司馬遼太郎著書
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          義経・上

■義経は正近によって源氏の血を知り復讐を誓う

<本文から>
 「その味、他にはござらぬ。鬼神をも恐れぬ源家の血でごぎる」
 (この味が?)
 正近の言葉を信じた。すかさず正近は源家歴代のひとびとの武勇澤を話し、さらにその傍流の名将たちの話をした。遠くは大江山の鬼を退治た頼光、さらには源家の四代前に兄養家とともに奥州の夷を討った薪羅三郎義光、近くは遮都王の叔父にあたる鎮西八郎為朝、さらに長兄にあたる悪源太義平の話などをした。どの人物をとっても、日本史上かつてなかったあたらしい型の漢どもであった。それらの血が−いますすった自分の血とおなじものであるという発見ほど、遮那王の生涯で大きな衝撃はなかったであろう。この衝撃が、この少年をそれ以前の彼とは別な者にした。
 正近は、少年に鮮烈な幻覚を観させている。四条の聖であるこの男の言葉のすべてが、世間を知らぬ僧坊そだちのこの少年の心には、呪術であった。正近は四条河原では群衆の心を睡らせて弥陀の世界に往かせ、この鞍馬の僧正ケ谷ではこの少年をとらえて修羅の世界にゆかせようとして」いる。
「御父の仇を討ち参らせよ」
 正近が繰りかえすこの言は、錐のごとくするどく少年の心に揉みこんでゆく。
「復讐者の資質は」
と正近はいうのである。
 −この濁世の栄達をのぞむな。栄華にあこがれるな。
 正近の言葉は、少年の心につぎつぎと凄みこんでゆく。正近は唐土の臥薪嘗胆の故事をもあげた。復讐者の一生は復讐のほかの快楽を求めてはならぬ。復讐のみが、唯一最大の目標であるべきである。つねに利剣のごとく鋭い心を砥がれよ。この世における主題はそれのみであるべきであり、そのためにのみうまれてきたと思召されよ−と正近はその洛中洛外の群衆を魅了した口説をもって説き去り説き来たり、少年の心をほとんど掌の上にのせ、自在にしきった。
 奇妙な男というほかない。
 四条の聖・正門房・俗名鎌田三郎正近という人物は、歴史のこの瞬間に出現し、そして永遠に消え去るのである。この僧正ケ谷の一夜を最後に鞍馬山から消え、遮那王はついにその生涯でこの男を再度見たことがない。 
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■藤原秀衡にかわいがられた義経は現実感覚のとぼしさに欠けていた

<本文から>
源九郎義経は、奥州平泉で六年の歳月を送っている。当初、稚かった。滞留の目的は、自分自身の成人を待つためであった。
 「九郎殿は、うまれつき、なにか欠けている」
 と、藤原秀衡は、そう見ていた。その欠陥は、現実感覚のとぼしさ、といえるかもしれない。
 このところ武士ならたれでも持っている損得の利害感覚が、まるでないのである。
 (これで、世に立てるのか)
 とさえ思い、秀衡は心配になった。たとえば、「所領を差しあげようか」といっても、要らない、というのである。
「すこし、利欲の心をおもちなされ。山のわらびと同様、あくがほどほどに強くなければ男はたのもしゅうない」
 とまでいったが、その言葉そのものが、この若者には理解しかねるようであった。しかしこれは長所でもあろう。そのかぼそさがあればこそ、秀衡自身、欲得をわすれ、
 (自分が構ってやらねばどうにもならぬ)
 という思いに駆りたてられて、他所目には異常なほど肩入れをしてしまっている根になっていた。
 しかし、現実感覚にうとい、ということになると、なんとも応対にこまるようなところが、九郎にはある。三年目の春をむかえ、奥州街道に雪が融けはじめたとき、
「もはや、我慢ができませぬ中京へのぼり、渚盛入道を討ちます」
という。無謀ではないか−と秀衡はとめたが、九郎はいったん言いだすととまらぬたちの男で、こういう性格なればこそ少年の身で鞍馬を脱走し奥州くんだりまで亡命してきたのであろう。
「脱走しても、京へのぼります」
「無謀な」
 と言うあらそいがつづいているうちに、秀衡の家庭問題について大きな発言力をもっている例の旧京都官人の藤原基成が、
「ああまで言い募っているのに、なにもとめることはあるまい」
と、秀衡をたしなめた。老基成は相変らず九郎に好意をもっていない。さらに、基成は秀衡の息子たち−基成いの外孫たちだが、それらの連中をかねがね協動し、九郎に悪意をもつように仕むけてきた、それら息子たちは
「父上。九郎殿のお望みにおまかせあれ」
 と、秀衡を説いた。かれらは、父の愛を一身にあつめてしまった九郎を、できれば京へ放逐してしまいたかった。
 結局、九郎は京へのぼることになった。ただ仇討という点は妥協し、
「ただ平家の様子を見に」
 ということにした。出発の季節も、晩春にまでのばした。そのころ奥州塩釜から摂津大物ノ浦(尼崎港)まで、藤原家の貢船が出航するからである。海路なら、陸路のような野賊に遭う危険がないであろう。
「かならず、お帰りあれよ」
 と、別れるとき、秀衡は涙をこぼした。
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■頼朝は東国武士の不平に応えたから忽然と大軍の主となった

<本文から>
古来、一介の流人が六十日後には忽然と大軍のぬしになり、時の政府軍を数において圧倒するにいたるなどの例はないであろう。本朝にもなく、唐土にも絶無である。おそらく後世にもあるまい。
(なぜ、こうなったのか)
 頼朝は、かれらに押し立てられた大将として、かれらが押し立てた理由を考えねばならなかった。
 頼朝はこの点、利口な男であった。かれら東国武士の不平のありかを知っていた。武士、つまり荘園の非合法な所有者たちは、自分の私有地につねに不安を感じている。自分の土地でありながら、しかし土地公有を原則とする律令国家の体制のなかではその私有が不完全にしか認められない。それを権力者によって保護してもらおうと思い平家の傘下に入ったが、その平家が地方武士の保護者たるべき自覚をうしない、公卿化し、一門の著りのみにふけり、逆に武士どもを圧迫さえし、諸国の目代(平家官僚)を通じて徴税と労役を強化した。
 「いっそ東国は独立すべきだ」
 ということが意識ではなく気分として村々に満ちはじめていたとき、にわかに頼朝の決起があり、それによって噴火し爆発したといっていい。頼朝はその爆発によってむくむくと天にのぼる噴煙に乗じたといっていいであろう。
 (それを知らねば、一朝にしてわしはもとの地面に墜落する)
 頼朝は、それを知っていた。しかもこの男の血統の光栄とその演技力は、百年も前からこの大軍をにぎりつづけてきた帝王のごとく、ごく自然に大将であることをふるまいつづけたことであった。
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■頼朝との劇的な対面

<本文から>
 義経は案内されて幕営のなかに入り、庭へまわった。庭は、幌幕ではりめぐらされている。義経は階の下にすわろうとすると、上から頼朝の声が落ちてきた。
 「上へ、上へ」
 その声は、懐しさとうれしさで、すでにみだれている。義経は階をあがった。
 頼朝は、屋内にいる。板敷のうえに雲枚を敷き、その畳の上に敷皮をしきかさねていたが、あがってきた義経の顔をみると、すばやく敷皮をとりのけ、それで弟の座をつくってやった。義経はもうそれだけで感動し、うつむき、涙をぬぐった。
 後世、人前での涙はめめしいものという規律ができたが、この時代、人はよく泣いた。頼朝ははじめてあうこの弟の顔をじっとみつめ、亡父の面影をさぐって、見つづけることができない。義経も頼朝をあおぎ、なき義朝はこのようなお顔であったかとおもううち、顔をあげられぬほどに涙がこぼれた。どちらもあいさつのことばすらなく、見つめては泣き、ひたすらに無言でいた。この情景は、並みいるひとびとをいやがうえにも感動させた。みなこの情景を待ちかねたように貰い泣きし、悪四郎といわれた岡崎義実などは馬のいななくような声をあげ、一座を主導するかのごとく華やかに泣いた。泣くことにも華やぎをあらわしたいというのが、坂東武者の心意気というものであろう。
 義経が退出し、自分の居所に帰るべく革営の門を出たとき、そのあたりの路上は武者や雑人でうずまっており、それらが石段をおりてくる義経をみてどよめいた。義経の足もとを、土肥実乎、岡崎義実らの坂東で錚々たる大農場主が、まるで奴のごとくみずからたいまつをとって照らし、いんぎんに先導した。
 「御曹司よ、御曹司よ」
 と、ひとびとは口々に叫びあった。曹司とは御所の官人・女官の部屋のことをいう。御曹司とは貴族の子弟で部屋住みの者をさす。九郎義経には通称としてよぶべき官名がなかったから、期せずしてこのよびかたが、この若者の尊称になった。
 若者は、石段をおりてくる。その小柄で清げな姿が、いっそうかれの姿を劇的にし、ひとびとを感動させた。劇的といえばそのみじかい一生でこれほど劇的要素の多い運命をもった者もまれだが、この劇的な場面でもかれ自身がたくまずして一個の劇的演技者になっていた。そのことがひとびとをいっそうに昂奮させた。
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