司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          世に棲む日日・4

■高杉の挙兵

<本文から>
  高杉は、狂ったのだ。
 と、たれしもが晋作の脳髄の正常さをうたがい、山県狂介以下奇兵隊の壮士のすべてが、晋作に対して冷淡であった。傷負い猪が荒れくるっているとしか見なかった。
 奇妙なものであった。結果からいえば、
「高杉晋作の挙兵」
 として維新史を大旋回させることになるこのクーデターも、伊藤俊輔をのぞくほか、かつての同志のすべてが賛同しなかった。
 歴史は天才の出現によって旋回するとすれば、この場合の晋作はまさにそうであった。かれの両眼だけが、未来の風景を見ていた。いま進行中の政治情況という山河も、晋作の眼光を通してみれば、山県狂介らの目でみる平凡な風景とはまるでちがっていた。晋作は、この風景の弱点を見ぬき、河を渡ればかならず敵陣がくずれるとみていた。が、かれは自分の頭脳の映写幕に映っている彼だけの特殊な風景を、凡庸な情況感受能力し
かもっていない山県狂介以下の頭脳群に口頭で説明することができなかった。
(行動で示すあるのみ)
 と、晋作がおもったことは、悲痛であった。なぜならば、行動とは伊藤俊輔がひきいる力士隊三十人だけで挙兵することであり、三十人で全藩と戦うことであった。その前途は死あるのみであった。が、劣弱な風景想像能力しかもたない同志たちに、
「政治風景というのは、こう押せばこう変わるのだ」
 ということを示すには、実物をもって示すほかなかった。

■革命は三代で成立

<本文から>
分類和すれば、革命は三代で成立するのかもしれない。初代は松陰のように思想家として登城し、自分の思想を結晶化しようとし、それに忠実であろうとするあまり、自分の人生そのものを喪ってしまう。初代は、多くは刑死する。二代は晋作のような乱世の雄であろう。刑死することはないにしても、多くは乱刃のなかで闘争し、結局は非業に屍れねばならない。三代目は、伊藤俊輔、山県有朋が、もっともよくその型を代表しているであろう。かれら理想より実務を重んずる三代目は、いつの時代でも有能な処理家、能吏、もしくは実業家として通用する才能と性格をもっており、たまたま時世時節の事情から革命グループに属しているだけであり、革命と実務を心得て、結局は初代と二代目がやりちらかした仕事のかたちをつけ、あたらしい権力社会をつくりあげ、その社会をまもるため、多くは保守的な権力政治家になる。

■西郷は無毒な長州で従わせようとした

<本文から>
 「いずれ、長州藩内に激烈な内乱がおこるであろう」
と、予言していたのは、この時期、幕軍である征長軍総督徳川慶勝の個人参謀のかたちで広島と小倉間を往復していた薩摩の西郷吉之助であった。
 この時期、いかなる人物よりも西郷の長州情勢の読みはするどい。西郷は、
 (長州のいわゆる諸隊が、革命軍になる)
と、見ている。その諸隊が藩政府軍と激突し、あるいは勝つかもしれない。
 (革命軍が勝って革命政権ができると、いよいよまずい)
と、西郷は思っている。
 西郷の政治的ねらいは、二重打ちになっている。西郷は長州藩をその滅亡から救いだそうとしていた。この点では、長州藩の味方であった。幕軍を構成している諸藩のうち、
−長州へ軍勢を入れて、このさいつぶしてしまえ。
と、主張する藩もあり、そこまで極端でなくとも、久留米藩や肥後熊本薄などは、
−せめて下関を占領し、その軍威を背景に長州藩政府に降伏条件を実行させたほうがよい。
と、主張していた。西郷は広島と小倉間を駈けまわりつつ、それらの硬論をおさえ、なんとか長州藩の面目を立て、穏便な戦後処置がとられるようにとつとめていた。その点では、長州びいきであろう。
 が、西郷は同時に、このさい、長州藩から鋭気を抜き、雄藩のうちでの二流藩にしてしまおうとしていた。かれにすれば、他日、幕府を倒すとき長州を味方として従属させ、あくまでも薩摩が主導権をにぎらねばならぬと考えており、そのためにはこの際、長州に好意を売らねばならず、さらに同時に長州から毒気を抜いておく必要があった。毒気とは、
 「諸隊」
である。諸隊こそ長州藩の革命勢力であるということは、西郷は長州人以上によく見ぬいていた。もしここで、久留米や熊本案のような硬論を実施すると、諸隊はかえって憤慨し、やぶれかぶれになって市内革命をおこす。革命政権というものほど強烈な力をもったものはないということを西郷は知っており、それをやらせてはならない。
(このさい諸隊を刺載せず、単なる百姓軍としておとなしくさせておく。藩政の実権は佐幕派にとらせる。その正俗両派の調和の上に、長州藩の政治的象定を成立させる)
 つまり、無毒な長州藩を実現させる、というのが西郷の腹づもりであった。それによって幕軍も安心して征長軍を解散するであろう。

■晋作の功山寺挙兵は西郷の思惑を破った

<本文から>
 西郷案は、そのねらいどおり、征長総督徳川慶勝によって実施されつつあった。
 この、いわば、
 「西郷の投網」
を破ろうとしたのが、高杉晋作の挙兵である。晋作は、むろん幕軍の黒幕にいる西郷の腹の中は知らない。第一、西郷に会ったこともない。晋作がこの時期、西郷と下関で会ったという説が、維新政府成立後も、長州人のあいだにおいてすら一部信じられていたむきがあったが、現実の晋作は一度も会ってはいない。その後も含めて終生晋作は西郷と会う機会を持たなかったし、そういう機会を持とうともしなかった。持たなかったのは、かれの長州第一主義によるものであったし、それになによりもかれは西郷と薩摩藩がきらいであった。
 「薩人は奸佞である」
と、つねに言っていたのは、薩摩人一般への批評ではなく、薩摩の簿外交の担当者である西郷吉之助という人物の政略のおそろしさを知っていたからであろう。なるほど、悪意をてこにして考えれば、この時期の西郷は、弱り目に崇り目といった瀕死の長州藩を、かれの投網で獲ってしまい、将来の大革命戦に利用するための薩摩の家畜にしょうとしていた。晋作の演じた「長府功山寺挙兵」というのは、その投網を、するどい両刃の短刀をもって切りやぶろうとするものであった。

■晋作を自身の労を知り、時勢を見通していた

<本文から>
 伊藤は、晋作の明断さにおどろかざるをえない。山県は、足軽でしかないのに、晋作に擬せられている軍事総奉行の大任を実質上、山県の職にしてしまおうというのである。晋作には、江戸三百年の身分感覚というものが、頭から失せてしまっているのに相違なかった。晋作自身の言葉を借りれば、天のその人を労せんとする役割のままに人もわれも動くべきであるという明断な一理に尽きてしまうらしい。さらにいえば、自分は創業ができるが、保全はできない、ということであろう。
 「しかし、留守中に幕府が攻めてくればどうします」
 「すぐには改めて来ぬ。たとえ来ても、いまの長州人の士気をもってすれば、安芸填で防ぎ、石州境で防ぎ、二年や三年は国境を持ちこたえることができる。そのあいだに、こっちは世界を駈けまわって見るべきものを見るのだ」
 「見て?」
 「長州を、世界の列強の仲間に入れる」
 といったから、伊藤は晋作の構想の大きさに驚倒しそうになった。長州藩は、周防と長門の二国をあわせて三百七十方里しかない。これが徳川日本を脱して独立国になり、英仏米蘭といった列強と互角の競争場裡に立とうというのである。晋作はこの二州の経済力を飛躍させるかぎは、下関を幕府の横浜のように開港場にすることにある、といった。
 「しかし」
 と、伊藤は声をひそめた。
 「撲夷はどうなります」
 困難なのは、そこであろう。長州藩が、日本史上最初の例として、士農工商をふくめての大結束を遂げ得たのは、この偏狭苛烈な撰夷というナショナリズムが核になったおかげであった。その強烈なエネルギーがなおもつづいており、その撰夷的熱気をもって、対外通商主義という世界観を異にする幕府と決戦をしようとしている。要するに艮州にとって撰夷は神通力というべき魔法であった。撰夷のおかげで長州は一変した。しかも晋作は表むき、その思想の呼号者ではないか。
 「どうなります」
 伊藤は、かさねていった。すでにひそかに開明論者になっている伊藤にとって、攘夷同志とのつきあいが頭痛のたねであった。うかうかすると、伊藤は自分の同志かち殺されるかもしれない。
 「伊藤よ」
 「はい」
 と、伊藤はかたずをのむ思いで、晋作の解決法をきこうとした。
 「宇宙は止まってはいない。そのうち一回転するよ」
 と、事もなげに言い放った、宇宙とはこの時代の流行語で、晋作のここでいう意味は、時勢というほどの意味である。
 晋作は、松陰が醇乎たる思想に仕上げた攘夷思想が、そろそろ時勢のなかで清算さるべき時代にきているとみている。

■晋作の大開国であり大攘夷

<本文から>
 「開港うんぬんよりも、まず連中に物の道理を説いてまわり、十分機運を盛りあげてから下関開港という大花火を打ちあげればどうでしょう」
 と、伊藤はいった。道理であった。が、晋作は笑って、
 「伊藤」
 と、からかうようにいった。・
 「説いてまわっているうちに斬られるぜ」
 「それはそうです」
 伊藤も、苦笑した。事は、むずかしい。
 攘夷が、すでに思想になり果てているのである。
 晋作にとっても、むろん最初は攘夷は思想であった。が、すぐ手段にすぎないと思うようになった。幕府の根太をゆすぶる手段であり、これを鼓吹することによって日本人の正気をふるいたたせ、ゆくゆくは京の天子を中心とする統一国家をおこすてこにもなり、エネルギーにもなるものだとおもった。げんに攘夷のおかげで防長三十六万九千石の士気は、大昂揚した。もし長州藩が下関海峡で攘夷戦争をやらなければ、こんにちのように士農工商が一つになったこの天下に比類ない集団はできあがらなかったであろう。
 が、それにとどまれば、長州は逆に滅亡する。幕軍がやがて攻めてくる。その幕軍を迎撃し、すすんで幕府をたおし「新国家をつくるためには、いままで金科玉条としていた攘夷をすて、敵思想である開国へ踏みきるという、奇妙な化学変化を遂げないかぎり、長州はほろびる。晋作のよくいう「防長二州の腹を五大洲に押し出す」ということは、大開国である。しかし、
 「大攘夷でもある」
 と、晋作はいうのだが、こういうあたらしい現実を踏まえた道理は、かつての攘夷の同志には理解してもらえないであろう。二流、三流の人間にとって、思想を信奉するほど、生きやすい道はない。本来手段たるべきものが思想に化り、いったん胎内で思想ができあがればそれが骨髄のなかまで澄み入ってその思想以外の目で物を見ることもできなくなる。そのような、いわば人間のもつ機微は、井上も伊藤も、ここ数年、生死の綱を渡ってきて知りすぎるほど知った。彼等はこわい。
 「ばさっ」
 と、斬られる思いがして、伊藤は、自分の血のにおいを嗅いだような実感が、恐怖とともに、鼻の奥に蒸れている。
 −この高杉は、あの連中をどうなだめるつもりか。
 と、そのことが気になった。高杉にはなにか成算があるのか。
 それを、質問してみた。
 「ないよ」
 晋作は、事もなげにいった。
 「連中の頭を、ロで切りかえようとしても、そいつは不可能だ。藩政府を動かして、その事を断行させ、事実をもって示すしかない。むろんその間、混乱がおきる」

■幕府や朝廷が敵でも、世間が同情的なら大きな手を打てると考えた

<本文から>
 幕府を敵とし、朝廷からも朝敵の烙印を捺され、天下の諸大名が幕府の動員令をうけて長州の藩境にせまろうとしている。いわば、袋だたきであった。この時期、世間までが長州藩を憎んでいるとすれば、藩としてはもはや滅亡しかない。たとえ幕府や朝廷が長州を敵としても、もし世間が長州に対し、ひたひたと同情的なら、
 (幕府も怖るるに足らず。さらに大きな手を打つことができる)
 というのが、長州藩の演出者である晋作の考えであった。晋作がよくつかう言葉に、
 「大偵察」
 というのがある。彼はみずから上海に密航し、さらにこんどは西洋にまで飛ぼうとしたのはかれのいう大偵察であった。偵察や諜報は、大政治眼をもつ者でなければつとまらぬであろう。紅屋木助や井上善心などの諜報活動もいいが、しかし彼等専従者にはそういう眼力はなかった。結局は、大偵察が必要であった。晋作は、実際に世間のなかを潜行することによって、物事と時勢の本質をつかもうとしていた。となれば、かれのこの亡命は世間からの逃亡ではなく、次代を追い求めるためのむしろ追跡行であったともいえる。
 が、晋作という若者は複雑で、
 (そうでもないさ)
 と、そういう自らの気負いだちを嘲笑するようなところがある。
 妙な男だった。この船中、しんから心細げなおうのをつかまえて、
 「どうせ捨てても拾っても浮世などはたかの知れたものよ」
と、おうのがいよいよ心細くなるようなことをいうのである。

■幕府艦隊に対する戦法を思案しきる。思案はつねに短切の晋作

<本文から>
 −二階を拝借します。
 と、丁寧にいいながら、そのまま階段をのぼってしまった。あとは、物音もしない。
 文右衛門の妻女が、お茶か酒でももってあがろうかと声をひそめて文右衛門に相談したが、文右衛門はためらった。そっとして差しあげるべきではないかともおもったが、しかし、
 −ちょっと、ご様子を見て来よ。
 とささやき、妻女にのぼらせた。妻女が足を忍ばせてのぼると、晋作の体が逆になっていた。両足が天井のほうを指して、頭が畳の上にころがっている。両手でその後頭部をかかえていた。
 「ちょうど越後獅子のようなかっこうで、両足を床柱に沿うて高げていらっしゃいます。息をわすれたようにものを考えていらっしゃるご様子で、そのため声をおかけせずにひきさがりました」
 晋作は一時間ほどそうしていた。
 やがて降りてきて草履をはき、
 −たいへんお邪魔しました。また参ります。
 と言い、出てしまった。「また参ります」といったが、このときが文右衛門にとって晋作を見た最後になった。この一時間、階下にいる文右衛門家の者たちまでが息の詰まるような物苦しい空気を感じたと回顧しているが、晋作の様子にそういうものがあったのであろう。
 この一時間のあいだで、晋作は幕府艦隊に対する戦法を思案しきった。この男の生涯がみじかかったように、この男には長考という習性がなく、思案はつねに短切であった。というよりすぐれた剣客の剣技のように行動そのものが思案になっており、かれの、ときに飛鳥のような、ときに潜魚のような行動の振幅と起伏そのものが熟慮しきった結果であるかのように、つねに政機に嵌り、さらにはつぎの政機をよびおこすさそい水になるというかっこうであったが、三田尻の貞永宏の二階での一時国は、おそらくかれの生涯で最長の長考であったであろう。
 かれは丙寅丸にとび乗った。
 船は蒸気をあげて動きだし、やがて周防沿岸の多島海を直進した。海上を六十キロばかり走ると、細い半島が大きく南に突き出している。その半島の先端に接続して長島という島があり、半島の岬と島のあいだが海峡になっていて、その海峡に上ノ関という古い港がある。その上ノ開港に長州藩兵が入っていることを晋作は知っていた。
 この陸兵は、山口の政事堂を作戦本部にしている村田蔵六が派遣した兵で、兵力は第二奇兵隊二百人ほどを中心に他は土地の百姓兵である。隊長は林半七といった。晋作はこの林半七を軍艦までよび、
 「こんな柴舟で」
 と、自分の小さな軍艦の舷をたたき、ろくないくさはできぬがやりようによってはなんとかなる、工夫はこうだ、と作戦を教えた。
 −軍艦の夜襲をやる。
 というのである。

■高杉と松陰より8年の差が歴史の役割を別にした

<本文から>
 晋作の生涯は二十八年でおわる。師の松陰のそれよりもみじかい。
 が、晋作は松陰の死後、八年ながく生きた。この八年の差が、二人の歴史の中における役割をべつべつなものにした。この八年のあいだ、時勢ははげしく転々し、幕府の勢成は大いにおとろえた。八年前、幕府の勢威は長州藩を戦慄させるに十分の力をもっていたことをおもうべきであろう。なにしろ松陰というほとんど無名にちかい書生を、一令もとに萩からひきずりだして江戸伝馬町の獄舎に投じ、さらには虫でも潰すにして刑殺するほどであったが、八年後の情勢のなかにあっては、その書生の門人である高杉晋作のために幕軍の牙営である小倉城が攻めおとされ、幕軍副総督小笠原壱岐守長行が城を脱出して海上に逃げ去るという事態になった。晋作は、松陰より八年ながく生きることにょって、そのことをなしとげた。

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