司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          世に棲む日日・2

■松陰の高杉観

<本文から>
 高杉晋作が松下村塾にいた期間も、伊藤博文とおなじで、一カ年ほどであった。かれは在塾の安政五(一八五八)年七月、藩命によって幕府唯一の官学である昌子平こうに入学することになり、松陰とわかれ、萩を発った。
 このとき松陰は高杉と村塾における最後の座談をし、さらに久坂と高杉を比較する文章をかいて高杉にみせた。
 その文章のなかで、松陰はいう.
「自分はかつて同志のなかで、若くて多才なものを人選したことがある。久坂玄瑞をもって第一流とした。その次に、高杉がやってきた。高杉は知識の豊富な士である。しかし学問は十分でなく、その議論も主観的にすぎ、我意がつよすぎた。だから自分はことさらに久坂をほめちぎることによって高杉の競争心をあおり、学問させようとした。この自分の方針や態度を高杉ははなはだ気に入らなかったらしい。しかしその後、高杉の
学問は暴に長じた。議論もいよいよ卓れてきた。塾の同志たちも高杉に心服するようになった。自分も、なにか議論を言うときに、暢夫(高杉のこと)に問い、アンタハドウオモウカ、とかれの意見をきいてみてそれから結論を出した」
久坂も友人として高杉を尊ぶようになった。あるとき松陰に、
「高杉の学殖には自分はとうていおよびません」
といった。高杉も久坂には一歩をゆずり、
−久坂の才には及びません。
と、いった。松陰はそれを書く。
「二人に共通しているのは、気が充盗していることである。それでもって高杉の識と久坂の才とが組みあって一つのしごとをすれば天下におそるるものはない」


 

■松陰の第三段階の革命観

<本文から>
 松陰は革命のなにものかを知っていたにちがいない。革命の初動期は詩人的な予言者があらわれ、「偏癖」の言動をとって世から追いつめられ、かならず非業に死ぬ。松陰がそれにあたるであろう。革命の中期には卓抜な行動家があらわれ、奇策縦横の行動をもって雷電風雨のような行動をとる。高杉晋作、坂本竜馬らがそれに相当し、この危険な事業家もまた多くは死ぬ。それらの果実を採って先駆者の理想を容赦なくすて、処理
可能なかたちで革命の世をつくり、大いに栄達するのが、処理家たちのしごとである。伊藤博文がそれにあたる。松陰の松下村塾は世界史的な例からみてもきわめてまれなことに、その三種類の人間群をそなえることができた。ついでながら薩摩藩における右の第一期のひとは島津斉彬である。第二期人が西郷隆盛であったが、かれは死なずに維新を迎えた。それだけに「理想」が多分にありすぎ、第三期の処理家たちにまじわって政権をつくることができず、十年後に反乱し、芽末に死ぬべき死をやっと遂げた。
「十年まて」
と、松陰が高杉にすすめたのは、高杉を右の第二期の人たらしめようとしているようであり、その点でかれの高杉へのこの垂訓ほきわめて予言性が高い。

■高杉は思想家でなく現実家


<本文から>
 が、高杉晋作という人物のおかしさは、かれが狂信徒の体質をまるでもっていなかったことである。このことは、松陰の桐眠がすでに見抜いていた。
「君らはだめだ、なぜならば思想に殉ずることができない。結局はこの世で手柄をするだけの男だ」
 と、あるとき松陰は、絶望的な状況下でその門人たちを生涯に一度だけののしったが、おそらく松陰はとくに高杉をめざして言つたのであろう。
 晋作は思想的体質でなく、直感力にすぐれた現実家なのである。現実家は思想家とちがい、現実を無理なく見る。思想家はつねに思想に酪酎していなければならないが、現実家はつねに醒めている。というより思想というアルコールに酔えないたちなのである。

■晋作固有の狂

<本文から>
 晋作ほどその生涯において、
「狂」
 という言葉と世界にあこがれた男もまれであろう。かれ以外の人物では、かれの師匠の松陰がいるくらいなものであった。松陰はその晩年、ついに狂というものを思想にまで高め、「物事の原理性に忠実である以上、その行動は狂たらざるをえない」といったが、そういう松陰思想のなかでの「狂」の要素を体質的にうけついだのは、晋作であった。晋作には、固有の狂気がある。

■正気ではなく狂気で革命を、毛利家は天皇の直臣と言い出す

<本文から>
 現実認識からいえばこの毛利元就いらいの長州藩の「勤王」というのは、多分に儀礼的なものであった。さらには家名を装飾するためのものにすぎなかったが、しかしそれをそう認識せず、この儀礼的事実を革命思想にまで大転換させたのは、なんと吉田松陰という青年であった。思想とは、ひとつの巨大な虚構でぁるであろう。
 松陰は、
「毛利家は幕府の大名ではなく、天皇の直臣である」
とさえ言いだした。そういう歴史的事実があるべきはずがないが、
松陰にすれば、
「思想」という濃厚なフィルターをかけてこれを視れば、そのようにならざるを得ず、また思想的真実とは、そうあらねばならぬということになるのである。
 松陰がこの議論を言いだした当時、藩学の総帥(藩校明倫館の館長)山県太華は、
「そんなばかなことがあるか」
 と、堂々たる反論に出た。山県にいわせれば毛利家は武家で、武家の棟梁である将軍に属し、その将軍から封地をもらっている。法制上からも実際も、天皇から封地をもらったことがないから、天皇の直臣であるはずがない、というものであり、法理論からみても現実認識論からみても、山県のほうが正しい。
 が、松陰にすれば現実を語っているのではなく、思想という虚構を語っている。山県の意見がいかに正しくとも事実認識の合理精神からは革命はうまれないであろう。松陰は、山県に対して懸命に弁駁した。松陰は晩年、
「思想を維持する精神は、狂気でなければならない」
 と、ついに思想の本質を悟るにいたった。思想という虚構は、正気のままでは単なる幻想であり、大うそにしかすぎないが、それを狂気によって維持するとき、はじめて世をうごかす実体になりうるということを、松陰は知ったらしい。

■上海で考えを一変し開国へ、しかし攘夷エレルギーで討幕を

<本文から>
 そのように、外国人たちの対日観をあつめてあらためてこの上海の地から日本をながめてみると、晋作の印象では、
 (幕府などは、屁のようなものかもしれん)
 という実感がつよくなった。国内にいるときには徳川幕府というのは天地そのものであり、とてもそれを倒すことなど不可能におもえていたが、上海にきてふりかえると、幕府など単に大名の最大なるものにすぎず、その兵(旗本)は弱兵ぞろいで、二つ三つの大名があつまって押し倒せば朽木のようにたおせるということを、みずみずしい実感でおもった。このことが、晋作の上海ゆきの最大の収穫であったであろう。晋作の「洋
行」はそういう意味で奇妙であった。かれは、上海に行ってから革命をもって生涯の事業にしようと決意したらしい。
 「どうだ、やはり攘夷でゆくかね」
 と、佐賀の中牟田倉之助が、江岸の景観を見ながら晋作に笑いかけたとき、晋作は船の上から鳴るような声で答えた。
 「攘夷。あくまでも捷夷だ」
 といったのは、捷夷というこの狂気をもって国民的元気を盛りあげ、沸騰させ、それをもって大名を連合させ、その勢いで幕府を倒すしか方法がないと知ったのである。開国は、上海を見ればもはや常識であった。しかし常識からは革命の異常エネルギーはおこってこないのである。
 が、晋作がおもうに、日本は西洋化しなければならない。とくに軍事と産業はそいつにかぎるということであった。かれは軍事がすきであった。

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