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<本文から>
「その味、他にはござらぬ。鬼神をも恐れぬ源家の血でごぎる」
(この味が?)
正近の言葉を信じた。すかさず正近は源家歴代のひとびとの武勇澤を話し、さらにその傍流の名将たちの話をした。遠くは大江山の鬼を退治た頼光、さらには源家の四代前に兄養家とともに奥州の夷を討った薪羅三郎義光、近くは遮都王の叔父にあたる鎮西八郎為朝、さらに長兄にあたる悪源太義平の話などをした。どの人物をとっても、日本史上かつてなかったあたらしい型の漢どもであった。それらの血が−いますすった自分の血とおなじものであるという発見ほど、遮那王の生涯で大きな衝撃はなかったであろう。この衝撃が、この少年をそれ以前の彼とは別な者にした。
正近は、少年に鮮烈な幻覚を観させている。四条の聖であるこの男の言葉のすべてが、世間を知らぬ僧坊そだちのこの少年の心には、呪術であった。正近は四条河原では群衆の心を睡らせて弥陀の世界に往かせ、この鞍馬の僧正ケ谷ではこの少年をとらえて修羅の世界にゆかせようとして」いる。
「御父の仇を討ち参らせよ」
正近が繰りかえすこの言は、錐のごとくするどく少年の心に揉みこんでゆく。
「復讐者の資質は」
と正近はいうのである。
−この濁世の栄達をのぞむな。栄華にあこがれるな。
正近の言葉は、少年の心につぎつぎと凄みこんでゆく。正近は唐土の臥薪嘗胆の故事をもあげた。復讐者の一生は復讐のほかの快楽を求めてはならぬ。復讐のみが、唯一最大の目標であるべきである。つねに利剣のごとく鋭い心を砥がれよ。この世における主題はそれのみであるべきであり、そのためにのみうまれてきたと思召されよ−と正近はその洛中洛外の群衆を魅了した口説をもって説き去り説き来たり、少年の心をほとんど掌の上にのせ、自在にしきった。
奇妙な男というほかない。
四条の聖・正門房・俗名鎌田三郎正近という人物は、歴史のこの瞬間に出現し、そして永遠に消え去るのである。この僧正ケ谷の一夜を最後に鞍馬山から消え、遮那王はついにその生涯でこの男を再度見たことがない。 |
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