいは頼朝にとって秘めごとをひそひそとともに語れる才能であり、性格であった。ひとは景時を陰険であるとして忌みきらったが、頼朝がおこないつつある権謀政治にあっては景時のような人物は必要であった。 |
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