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<本文から>
事をなすにはまず組織が大事だと晋作はいった。
「それも長州人だけの組織であるべきだ。武市半平太のような他藩人を一味に加えたために事が露顕した」
といった。他藩嫌いは晋作の一特徴だが、武市の一件はかれのこの情念を正当化する恰好の材料だったらしく、以後かれは日本革命における長州ナショナリズムを高唱し、他藩人との連携をきらうようになる。
かれはこの世田谷村若林の禁足所にいたとき、
「御楯組」
という撰夷決行の決死団をつくった。藩邸へ人をやってひそかに同志をつのらせたところ、二十二人を得た。ほとんどが松下村塾の門生あがりである。
筆頭が高杉晋作であった。副将が久坂玄瑞で、井上聞多も幹部級であろうかつづいて長嶺内蔵太、大和弥八郎、寺島忠三郎、有吉熊次郎、松島剛蔵、赤根武人、品川弥二郎、白井小助、山尾庸三、堀真五郎、佐々木男也、滝弥太郎、三戸詮蔵、山県初二郎、山田市之允、滝鴻二郎、長野熊之允、岡田半蔵、冷泉雅次郎、槍崎八十郎……と、名前を書きならべてくると、このうち維新後まで生き残った者はわずか五人しかいない。
ほどなく禁足をゆるされると、晋作はさっそくあたらしい企画を実現しようとした。
秘密保持のため、その内容は久坂玄瑞と井上聞多にだけ話し、ほかに寺島忠三郎をよび、
「焼玉がつくれるか」
と、きいた。焼玉とは抱烙玉ともいい、古来、軍用の放火材である。桐炭の粉末にたっぷり煙硝を入れてタドン大の大きさにし、まるく紙でつつみこんだもので、それに導火線がついている。寺島忠三郎は山鹿流兵学をまなんでいたからその技術があった。晋作は九個つくることを命じた。
「それも二日のうちだぞ」と言いそえた。まるで首領であった。
−藩内で志士三十人を得れば、長州藩をにぎることができ、長州藩をにぎれば天下の事は成る。
というのが、晋作の唯一の、といっていい戦略実践論であった。あとは天賦のかんによって、その場その場で絵をかいてゆけばよい。
この間、長州の江戸藩邸の同志の人数が減った。若殿の長門守が帰国したため、その随員になった者や、あるいは江戸にきていた勅使三条実美が京へ去るため、それに随行した者などがあって、晋作が動員できる人数はすくなかった。
「十二日夜、志のある者は、品川の土蔵相模にあつまってもらいたい」
という命令を、ロから耳へと伝えさせた。前回にこりて秘密主儀をとり、なにをするのかは、言わなかった。伝達者に対して、
−参加はするが、何をするのか。
と質問する者もいたが、伝達者も内容は知らない。しかし「どうせ高杉のやることだ」といった。それだけでざっとわかるだろう、と言ったのは、なまぬるい仕事ではあるまい、天下を驚倒させるような騒動をもちあげるのだ、という意味だった。 |
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