司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          世に棲む日日・1

■松陰以後

<本文から>
  その毛利氏長州藩が、幕末にいたってふたたび歴史に登場し、最大の革命勢力になり、ついに幕府をたおし、封建制度をつきくずし、この国にあたらしい時代をまねきよせる主導勢力になった。
「それも、松陰以後である」
 と、よくいわれる。
松陰吉田寅次郎という若者が萩城下の東のほうの郊外の松本村の松下村塾で子弟を教えてからのことである、という意味である。それ以前の長州藩というのは、ただの大名であったにすぎなかった。
「ただの大名」
 とは、平凡の大名のように幕府を怖れ、幕府の要人にはすきまもなくつけとどけをし、幕府のいやがること、たとえば国政に口出しすることや京の朝廷に政治的に接近することはいっさいせず、ひたすらに事なかれですごしている藩のことをいう。長州はそれであった。
 松陰が、それを変えた。
 といっても、松陰吉田寅次郎は藩の行政者でもなく、藩主の相談役でもなく、ないどころか、松下村塾の当時のかれは二十七、八の書生にすぎず、しかも藩の罪人であり、その体は実家において禁錮されており、外出の自由すらなかった。この顔の長がい、薄あばたのある若者のどういうところがそれほどの影響を藩と藩世間にあたえるにいたったか、それをおもうと、こういう若者が地上に存在したということじたいが、ほとんど奇蹟に類するふしぎさというよりほかない。
 そのふしぎな若者のふしぎさを、筆者はこの小説(といえるかどうか)で考えてゆこうとするのだが、主人公はあるいはこの寅次郎だけではすまないかもしれない。むしろかれが愛した萩ずまいの上士の子高杉晋作という九つ下の若者が主人公であるほうがのぞましいかもしれず、その気持がいま筆者のなかで日ごとに濃厚になって絡みあい、いずれともきめかねている。いや、いまとなってはその気持のまま書く。

■異常に勉強好きな藩風に松陰は甘えた

<本文から>
 藩は、人間のようである。
 三百ちかくある諸藩は、膚ごとに性格もちがい、思考法もちがっている。人間の運命をきめるものは、往々にしてその能力であるよりも性格によるものらしいが、藩の運命も、その性格によってつくられてゆくものらしい。長州藩は、やがて歴史の激動のなかに入るのだが、松陰のこの時期には、ただの大名にすぎない。ただ異常に勉強好きなところが、変わっている。
 松陰は、
 − ぜひ、自分を江戸にやってほしい。
 とねがい出ると、
 「学問のためなら、もっともである」
 と、その筋々の役人は、みんな好意をもってくれたし、そのための方法を親身に考えてくれた。
 藩をあげて「文武修業のため」という目的なら、一にも二にもこういう調子であり、松陰はこの点、甘ったれていればよかった。松陰は、生涯、藩に対しては甘ったれであった。こういう点の世間苦労のなさが、松陰というこの若者のひとを疑うことを知らぬ明るさを映えだすのに、大きな条件になっていたようにおもえる。
 殿さまが参観交代で江戸へゆく。
 三月に萩を出発する。
 「そのお供ということで」
 という便宜がはからわれた。ついでに藩庁では、松陰をふくめて十六人という大量の江戸留学生をえらび、お供させることにした。十六人というのは学問ばかりでなく、剣術も槍術もある。みな、江戸で色あげをする。
 なんでも、江戸である。
 勉強好きなこの藩は、当然ながら中央指向型であり、なにがなんでも江戸を目指したがり、江戸の学問・武術の水準に追っつきたがる。長州藩は本州の西の端にある。はしにあるという距離感からのあせりがそうさせるようであり、この時代、江戸に近い関東の諸藩など、眠っているのも当然であった。

■江戸の留学生活がよくてたまらない松陰

<本文から>
 松陰には、あかごのような無邪気があるらしい。江戸の留学生活が、よくてたまらないようであった。
「なにがうれしいのか、寅次郎いつもよろこびを待つがごとくそわそわしている」
 と、学友がからかったように、まったくのところ、毎朝桜田の御門を出るときなど、江戸の天の下でおどりあがりたい気持である。師匠はみな天下一流の学才であり、きょう塾へゆけばどういう奇蹟が待っているか、というふうな期待がある。
 「とてもいそがしいのです。手紙も書けぬほどなのです」
 と、兄の杉民治に書き送っている。
 「よくばってたくさんの師匠についておりますから、会講が多すぎて」
 という。ついでながらこの会講というのは、説明が要る。
 この時代、塾にゆくといっても、師匠の講義などは月に一度か二度で、それもわずかの時間でしかない。あとは塾生同士がテキストを会読したり、輪講しあったり、討論したりして、互いが互いの砥石になって研きあうという制度である。それを「会講」という。そういう会講が、松陰のばあい、
 「月に三十回ほどあるのです」
 と、いう。欲ばりすぎたのである。そのあいだに、藩邸内の有備館で剣術や馬術のけいこもする。もっともこれは、馬術は二日に一度、それも一時間ばかり。剣術は三日に一度ぐらいの程度である。松陰は、杉家の血すじがそうであるように、運動神経にはやや欠けている。
 運動といえば、松陰は叔父の玉木文之進に手紙を出して、
「藩邸から、安積塾、古賀塾、山鹿塾にかようのに、道のりはどれも一里ほどあって、なかなかの運動になります」
 と言い、すでに「運動」というあたらしい日本語をつかっている。その運動が保健のためにいいということについても、「これなら病気にはなりますまい」と、すでにそんなことをいっている。同時代の中国や朝鮮にはこういう保健思想はなさそうである。

■仲間との約束を守るために脱藩

<本文から>
 松陰は、矛盾している。秩序美を賛美するくせに、同時にものや事柄の原理を根こそぎに考えてみるたちでもあった。原理において正しければ秩序は無視してもかまわない、むしろ大勇猛心をもって無視すべきであると考えている。いや、いまはじめてそのことを考えた。
 −たかが仲間との約束のために、藩命に従わぬばかりか、脱藩し、そのことによってわが身は落魂し、一族は罪におとされる、たかが仲間との約束を守るために。
 と、来原は言おうとしたが、松陰の卓然とした表情をみていると、そういう説論はどうも俗論めいていて言いだしにくかった。
 −われ酒色を青まず、ただ朋友をもって生となす。
 というのは、松陰ののちの言葉である。このときみずからを断崖に立たせながら、松陰はこのことばを胸中でくりかえした。
「自分は、いま国(藩)と家にそむく。しかし一度だけである。あとあとはけっしてそむかぬ。いまそむくのは」
 と、その理由をのべた.
人間の本義のためである。人間の本義とはなにか、一諾をまもるということだ。自分は他藩の者に承諾をした、約束をした。もしそれをやぶれば長州武士は惰弱であるというそしりをまねくであろう。もし長州武士の声価をおとすようなことがあれば、国家(藩と家)に対する罪はこれほど大きいことはない。
「しかし脱藩することによって」
「そう、吉田家はつぶれる。寅次郎は禄をはなれて流浪する。しかしながら、孔子も申されたではないか、小ヲ忍ンデ大ヲ謀ル、と。大いなる義の前には、一身の安全などはけしつぶのようなものだ」
 大いなる義とは、仲間との約束をまもるということであろう。たかが知れた約束ではないかとあるいはひとはいうであろう。しかし松陰というこの純粋思考の徒にすれば、その程度の約束すらまもれず、その程度の義さえおこなえない人間になにができるか、と、深刻に考えている。

■志が成功するかどうでなく、成すことになる

<本文から>
 松陰は、さらにいった。
 「自分はちかごろこう思っている。志操と思想をいよいよ研ぎ、いよいよするどくしたい。その志と思いをもって一世に跨らんとしている。それが成功するせぬは、もとより問うところではない。それによって世から誇られようとほめられようと、自分に関することではない。自分は志をもつ。志士の貴ぶところは何であろう、心をたかく清らかに替えさせて自ら成すことではないか」
 「やり給え」
 と、来原良蔵はいった。この男も、松陰のそのような考え方をきわめて好んでいる。大きく息を吐き、
 「私は、君の義を協けよう。協けることが私の義である」
といった。世間のおとなからみれば、こっけいきわまりない轟かもしれない。しかしこの両人にとっては大まじめであった。
 この場合、来原の覚悟も小さくはない。当然、来原も罪に連座するのである。かれはこのとき、
 −寅次郎に無断発足をすすめたのは百分である。自分を罰せられよ。
 と、藩庁に自首することをひそかに決意した。事実、来原良蔵はそのようにした。当然ながら罰せられた。
 松陰は、出発した。
 予定の日ではない。その前日の十二月十四日である。宮部と江幡に対しては、
 一事情があって前日に発つことをゆるしてもらいたい。水戸の宿で落ちあおう。
と、いっておいた。前日に発つことにしたのは追手のかかることを警戒したためであった。
 十四日、この日は曇っている。松陰はその日記に、この日の天候を、「翳」とかいた。
 「翳。巳時(朝十時)、桜田邸を亡命す」
 松陰は走るような足どりで道を千住にとり、やがて下総の国境をこえたとき、日没に近くなった。

■松陰はふしぎな性格で自分の罪の軽重などいっこうに気にならない

<本文から>
 松陰は、罪人になった。
 判決はまだくだっていないが、ともかくも待罪人として囲もとへ護送される。
 「普通の旅装でよろしい」
 ということが、江戸藩邸の重役から申しくだされた。ふつうなら、腰の大小をとりあげられ、事と次第によっては縄目をうけ、網をかけた罪人護送用の駕籠にのせられて道中するのだが、そこは存外、ゆるやかである。護送のために中間二人がつくだけだという。
 「ということから察すると、罪もどうせたいしたことはあるまい。せいぜい謹慎程度ではあるまいか」
 と、同室の友人たちはなぐさめてくれたが、松陰はふしぎな性格で、自分の罪の軽重などいっこうに気にならない。松陰にはときに少年にすらある処世の智恵とか処世の損得感覚というものがまるで欠けていた。ふしぎな性格というより、そういうことを人間思うべきでないという断乎とした精神が、幼少のころから恐怖をもって作られてきている。叔父であり、師匠でもある玉木文之進が、文之進の講義中松陰が無意識に顔の拝みをかいたというので死ぬほどになぐつた。痒みをかくというのは私情の満足であり、諸悪のもとである、と叔父はいったが、松陰は肉体の恐怖をもってそれを知らされている。いかなる場合でもおのれ一個のことを考えないということが、ほとんど習慣のようになっていた。
 四月十八日、江戸出発。
「吉田さま。藩命によって萩までお供つかまつります。途中、われら両人を泣かせるようなことはしてくださいますな」
 と、江戸を発つにあたり、中間の徳蔵という者がたのんだ。泣かせるようなことというのは、逃亡、自害といったようなことである。そういうことがあると、護送役の中間は罰をうけねばならない。
 「わかっている」
 と、松陰もそういうつもりはなかった。

■「狂」が好き

<本文から>
 松陰は、過激者である。
 ということは、この若者のどの部分から発するのであろう。松陰の他人に対するやさしさや、日常の節度、それに紀行文などにみられるつりあいのとれた物の見方などからすれば、両頬に目覆いをされた馬車馬のような絶対主義的思考者ではなさそうである。かれの視力は、十分に物事の左右前後表裏をみることができたし、その解釈力も柔軟であった。
 しかしその行動は、どうにもならず飛躍する。過激者というより、飛躍者という言葉があれば、それにあたるかもしれない。
 松陰自身、自分の性格について、
「自分は平素人にさからわない。また人の悪を寮する能力がなく、ただ人の善のみを見ようとしている。だから一族の者も友人たちも、あまり悪意をもっておらない」
 と言いながら、
「僕、狂惇をもって家を覆し、身をやぶり」
 などと、いう。
 あるいはまた、
「自分はなにによらず、いらぬ心配をするうまれつきである」
「自分の勇というのはじつは匹夫の勇なのである。本来、自分は才智にとぽしく、思慮が浅い。しかしながら死をおそれぬということが自分の特徴である」
 などと、友人知己に対する手紙などに書いているが、これだけでは松陰がなぜ過激者であり、そうなってゆくかということを解くかぎにはなりにくい。
 過激、急進という政治上の用語は、たとえば英語ではラディカリズムという。辞書をひいてみると、ラディカルとは第一義が「根源的」「根本的」ということで、第二義が、「急進の」「急激の」ということになっており、ラディカリズムの項には、急進主義というほか、根本的改革主義とある。言語学の用語では、ラディカルというのは「語根」ということになっている。
 松陰は、それらしい。
 なにごとも原理にもどり、原理のなかで考えを純粋にしきってから出てくるというのが思考の癖であり、それがかれを風変りにし、かれを思考者から行動者へ大小の飛躍をつねにさせてしまうもとになっているらしい。

■思考は柔軟だが行動は過激者

<本文から>
 松陰は、過激者である。
 ということは、この若者のどの部分から発するのであろう。松陰の他人に対するやさしさや、日常の節度、それに紀行文などにみられるつりあいのとれた物の見方などからすれば、両頬に目覆いをされた馬車馬のような絶対主義的思考者ではなさそうである。かれの視力は、十分に物事の左右前後表裏をみることができたし、その解釈力も柔軟であった。
 しかしその行動は、どうにもならず飛躍する。過激者というより、飛躍者という言葉があれば、それにあたるかもしれない。
 松陰自身、自分の性格について、
「自分は平素人にさからわない。また人の悪を寮する能力がなく、ただ人の善のみを見ようとしている。だから一族の者も友人たちも、あまり悪意をもっておらない」
 と言いながら、
「僕、狂惇をもって家を覆し、身をやぶり」
 などと、いう。
 あるいはまた、
「自分はなにによらず、いらぬ心配をするうまれつきである」
「自分の勇というのはじつは匹夫の勇なのである。本来、自分は才智にとぽしく、思慮が浅い。しかしながら死をおそれぬということが自分の特徴である」
 などと、友人知己に対する手紙などに書いているが、これだけでは松陰がなぜ過激者であり、そうなってゆくかということを解くかぎにはなりにくい。
 過激、急進という政治上の用語は、たとえば英語ではラディカリズムという。辞書をひいてみると、ラディカルとは第一義が「根源的」「根本的」ということで、第二義が、「急進の」「急激の」ということになっており、ラディカリズムの項には、急進主義というほか、根本的改革主義とある。言語学の用語では、ラディカルというのは「語根」ということになっている。
 松陰は、それらしい。
 なにごとも原理にもどり、原理のなかで考えを純粋にしきってから出てくるというのが思考の癖であり、それがかれを風変りにし、かれを思考者から行動者へ大小の飛躍をつねにさせてしまうもとになっているらしい。

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