|
<本文から>
その毛利氏長州藩が、幕末にいたってふたたび歴史に登場し、最大の革命勢力になり、ついに幕府をたおし、封建制度をつきくずし、この国にあたらしい時代をまねきよせる主導勢力になった。
「それも、松陰以後である」
と、よくいわれる。
松陰吉田寅次郎という若者が萩城下の東のほうの郊外の松本村の松下村塾で子弟を教えてからのことである、という意味である。それ以前の長州藩というのは、ただの大名であったにすぎなかった。
「ただの大名」
とは、平凡の大名のように幕府を怖れ、幕府の要人にはすきまもなくつけとどけをし、幕府のいやがること、たとえば国政に口出しすることや京の朝廷に政治的に接近することはいっさいせず、ひたすらに事なかれですごしている藩のことをいう。長州はそれであった。
松陰が、それを変えた。
といっても、松陰吉田寅次郎は藩の行政者でもなく、藩主の相談役でもなく、ないどころか、松下村塾の当時のかれは二十七、八の書生にすぎず、しかも藩の罪人であり、その体は実家において禁錮されており、外出の自由すらなかった。この顔の長がい、薄あばたのある若者のどういうところがそれほどの影響を藩と藩世間にあたえるにいたったか、それをおもうと、こういう若者が地上に存在したということじたいが、ほとんど奇蹟に類するふしぎさというよりほかない。
そのふしぎな若者のふしぎさを、筆者はこの小説(といえるかどうか)で考えてゆこうとするのだが、主人公はあるいはこの寅次郎だけではすまないかもしれない。むしろかれが愛した萩ずまいの上士の子高杉晋作という九つ下の若者が主人公であるほうがのぞましいかもしれず、その気持がいま筆者のなかで日ごとに濃厚になって絡みあい、いずれともきめかねている。いや、いまとなってはその気持のまま書く。 |
|