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<本文から>
司馬 思想的人間における気質としての器ということで松陰を考えてみると、この人は思想家の中ではもっとも根源的な存在じゃないか、思想家以外になりようがない人だという感じがします。私は、松陰を子どもの時からあまり好きでなく、大人になってふと興味を持った時に、こんな純粋で純真な人がいたかと驚いたわけです。ちょうど因幡の白兎が毛をむかれて、赤裸になって、そよ風に当っても肌や骨が痛むという具合でいる人が松陰なんじやないか。思想家としての松陰の器を、ガラスの券にたとえると、ガラスの器は非常に薄くて、今にもこわれるんじゃないかというような感じがあるんですが、思想を盛上げる器、もしくは思想を湧き出させる器というのが人間にあって、私はそういう気質をほとんど持っていないんですけれど、そういう気質を持ってきた人ということで、日本の思想史を考えることができる。 |
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