司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          竜馬がゆく8

■大政奉還へ、幕臣永井に迫る、議論は7分勝ちでよい

<本文から>
 「歴史がかわったのだ」
 竜馬はいった。
「この前古未曾有の時代に、鎌倉時代や戦国時代の武士道で物を考えてはたまらぬ。日本にとっていま最も有害なのは忠義ということであり、もっと大事なのは愛国ということです」
「たれに遠慮もいらぬ君の立場なら、私もそういうだろう。しかし私は幕臣だ。頭でわかっても、情義としても実際の面でもそうはゆかぬ」
「やはり鎌倉武士で行きますか」
竜馬は、皮肉でなく言った。竜馬はこの永井尚志という人物の時勢への理解力がどれほどのものであるか、敬意をこめて知っている。
「鎌倉武士か」
 永井は、吐息をついた。
「場合によっては、そのように生きて行かねばならぬだろう」
「となれば、日本に内乱がおこる。是はつぶれ去るかもしれませんな」
すでに議論は煮えつまった。あとは結論か、最後の言葉があるのみである。この場合、おなじことを中岡慎太郎がいえば、目をいからせ
「永井殿、足下は日本をつぶして徳川家だけが生き残ろうというご魂胆か」
 と、舌鉢するどく切りこんだであろう。中岡は当代もっともすぐれた論客の一人だが、その議論はあまりにも堅牢でしかも鋭利すぎ、論敵に致命傷を与えかねない。
 が、竜馬は、議論の勝ち負けということをさほど意に介していないたちであるようだつた。むしろ議論に勝つということは相手から名誉を奪い、恨みを残し、実際面で逆効果になることがしばしばあることを、この現実主義者は知っている。
 (すでに議論で七分どおり、当方のいうことに相手は服している。あとの三分まで勝とうとすれば、相手はひらきなおるだろう)
 竜馬はそろそろ鉾をおさめようとした。

■大政奉還、後藤への戦慄あふれる決死の手紙

<本文から>
 竜馬がもし将軍慶喜に単独で会える身分ならば、この実の理と利を説き、
「家康が乱世をおさめて三百年の泰平の基礎を築いたのも、歴史への功績である。いまその世襲政権をみずからの手で終息させ即座にあたらしい歴史を打開するとすれば、家康以上の大功であり、徳川家は二度にわたって歴史に貢献することになる。思うても見られよ、古今東西、兵戦を用いず乱をおこさず、ただ国と民のためのみを思ってその政権を他に譲った例があったか。本朝にもなく、唐土にもなく、西洋にもない。そのかって無かった例を日本においてひらく名誉を徳川家は持たれよ」
 と竜馬は、説きたかった。それを説き得れば竜馬はその場で死んでもいい。
 そうおもった。しかしそれらのすべては後藤象二郎に言いつくしてある。聡明で雄弁な後藤はあますところなく将軍に伝えるにちがいない。
 (しかし、それを将軍が拒否したら)
 そのおそれがあるどころか、冷静にみれば十中八九は、悲観的観潮がつよい。むしろ将軍がすらすらと政権を渡すであろうという期待のほうが、童話的であった。将軍はあくまでもなま身の人間で、古代中国の神話に出てくる尭。舜のような聖人ではないのである。
 ただ一縷の期待をかけうるとすれば、将軍慶事が教養人であることだった。慶事の教養の基幹が、その尭・舜をもって理想的君主像とする儒教である以上、西洋や日本の徳川期以前の歴史にないことを一定書が夢想する可能性はある。その夢想が現実の決断になるかどうかは、これは別の問題だが。
「藤吉、硯と筆をたのむ」
と、竜馬は隣室の大男にいった。
やがて藤吉がそれを運んできた。竜馬は後藤に、あすの大事に関する最後の手紙を書こうとするのである。
「建白の儀」
と、まず書いた。相撲あがりの藤吉が磨っただけに墨ほみごとな発色である。
「万一行なわれぎれば、もとより必死の御覚倍ゆえ、御下城なさるまじ」
 後藤は奉要が受理されなければそのまま二条城の毒で切腹して果てる覚悟だ、と竜馬にもいっていた。御覚悟、とはそれを指す。
「もし御下城これなきときは」
 つまり奉還案が拒否され、同時に後藤が死に、このために後藤は下城してこない。そのときは、・・・・・・
「海授隊一手をもって大樹(将軍)参内の道路に待ち受け」
と、竜馬は書く。海援隊の同勢とともに将軍の行列に斬りこみ、将軍を刺して自分も闘死する。地下で貴君と面会することになるだろう、というのである。竜馬にすれば薩長を待たせに待たせた罪をその死でつぐない、同時に討幕の先陣として死ぬつもりであった。
 この文章、三百八十五字、行間に殺気が満ち、鬼気あふれ、藤吉の使いでこの手紙をうけとった後藤は表しておもわず慄えた。

■大政奉還が成った瞬間の竜馬の感激の言葉、共に知らぬ慶喜と2人で歴史を回転させた

<本文から>
一同は竜馬の膝の上の後藤の文章をのぞきこむと、なんと大政奉還の実現がありありと報じられているではないか。
 みな、声をうしなった。首領の竜馬が、依然として言葉を発せず、顔を伏せたままで凝然とすわっているからである。
 やがて、その竜馬が顔を伏せて泣いていることを一同は知った。むりもないであろうとみな思った。この一事の成就のために、竜馬は骨身をけずるような苦心をしてきたことを一同は知っている。
 が、竜馬の感動はべつのことだった。やがて竜馬は体を横倒しにし、畳をたたき、かつ起きあがって、彼等が想像していたこととはまったく別なことを言った。
 竜馬がこのとき吐いた言葉とその光景は、そのまわりにいた中島作太郎、陸奥陽之助らの生涯亡貰えぬ記憶になった。かれらはそれをのちに人に語り、やがてこのときの竜馬の口語が、古格な文語になって語り継がれた。このためこの場合、竜馬の呟きを文語として書くほうが、いっそうに自然であろう。
  大樹公(将軍)、今日の心中さこそと察し奉る。よくも断じ給へるものかな、よくも断じ給へるものかな。予、誓ってこの公のために一命を捨てん。
と声をふるわせつついった。竜馬は自分の体内に動く感激のために、ついには姿勢をささえていられぬ様子であった。
この男のこのときの感動ほど複雑で、しかも単純なものはなかったといっていい。
竜馬は長崎を出発して革命前夜の京におもむくとき、
「アメリカの大統領は下女の給金の心配でするという。日本の将軍は三百年、そういうことをしたことがあるか。この一事をもってしても幕府は倒すべきである」
と、激越な口調で長州の桂小五郎にいった。京に入ってから後藤象二郎に、
「将軍がもしこれを無視するならば、海援隊一手をもって路上に要し、将軍を刺さん」
といった。そのおなじ男がいま畳にわが身を投げつけてうめき、「この公のためには一命を捨てん」といっている。
 日本は慶喜の自己犠牲によって救われた、と竜馬は思ったのであろう。この自己犠牲をやってのけた慶喜に、竜馬はほとんど奇蹟を感じた。その慶喜の心中の激痛は、この案の企画者である竜馬以外に理解者はいない。
 いまや、慶喜と竜馬は、日本史のこの時点でただ二人の同志であった。慶喜はこのとき竜馬という草葬の士の名も知らなかったであろう。竜馬も慶喜の顔を知らない。しかし、このふたりはただ二人だけの合作で歴史を回転した竜馬が企画し、慶喜が決断した。竜馬にすれば、慶喜の自己犠牲への感動のほかに、企画者として、ちょうど芸術家がその芸術を完成させたのとおなじよろこびもあったであろう。

■維新政府の主流を西郷らに譲る、二派分裂をさけるため、大事業は八分までやればいい

<本文から>
竜馬にすれば、事がここまでくれば倒幕急先鋒の三人の大謀略家をひきこみ、あとはむしろかれらを新政府樹立の中心的存在にしてゆこうとしていた。でなければ、革命の流れが、坂本・後藤閥と、岩倉・西郷・大久保閥のふたつにわかれてしまうあろう。
 「おれは、これでひっこむ」
て竜馬はいうのである。昨夜、この竜馬の態度をきいて陸奥はおどろき、
 「冗談ではない」
と大声でいってしまった。
 陸奥のいうのも、当然ではあった。竜馬は薩長連合を遂げ、大政奉還を演じ、いま新官制案をつくった。当然、革命政府の主流の座にすわるべき存在である。
 であるのに竜馬はこれをかぎりに身をひく、という。すべてを岩倉・西郷・大久保の流れに譲りつくしてしまうというのである。
 「すべてを」
 「ああ、それが物事を成就させる道だ。この新官制案も岩倉卿に渡し、岩倉卿の手もとで検討してもらう。西郷と大久保がよいようにするだろう」
 竜馬のいうところは、でなければ岩倉・西郷・大久保という討幕コース派は新政府のなかで別派の閥をつくり、大改革還コースの派と対立する勢力をつくりあげてゆくだろう。
(きっとそうなる)
かれらは、竜馬と後藤に維新政府樹立という最終点で功をうばわれた。西郷の場合は功を奪われても感情の変化をおこすような男ではゆめゆめあるまいが、その周囲やその幕下の者がどう動き、そのように西郷をかつぎあげてどのように暴走するかわからない。
「すべて西郷らにゆずってしまう」
と竜馬がいったのはこの機微を洞察したからであった。いま竜馬が革命政府の主流としてのしあるけば、政権は誕生々から二派にわかれて相克し、ついには瓦解してしまうかもしれない。
 竜馬はこの間の自分の心境を、
「おれは日本を生まれかわらせたかっただけで、生まれかわった日本で栄達するつもりはない」
といった。さらに、
「こういう心境でなければ大事業というものはできない。おれが平素そういう心境でいたからこそ、一介の処士にすぎぬおれの意見を世の人々も傾聴してきてくれた。大事をなしとげえたのも、そのおかげである」
 またさらに、
「仕事というものは、全部をやってはいけない。八分まででいい。八分までが困難の道である。あとの二分はたれでも出来る。その二分は人にやらせて完成の功を譲ってしまう。それでなければ大事業というものはできない」

■世界の海援隊でもやりましようかな

<本文から>
西郷はいった。
 「この表を拝見すると、当然土州から出る尊兄の名が見あたらんが、どぎゃンしもしたかの」
 「わしの名が?」
 竜馬はいった。陸奥が竜馬の顔を観察すると、近視の目をひどくほそめている。意外なことをきくといった表情である。
 「わしァ、出ませんぜ」
 と、いきなりいった。
 「あれは、きらいでな」
 なにが、と西郷が問いかけると、竜馬は、
 「窮屈な役人がさ」
 といった。
「窮屈な役人にならずに、お前さアは何バしなはる」
 「左様さ」
 竜馬はやおち身を起こした。このさきが、陸奥が終生わすれえぬせりふになった。
「世界の海援隊でもやりましようかな」
 陸奥がのちのちまで人に語ったところによると、このときの竜馬こそ、西郷より二枚も三枚も大人物のようにに思われた、という。
 さすがの西郷も、これには二の句もなかった。横の小松帯刀は、竜馬の顔を食い入るように見つめている。
古来、革命の功労者で新国家の元勲にならなかった者はいないであろう。それが常例であるのに竜馬はみずから避けた。小松ほ竜馬を愛慕しづつけてきた男だけに、この一言がよほどうれしかったのであろう。
「竜馬は、もはや世界が相手なんじゃろ」
 と、おだやかに微笑した。
「世界の海捷隊」
という意味は、陸奥にもよくわからない。世界を相手に貿易海運業をはじめる、ということなのか、どういうことなのであろう。
「とにかくきょうから土州は第二線にしりぞく。あとは薩州が主軸になられよ」
ということを、竜馬はこのときもっとも言いたかったにちがいない。藩論不統一な土州が前面に出れば、革命のエネルギは分散するばかりということを、竜馬はたれよりもよく知っている。
 西郷は、暗黙裏にそれを察した。

■新政府の財政担当に蟹居中の三岡八郎(由利)を抜擢、構想まで語り合う

<本文から>
 三岡八郎というのは、ふしぎな頭脳のもちぬしだった。国家経済をまるで掌をさすように論ずるかとおもうと、へっついの発明をしたりする。
 閉門中、退屈なあまりにこの新案をおもいつき、作りあげた。従来のへっついよりもはるかに燃料が節約でき、しかも火力が強い。この男の発明したへっついは、昭和十年まで「三岡へっつい」とよばれて福井県下で用いられていた。
 この男が竜馬に、新政府財政の基本約な考え方はこうあるべきだと説き、その財政技術のひとつとして金札の発行を説いた。
 兌換紙幣のことである。新政府にはまだ信用がないため京大阪の豪富を説き、かれらに発行の勧進元をさせ、その信用と財力を借りれば一千万両ぐらいの金はたちどころに出来あがるだろうと三岡はいうのである。
「それには天子様に御威光がなければどうにもならぬ。かの御一人こそ日本国の主だということを天下万民に知らせる工夫をする必要がある」
 その後の三岡八邸は、これらの言葉どおりの活躍をした。鳥羽伏見の砲煙がおさまるや、三岡は大坂にのりこみ、鴻池書右衛門以下十五人の富豪をあつめ、かれらを新政府の会計方御用係に任命し、さらには大坂のおもだった町人六百五十人をあつめ、御用金調達を命じた。
 この新政府借入金は、旧幕府時代の御用金召しあげとちがい、あとで返却することになっていたし、利子もつけた。醵出した金額に応じて太政官札もあたえた。人心はこのために安定し、この太教官札発行のおかげで、無から発足した新政府に基金もでき、その基金が東征の軍資金にもなった。
 それらはすべて、この「煙草屋」の二階でまとまったといっていい。
竜馬との会談は、朝の八時から夜九時までつづいた。

■竜馬の最期、天が混乱を収拾するために地上にくだし、使命がおわったとき天へ召しかえした

<本文から>
 中岡にも刀をとる余裕がない。九付の短刀しかない。信国在銘、白柄朱雫で、鍔はついているものの、脇差というよりヒ首のみじかさである。これをもって敢の太刀と渡りあったが、十一カ所に傷をうけ、ついに倒れ伏した。
 わずか数分、気絶していたらしい。しかしすぐ息を吹きかえした。このとき敵がひきあげるところであった。
 ほどなく竜馬も、よみがえった。この気丈な男は、全身にわが血を浴びながらすわりなおしたのである。
 中岡は、顔をあげ、その竜馬を見た。竜馬は行燈をひきよせ、わが楓刀の鞘をはらって刀身をじっと見入った。
 「残念だった」
 思えば、そうであったろう。千葉門下の逸足として剣名を江都に轟かせた青春をもちながら、鼠賊同然の刺客に不意をおそわれ、しかも剣さえ使えなかったことをおもうと、無念やるかたないにちがいない。
 「慎ノ字、手がきくか」
 と、竜馬はたずねた。中岡は伏せながらうなずき、「利く」と答えた。
 利くなら這って階下の近江屋の家族をよべとでも竜馬は言いたかったのかもしれないが、中岡のほうが自分より重傷とみたらしい。
 竜馬は自分で這い、隣室を這いすすみ、階段のロまで行った。
 「新助、医者をよべ」
 と、階下に声をかけたが、その声はすでにカがうせ、下までとどかない。竜馬は欄干をつかみ、すわりなおした。
 中岡も這って、竜馬のそばにきた。
 竜馬は、外科医のよう々冷静さで自分の頭をおさえ、そこから流れる体液を掌につけてながめている。白い脳薮がまじっていた。
 竜馬は突如、中岡をみて笑った。澄んだ、太虚のようにあかるい微笑が、中岡の網膜にひろがった。
 「慎ノ字、おれは脳をやられている。もう、いかぬ」
 それが、竜馬の最後のことばになった。言いおわると最後の息をつき、倒れ、なんの未練もなげに、その霊は天にむかって駈けのぼった。
 天に意思がある。
としか、この若者の場合、おもえない。
 天が、この国の混乱を収拾するためにこの若者を地上にくだし、その使命がおわったとき惜しげもなく天へ召しかえした。

■竜馬の名は明治三十七年二月四日の「皇后の奇夢」で有名になる

<本文から>
竜馬の名は、日々とすわられた。かれの名がにわかに世上で有名になったの。は、死後三十余年経った日露開戦のころである。
 明治三十七年二月四日、日露交渉に関する最後の御前会議がひらかれ、同六日、日露国交は断絶し、東郷平八郎は連合艦隊をひきいて佐世保軍港を出兢し、外洋に遊七した。
 どうみてもロシアの陸海軍に勝てるはずがないという観潮がたれの胸中にもあり、憂色が一国を覆ったが、宮中の憂色はとくにはなはだしく、皇后(昭憲皇太后)はほとんど神経を病まれるまでになった。陸軍は兵力の差を戦術と士気でおぎない、なんとか互角にもってゆけるとしても、海軍は機械力と数の羞が勝敗を決する。自然、海軍への心配が濃く、具体的にはバルチック檻隊の極東来航のときをもって国運がわかれるという見方をたれしもがもった。皇后の深憂もこの点にあったのであろう。その日露断交の二月六日、皇后けたまたま葉山別邸に避寒中であったが、その夜、夢を見た。
 夢に、白装の武士があらわれたのである。かれが名乗るには、
 「微臣は、維新前、国事のために身を致したる南海の坂本竜馬と申す者に候」
という。皇后は、その名を知らなかった。その白装の武士はさらにいう。「海軍のことは当時より熱心に心掛けたるところにごぎれば、このたぴ露国とのこと、身は亡き数に入り候えども魂魄は御国の海軍にとどまり、いささかのカを尽すべく候。勝敗のこと御安堵あらまほしく」と言い、掻き消えた。
「坂本竜馬とは、いかなる人物か」
と、翌朝、皇后官大夫の子爵香川敬三に下問された。香川敬三は水戸脱藩とはいえ、その後土佐陸援隊に属したから、土佐系志士のあがりというべき人物で、竜馬とはむろん懇意であったし、その下手人探索にも力をつくした男である。当然知っている。
 およその事歴を説明申しあげた。が、皇后はなぜそれをたずねたかは打ちあけられなかった。ところが翌七日夜の夢にもおなじく白装の武士があらわれたため、ついに香川敬三にその一件を明かされた。香川は奇妙におもい、東京の田中光顕に連絡した。往年の陸授隊副隊長だった田中は、このころには宮中蕎官、宮内次官、宮内大臣を歴任する身になっている。さっそく竜馬の写真一葉を手に入れ、香川に送った。香川は女官を通じてその写真を皇后の部屋の一角に置いておくと、皇后はあわただしく香川をよばれ、
 「この人である」
 といわれた。眼鋭く、眉せまり、肉薄ち、髪も乱れておどろである。奇相であるためまぎれもない、と皇后は言い、この撫肩に桔梗の紋までおなじです、と言い添えた。

メニューへ


トップページへ