司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          世に棲む日日・3

■高杉は長州ナショナリズムを高唱し他藩人との連携をきらう

<本文から>
 事をなすにはまず組織が大事だと晋作はいった。
「それも長州人だけの組織であるべきだ。武市半平太のような他藩人を一味に加えたために事が露顕した」
といった。他藩嫌いは晋作の一特徴だが、武市の一件はかれのこの情念を正当化する恰好の材料だったらしく、以後かれは日本革命における長州ナショナリズムを高唱し、他藩人との連携をきらうようになる。
 かれはこの世田谷村若林の禁足所にいたとき、
「御楯組」
という撰夷決行の決死団をつくった。藩邸へ人をやってひそかに同志をつのらせたところ、二十二人を得た。ほとんどが松下村塾の門生あがりである。
 筆頭が高杉晋作であった。副将が久坂玄瑞で、井上聞多も幹部級であろうかつづいて長嶺内蔵太、大和弥八郎、寺島忠三郎、有吉熊次郎、松島剛蔵、赤根武人、品川弥二郎、白井小助、山尾庸三、堀真五郎、佐々木男也、滝弥太郎、三戸詮蔵、山県初二郎、山田市之允、滝鴻二郎、長野熊之允、岡田半蔵、冷泉雅次郎、槍崎八十郎……と、名前を書きならべてくると、このうち維新後まで生き残った者はわずか五人しかいない。
 ほどなく禁足をゆるされると、晋作はさっそくあたらしい企画を実現しようとした。
 秘密保持のため、その内容は久坂玄瑞と井上聞多にだけ話し、ほかに寺島忠三郎をよび、
 「焼玉がつくれるか」
と、きいた。焼玉とは抱烙玉ともいい、古来、軍用の放火材である。桐炭の粉末にたっぷり煙硝を入れてタドン大の大きさにし、まるく紙でつつみこんだもので、それに導火線がついている。寺島忠三郎は山鹿流兵学をまなんでいたからその技術があった。晋作は九個つくることを命じた。
「それも二日のうちだぞ」と言いそえた。まるで首領であった。
 −藩内で志士三十人を得れば、長州藩をにぎることができ、長州藩をにぎれば天下の事は成る。
 というのが、晋作の唯一の、といっていい戦略実践論であった。あとは天賦のかんによって、その場その場で絵をかいてゆけばよい。
 この間、長州の江戸藩邸の同志の人数が減った。若殿の長門守が帰国したため、その随員になった者や、あるいは江戸にきていた勅使三条実美が京へ去るため、それに随行した者などがあって、晋作が動員できる人数はすくなかった。
 「十二日夜、志のある者は、品川の土蔵相模にあつまってもらいたい」
という命令を、ロから耳へと伝えさせた。前回にこりて秘密主儀をとり、なにをするのかは、言わなかった。伝達者に対して、
 −参加はするが、何をするのか。
と質問する者もいたが、伝達者も内容は知らない。しかし「どうせ高杉のやることだ」といった。それだけでざっとわかるだろう、と言ったのは、なまぬるい仕事ではあるまい、天下を驚倒させるような騒動をもちあげるのだ、という意味だった。

■晋作の御成橋事件と箱根関所事件

<本文から>
 番士は職務に忠実な男で、それでもなお追いすがってきて、名を名られ、名乗らんか、とわめいた。晋作は馬上ふりかえりざま、
 「長州浪人高杉晋作」
と、いった。
 この御成橋騒ぎも、すぐ幕閣へとどいた。老中の小笠原図書頭が、
−また長州か。
と、掌のくぼで火箸の頭をおさえ、ぎりぎりと手あぶりの底が抜けるほどに掻いた。
 が、これほどの事件でも、幕府は不問に付し、長州藩に形式上の苦情すらいってこなかった。もっとも幕府はのちに復讐した。元治元年、幕府と長州藩が公然と敵対関係に入ったとき、晋作らが松陰を葬った世田谷村若林大夫山(いまの松陰神社)へ人数を走らせ、墓も建物もくだいた。
 「長州」
 ということばをこの場合、晋作が公然と発したのは、自分の長州藩を幕府の敵という立場へ追いこみ、追いこむことによって藩論の統一を遂げ、さらには藩が防長二州(山口県全域)に割拠して対幕戦争をおこす運命に追いやるためであった。晋作の戦略的計算では、幕長戦争がおこれば長州が勝つというおそるべき確信があった。
 この事件の報らせは、国もとにとどいた。
 藩主父子はおどろき、とくに若殿の長門守が井上聞多をよび、
 「晋作に急務がある、すぐに江戸からつれもどすように」
 と、命じた。これ以上晋作を江戸に捨て置けばなにを仕出かすかわからないとおもったのである。「藩主の直命」であるという形式をとったのは、晋作は藩主父子の命令のみはおとなしく従うことを若殿は知っていたのである。
 「日限をかぎっておく」
 と、長門守は聞多にいった。江戸へ十五、六日で達すべし、ということであった。この当時、山口の藩庁から江戸まで急行して二十日はかかった。それを「十五、六日で行け」と命じたのは、この御成橋事件での国もとの動揺ぶりがどういうものであったか、想像がつく。
 結局、晋作はひきもどされた。
 江戸を離れへ箱根の関所を通過するとき、晋作はまた事件をおこした。宿駕籠で乗り打ちをするという未曾有の事件をおこしてしまったのである。関所役人たちはさわぎ、駈けわめきつつとりおさえようとしたが、晋作は走る駕籠のなかで太刀の鯉口を切り、大声で、
 「ここは天下の大道ぞ、幕法こそ私法ぞ、私法をかまえて人の往来を制する無法があってよい
か」
 と、雲助をはげましはげまししてついに関所破りをしてしまった。江戸三百年のあいだ白昼公然と関所をやぶったのは、この男だけである。

■晋作は大乱世を現出する以外に革命の道はないとした

<本文から>
 それやこれやで、幕府は長州藩を目のかたきにしはじめ、このあとさかんに宮廷工作をして親幕派の親王や公卿をあつめ、長州藩の戦略を封じてしまおうとした。その傾向に薩摩藩が同調した。政局は、複雑になった。
 「いっそ、将軍を暗殺してしまおう」
 と不意に発案したのは、晋作である。事実、この「狂生」とみずから名乗る男は、この実行準備にとりかかった。大楽源太郎以下二十一人の決死隊まで組織した。晋作は、本気であった。
 「年少可憐な家茂の命をちぢめるのは気の毒であるが、日本国を一新するためにはやむをえぬ」と、大楽源太郎に語っている。大楽は松下村塾には無縁だが、長州におけるもっとも過激な撰夷家で、性格は多分に狂質を帯び、いわば暗殺狂といった人物であった。晋作は平素からこの大楽を軽蔑していたが、しかしこういう非常の一挙には欠かせぬ男とみて、仲間に加えた。
 「将軍を斃せば、撰夷が成るか」
と、この狂信的な撰夷家は、晋作に念を押した。晋作は笑って、
 「成る成らぬよりも、幕府が長州藩へ攻め寄せてくる。日本中が蜂の巣をつついたようにになって、元亀天正の戦国乱世にもどるはずだ」
 と、いった。晋作の理論は久坂とはちがい、いったん大乱世を現出する以外に革命の道はない、というものであった。安政末年に死んだ松陰などが、思いもよらなかった戦略論である。

■晋作は自身の舞台を知っていた

<本文から>
 かれの当時、絶望という日本語がなかった。困ったという言葉があった。
「わしは一生、配ったと思ったことがなく、ロに出したこともない」
 というのが、晋作の晩年の述懐であった。そういえばかれのまわりの仲間たちは、晋作がこまったという言葉を吐いたのを見たことがない。
 そのくせ、かれの日常は、放蕩に沈滴して一見、絶望的な詩人の日常に似ている。
 なぜだろう、ということは、晋作自身がよく知って−たれにも洩らさなかったにせよ−ひそかに自分をなぐさめていた。歴史が、かれの出るべき舞台の幕をまだ明けていないからであった。出るべき幕というのは、歴史が物狂いする大騒乱の場面である。
(それまでは、おれのこの狂気と猛気をもてあまして、身もだえして暮らさなければならない)
 とおもっていた。かれほど、自分が果たすべき歴史のなかの役割を、生存中から知りぬいていた男もめずらしい。もっとも、彼自身以外にそれを彼にそう指摘した人物がいた。師の松陰であった。「十年ほどはなにもするな。十年すれば時勢が君を必要とする。それまでは、両親には孝行をし、藩に対しては忠実な艮更となり、妻子を愛して暮らせ」といった。その待ち時間における暮らし方については、晋作はこの師のことばがどうしてもまもれない。

■晋作は毛利家への忠誠と長州が滅び幕府も滅ぼす革命との矛盾を克服

<本文から>
「長州が滅ぶかわりに幕府もほろび、それによって自然のいきおいであたらしい秩序がどろどろと地中からせりあがり、湧きあがつて、いままでにない日本をつくりあげる。その見本こそ、列強の侵略に堪えうる日本である」
 というもので、おそるべき自己犠牲論で、いわば長州藩が幕府に抱きついて海中にひき入れ無理心中を遂げてしまうというものであった。
 余談ながら、のちの情勢が晋作のおもうとおりになった。幕府は第一次、第二次の長州征伐を号令し、長州は悲惨な運命におちてしまったとき、晋作は焦土俄術を呼号しつつも、
「いよいよとなればもはや詮なし。おれは藩主御父子をひっかついで朝鮮へ亡命するだけだ」
と、いった。
 この一言は、かれの底の底に秘めてきた大戦略を、はじめてロにのぼらせたということで注目してやるべきであろう。晋作は長州藩を藩ぐるみ火中に投げこんでしまうほかに、日本革命の方法はないとみていた。
 ただここで、かれの悲痛さは、数多い長州人という人間集団を、どのように検し、どのように見ても、この男ほど毛利家に対して忠誠心のはげしい男はまずないということであった。まるで、鎌倉武士が自分の御主に対して犬のように忠実であったように、あるいはそれ以上に古風な忠誠心をもっており、さらにかれの忠誠心というのはものしずかなものではなく、かれの性根のなかでたえず息づいている矯激な詩人気質によってつねに湯のように沸りたち、つねに爆発する契機を欲しているという激情的なものであった。
 そういうかれが、
 −毛利家も長州藩もつぶしてもいい。
 という理論に立ちいたっているだけに、その思想的苦痛は悲愴を通りこしたものであり、その悲愴につねに堪えているだけに、その言動が、仲間たちを飛びあがらせるほどに奇矯で激烈で、しかも結局は歴史がかれの思惑どおりにゆくという、いわば革命の神のような(田中光顕などからみれば)存在にかれを仕立ててゆくのである。
 晋作は、自分の意志力のなかで、藩の存在と革命の矛盾をむりやりに克服しているだけに、その思想的激痛のあまり、ときに仲間を殺したりした。たとえば幕府の第二次長洲征伐のとき、藩の対立があやぶまれた。このとき、藩をすくうために、晋作たちの同志だった赤根武人(松陰の準門下。長州藩領の小さな島の出身で、はじめは首姓身分であった)が、新選組に身をあずけ、それを通じて幕府のふところにとびこみ、藩の安全をはかろうとした。この和睦論者を晋作が激怒し、激怒したことばに、
 「百姓になにがわかるか」
という、当時の志士としては禁句の差別言葉を吐いた。かれはさらにいった。
 「おれは先祖代々の毛利家の侍だ。うまれがちがうのだ」
といったのは、自分の家柄を誇ろうとしたのではなかった。そういう自分が長州藩という大屋台を焼いて灰にしようとしている。灰にする悲痛さを、赤根のような百姓あがりの一代藩士にわかるか、ということであった。

■長州藩自滅の戦略をもっていた

<本文から>
 幕末の志士のなかで、ある意味では高杉晋作がもっともわかりにくい人物のひとりかもしれない。
「長州藩はほろぶべきだ」
 という異常な−長州人がきけばのけぞっておどろくであろう−前提を、かれはその行動や思想の底の底に秘めつづけていたからである。もっともたれにも洩らさなかった。しかしかれのすべての言動はここから出ており、であればこそ、
「晋作はどうも奇想天外でこまるL
と、晋作びいきの重役周布政之助でさえしばしば頭をかかえこんだし、晋作の仲間の桂小五郎(のちの木戸若)や久坂玄瑞も、晋作を内心もてあましながらもその雷鳴電光のような全存在に強烈な畏敬の念をもっていた。
 −長州藩を自滅させる。
 ということは、くりかえしていうが、それが晋作の日本革命の基礎戦略論につながったことであった。これは松除からうけついだ。ただし松陰は長州藩主への忠純な家臣として、そのことを明言することをおそれ、ついに明瞭にはいわなかったが、その思想のゆきつくところや文章の勢いからみれば、結局はそうなる。晋作だけが、松陰のその黙示的な結論をよみとっていた。

■晋作は皮肉にも攘夷戦争の時には坊主になっていた

<本文から>
 藩が藩ぐるみで発狂してしまったのである。亜流の時代がきた。松陰は洋式兵器や技術の導入を説いてきたが、亜流たちは、洋式砲術家中島名左衛門が「西洋かぶれである」一という理由で殺すにいたった。松陰の思想は、死んだ。
「時勢とは、まったく面妖なものだ」
 と、晋作は、世間という箱につまっている人間というこのいかがわしい生物群にあきれる思いがした。
 で、さらに、
 (ここにも、皮肉と滑稽がある)
 と、晋作がおもったのは、当の自分のことであった。この存在も、滑稽ではないか。高杉晋作といえば、撰夷長州人のなかでもとびきりの親玉として世間にきこえていたのに、いざ藩が関門海峡で撰夷戦をはじめたとき、この男だけは萩城外の山で、頭をまるめて坊主になっているめである。
 (まったく、浮世は妙なものだ)
 とわれながらおかしくなる。攘夷戦争に出てゆく気もしないのである。
 最初、海峡の戦ささわぎをこの山へつたえに来てくれたのは、妻のお雅であった。お雅がこの空前の大事件をつたえても、晋作は、
 「ああ」
といったきり、気乗りのない表情をした。攘夷屋の晋作なら当然、刀をつかんで下関へかけつけるべきではないか。
 「いったい、どうなるのでございましょう」
 と、お雅が不安のあまりつぶやいたが、晋作はだまっていた。が、晋作の胸に、炬のようにあかあかとした確答があった。藩はかならず亡ぶ、ということである。夷人どもは大艦をつらね、大挙して再来するにちがいない。そのときは長州武士がいかに刀槍をふるっても、敵うものではない。そのことは、上海で知った。防長二州は砲火で焼け、焦土になる。
 (ならねばならぬのだ).
というのが、松陰にはなかった晋作の独創の世界であり、天才としか言いようのないこの男の戦略感覚であった。敵の砲火のために人間の世の秩序も焼けくずれてしまう。すべてをうしなったとき、はじめて藩主以下のひとびとは狂人としての晋作の意見に耳をかたむけ、それに従ろうとするにちがいない。
 (事というのは、そこではじめて成せる。それまで待たねばならぬ)
 と、晋作はおもっている。それまでは、藩は敗戦の連続になる(いまは連戦連勝だが)にちがいない。そういう敗軍のときに出れば、敗戦の責めをひっかぶる役になり、人々は晋作を救世主とはおもわなくなるだろう。ひとに救世主と思わさなければ何事もできないことを、晋作はよく知っていた。

■藩が焦土になることを予見、冷静な戦略

<本文から>
藩はかならず亡ぶ、ということである。夷人どもは大艦をつらね、大挙して再来するにちがいない。そのときは長州武士がいかに刀槍をふるっても、適うものではない。そのことは、上海で知った。防長二州は砲火で焼け、焦土になる。
(ならねばならぬのだ)
 というのが、松陰にはなかった晋作の独創の世界であり、天才としか言いようのないこの男の戦略感覚であった。敵の砲火のために人間の世の秩序も焼けくずれてしまう。すべてをうしなったとき、はじめて藩主以下のひとびとは狂人としての晋作の意見に耳をかたむけ、それに縋ろうとするにちがいない。
(事というのは、そこではじめて成せる。それまで待たねばならぬ)
 と、晋作はおもっている。それまでは、藩は敗戦の連続になる(いまは連戦連勝だが)にちがいない。そういう敗軍のときに出れば、敗戦の費めをひっかぶる役になり、人々は晋作を救世主とはおもわなくなるだろう。ひとに救世主と思わさなければ何事もできないことを、晋作はよく知っていた。ついでながら長州人のなかで、晋作ほどこの藩を愛した者もいないが、反面、晋作ほどこの藩がこれから辿るべき悲惨な運命を、火を見るような瞭らかさで予見していた男もすくない。さらに予見しっつもそれを冷酷にながめようとしていた男は、かれのほか皆無であった。かれが英雄とか天才といわれる存在であるとすれば、かれがやったかずかずの奇策などにそれがあるのではなく、この雄渾というほかないような心胆にあるらしい。

■「奇兵隊」の創設から明治維新は出発するといっていい

<本文から>
 元来、長州藩の軍制は、八組にわかれている。八個軍団ともいうべきもので、いまその八個が動員され、甲胃を着て下関界わいに出陣している。総大将(総奉行)は御一門からえらばれ、毛利宣次郎という者が宋配をとっている。そのことはすでにのべた。
 (それを押しのけるわけにもいかない)
 晋作は、おもった。
 当然であった。「八組」は藩秩序そのものであり、いかに晋作が乱暴でも毛利宣次郎を押しのけて指揮権をにぎるわけにもいかない。げんに藩主父子の命令は、
 −毛利宣次郎にとってかわれ。
 とはいっていないのである。藩主父子はじつにあいまいな命令を晋作にくだした。「馬関防衛にあたれ」というだけであった。いかにもお人好し藩主の命令らしい。
 −とあれば、ここで奇兵を興す以外にない。
 と、晋作はそういう結論を出していた。奇とは、正に対する言葉である。八組が藩の正規部隊であることは晋作もむろんみとめていた。その正規部隊に対し、「奇」である。非正規部隊であった。
 (あらゆる階級から募る)
 というものであった。足軽よし、陪臣よし、門番中間のたぐいよし、町人よし、百姓よし、というとほうもない階級無差別の軍隊で、晋作にいわせれば、
 「みな志をもつ者」
 ということになるが、これはこの封建時代ではこういう軍隊を成立させることじたいが革命的であった。封建社会の秩序と安定は、身分に等級をつけることによってできあがっている。たとえば百姓町人には大小も差せないし、姓も名乗れない。ところが晋作の「奇兵」構想では、それを一挙にゆるしてしまおうというのである。もはやその瞬間から封建身分社会が崩れたことになるであろう。げんにこの「奇兵隊」の創設から、明治維新は出発するといっていい。
 とはいえ、晋作は、
  −武士の世をおわらせてやろう。
 とまでは口に出して言ったことはない。

■禁門の変という発狂集団が晋作を乗り越えた現象

<本文から>
 集団の時代がきた。集団というものの生物的生理が発狂状態へ騰がるとき、個々の「狂者」などはない。狂であるための個人的危険性もなかった。発狂集団のなかにいればかえって安全であった。たとえばねずみが大密集団をつくってむらがりもみあいしつつ移動するように、その中にいればかえって安全であった。すでにそれは狂の栄光を背負った思想者としての行動ではなく、集団のもつ比重現象のようなものであった。それがはじまった。はじまったときは晋作は、かれがつくった奇兵隊の隊士の一部からさえ、
 「高杉は因循」
 とまで、ののしられていた。かれらがひとりもかれの獄をたずねて来なかったのは、そういうためであった。ねずみの大波が、晋作を乗りこえてしまったのである。かれらには松陰の思想もなく晋作の戦略もなかったが、狂という一点では、松陰や晋作よりも百倍も狂であった。
 (考えられる)
 と、いままで日本一の狂者をもって任じていた晋作は、かれが人として属しているこの人間社会のもつ奇怪な生理について考えこまされた。獄中で答えを書籍から得ようとした。書籍にはこの奇怪さについてはなにも書かれていない。師の松陰も、この現象を知らずに死んだのである。
 結局、晋作の在獄中、すさまじい現象がおこった。それへ触れるについて、それより前、獄中の晋作の日常の繰りかえしをやぶる事件がおこったことをふれておかねばならない。
 ある日、突如周布政之助があらわれたのである。周布は政務役の筆頭であり、かれも松陰や晋作と同様「狂」の仲間であった。晋作や久坂らは、周布のことを、
 「周布先生」
 とよんでいたことは以前に触れた。周布は狂の仲間どもの保護者であり、久坂玄瑞を秘書同然にして狂の政治方針をもって藩のかじをとっていた。その周布の狂も、藩内で爆発した集団発狂の大波にのりこえられてしまったのである。
 「進発」
 と、発狂派はよんでいた。京都への進軍のことであった。この進発を、周布は八方駈けまわって抑えにおさえていたが、ついに周布はその発狂派から、晋作同様、
 一周布もまた因循派に与した。
 といわれ、その徒党のグループからつけねらわれるという滑稽な、しかし安政以来の狂である周布にすれば痛憤やるかたない事態にまでなった。
 「あんたがけしかけたからだよ」
 と、在来の保守派(佐幕派)からも周布は嘲罵され、嘲罵されただけでなく、その保守派のある者が、発狂派の若者に接触して周布を軍陣の血祭りにせよ、とけしかけているむきもあった。
 周布としてはこれほどばかばかしくもおろかな時代をむかえようとは思わなかった。
 かれはこの日、山口から萩城下に出てきていた。昨夜、土屋矢之助という友人宅でとまり、朝、迎え酒をし、そのまま酒を飲みつづけていた。

■クーパーの租借要望を晋作は象徴的大演技で阻止

<本文から>
 −もし英国がそれを申し出れば、別な理由をかまえて反対せよ。
 と、訓令してあった。別な理由とは、下関港は市街前面において大型船舶の碇泊に適しないこと、碇泊しようとすれば対岸である小倉藩領田ノ浦までゆかねばならぬことなどであった。
 が、ジョレス提督としても、長州藩がクーパー提督の申し入れを簡単に受け入れてしまえば、どうすることもできない。ジョレスは、
(どうなるか−)
 と、魔王を見つめた。
 ところが魔王には、租借うんぬんという言葉の概念がよくわからないのである。ただかれはかって上海にゆき、そこが外観内実ともに西洋の港市になっていることを見、さらにシナ人が奴僕以下にあつかわれていることを見た。租借とはその上海になることかと直感したのは、多分に絵画的直感であったとしても、正確であった。
 「それはならぬ」
 とこの魔王は言わず、いわば気が狂ったように象徴的な大演技をはじめたのである。かれは大演説をした。しかもその言葉は、アーネスト・サトウという語学的天才をもってしても通訳しかねる日本語であった。晋作は、古事記・日本書紀の講釈をはじめたのである。
 「そもそも日本国なるは」
 と、晋作は朗々とやりだした。
(中略)
 と、やり、つづいて天照皇大神の代になり、天孫頓頓杵尊へ神勅をくだしてのたまわく、と説き、その神勅を披露し、えんえんとして晋作の舌はとどまるところがない。
 長州藩も四カ国側も、ぼう然としている。晋作はできれば、これを二日間ほどやり、そのあげく日本は一島たりとも割譲できない、というつもりであった。
 が、クーパーのほうが折れて出た。
 「私は、租借のことは撤回したい」
 と、クーパーはいった。晋作の象徴的大演技は、ようやくこれでおわった。
 通訳の伊藤俊輔も、
 (高杉は、狂ったのではないか)
 と正直なところ思った。
 伊藤が、晋作のこのときの大演技がその象徴性とその機略という意味でもっとも高級な政治能力から出ているということをうすうす気づいたのは、後年になってからであった。

■九州亡命中に自立割拠論を骨髄の底から覚悟

<本文から>
日が、過ぎてゆく。
 高杉晋作の九州亡命三週間というのは、妄無意味な、失望の日々といえるかもしれなかった。かれも、そうおもった。が、結果からみれば、かれが参加した日本史にとってこれほど重大な期間はないかもしれない。
 −長州は長州で立つ。
 という、かれの有名な自立割拠論を骨髄の底から覚悟したのはこの期によるものであった。
 この覚悟は、のちのかれの信じられないほどの壮大な行動を生むもとになった。
 ただ、身の置き場所がない。
 「天下にただ一ヶ所、あなたを匿ってくれるところがある」
 と、中村円太がいったのは、肥前田代からの帰路である。
 中村のいうところでは、福岡城外の平尾という地に小さな丘があり、その中腹に森を背負った一個の別荘がある。そこに女流歌人が住んでいる、という。
 「風流な話だが、私にはだめだな」
 晋作は、笑いだした。猫が鰹節を入れた袋戸棚に入るようなものだ、というのである。
 「しかし少々お齢を召しておる」
と、岩ッ面の中村円太は、諧謔を含んでいった。美人ではあるが、いまは余香があるのみだ、と中村はいった。野村望東尼のことである。

■世界革命史上独自の革命戦略

<本文から>
晋作ほど自分が、
「長州男児」
 であるということを誇りにおもっている男もすくないが、その彼でさえ、長州藩という存在の影響力がここまで大きいということは知らなかった。その理由は長州藩は単に藩ではなく、一個の政治思想団体であるということだった。
(長州を一変させれば、天下を一変させることができる)
という、世界革命史上独自の革命戦略をかれがもつことができたのは、この九州における三週間の亡命生活によってであった。

メニューへ


トップページへ