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<本文から>
高杉晋作が松下村塾にいた期間も、伊藤博文とおなじで、一カ年ほどであった。かれは在塾の安政五(一八五八)年七月、藩命によって幕府唯一の官学である昌子平こうに入学することになり、松陰とわかれ、萩を発った。
このとき松陰は高杉と村塾における最後の座談をし、さらに久坂と高杉を比較する文章をかいて高杉にみせた。
その文章のなかで、松陰はいう.
「自分はかつて同志のなかで、若くて多才なものを人選したことがある。久坂玄瑞をもって第一流とした。その次に、高杉がやってきた。高杉は知識の豊富な士である。しかし学問は十分でなく、その議論も主観的にすぎ、我意がつよすぎた。だから自分はことさらに久坂をほめちぎることによって高杉の競争心をあおり、学問させようとした。この自分の方針や態度を高杉ははなはだ気に入らなかったらしい。しかしその後、高杉の
学問は暴に長じた。議論もいよいよ卓れてきた。塾の同志たちも高杉に心服するようになった。自分も、なにか議論を言うときに、暢夫(高杉のこと)に問い、アンタハドウオモウカ、とかれの意見をきいてみてそれから結論を出した」
久坂も友人として高杉を尊ぶようになった。あるとき松陰に、
「高杉の学殖には自分はとうていおよびません」
といった。高杉も久坂には一歩をゆずり、
-久坂の才には及びません。
と、いった。松陰はそれを書く。
「二人に共通しているのは、気が充盗していることである。それでもって高杉の識と久坂の才とが組みあって一つのしごとをすれば天下におそるるものはない」
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