司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          竜馬がゆく7

■海援隊

<本文から>
  要するに、後藤は竜馬とその社中もろとも藩の組織に組み入れ、竜馬にしかるべき禄と身分をあたえ、藩の有力な一翼たらしめようとしているのである。
 竜馬にすれば見そこなうなというところであろう。いまさら、たとえ家老の処遇をもって迎えにきても、天下の坂本竜馬に対する侮辱だと思っている。
「藩吏はごめんだな」
といいつつも竜馬はあたまのなかで、いそがしく思案を馳せめぐらせていた。
「官途につけ」という後藤の提案はおもしろくないが、別な点で魅力がある。
 社中の経営という点だ。土佐藩との関係をより濃厚にもてばずいぶんときりまわしが楽になるにちがいない。
「後藤殿」
 と、竜馬は自分の大望をのべた。
 大望とは、私設艦隊をつくって天下の風雲をおさめること。第二に、その私設艦隊はあくまで独立自尊のかたちをとり、経費いっさいは平素の貿易・運輸でまかなうこと。
このふたつである。
「坂本君、きみは日本の政権に野望をもっているのか」
「おや」
 竜馬は、後藤をみた。正直なおどろきである。後藤という男は度量広大な人物とみていたが、そんな推量をするあたり、やはり一官僚にすぎないかと多少失望した。
「ないさ」
 竜馬は、火鉢をひきよせた。なるほど日本の危険をすくうために徳川幕府は倒したい。しかしそのあとに樹立される革命政権の親玉になるなどは、竜馬はまっぴらである。
「おれにはもっと大きな志がある」
「どんな?」
「日本の乱が片づけばこの国を去り、太平洋と大西洋に船団をうかべて世界を相手に大仕事がしてみたい」
「えっ」
 後藤は目をまるくした。こんな大法螺を夢みている男が日本にいようとはおもわなかったのである。この壮大な夢の前には、勤王・佐幕のあらそいもみるみるちっぽけな風景に縮んでゆく感じがしたし、まして後藤が提案した土佐藩藩吏の一件など、はずかしいほどに卑小であることに後藤は気づいたのである。
 が、竜馬も、曲者である。後藤が提案した一件につき、自分にもよく、土佐藩にもよい実に変えることに智志をしぼった。
 やがて、
「後藤殿、これはどうじゃ」
と懐紙をとりだし、筆さきをしばらくなめていたが、
「海援隊」
 と、墨くろぐろと書いた。
「意味は、海から土佐藩を授ける、ということだ。海とは、海軍、貿易。海援隊は土佐藩を授けるが、土佐藩も海援隊を援助する」
「つまり、同格か」
後藤はさとい男だ。「援」という文字に同格のにおいをかいだ。
「ああ、同格」
「となれば竜馬、おンしとおそれながら藩公と同格ということになるぞ」
「あたりまえだ」
と、竜馬は、封建武士にしては驚天動地の発言をしてしまった。
「アメリカでほ薪割り下男と大統領と同格であるというぞ。わしは日本を、そういう国にしたいのだ」
「竜、竜馬、声が大きい」
 さすが剛腹な後藤も、このあまりな危険思想に青ざめてしまった。勤王倒幕でさえどの藩でも戦慄するほどの危険思想であるのに、この竜馬はそれからさらにつきすすんで人間は平等なりと言い出しているではないか」 

■中岡慎太郎は人物眠がある

<本文から>
中岡慎太郎は、人物眠がある。この男の人物評は志士のあいだでも高名で、中岡の眼識にかなった者といえば、もうそれだけで一流の士とみていいといわれているほどだった。
「それが回天の為になるというのなら、麿には異存がない。そなたにまかせる」
 と三条は感情を押し殺して言い、座を立って、かれのもっとも憎んでいた政敵への手紙を書いた。
 「予、西鼠ののち、百事不如意、卿よろしく中興の業を翼賛すべし。予もまたともに協力すべし」
 というものであった。筆をもつ手がかすかに戦慄しつづけたのは、この公卿の性格によるものであろう。もともとしんの強いわりには感情家で、やや女性的なところがあった。
 中岡はその手紙を拝領し、それをこよりにして補祥のえりに縫いこみ、愛用の韮山笠をかぶって大軍府を出発した。

■大政奉還の妙案

<本文から>
 (妙案はないか)
 竜馬は、暗い石畳の道を足駄でたたきつつ、西にむかって歩いた。
 一案はある。
 その案は、後藤が「頼む」といってきたとき、とっさにひらめいた案だが、はたして実現できるかどうか、という点で、竜馬はとつこうつと考えつづけてきている。
 「大政奉還」
という手だった。
 将軍に、政権を放してしまえ、と持ちかける手である。
 驚天動地の奇手というべきであった。
 もし将軍慶喜が、家康いらい十五代三百年の政権をなげだし、
 「朝廷へかえし奉る」
 という拳に出れば、薩長の流血革命派はふりあげた刃のやりどころにこまるであろう。
 そのあいだに一挙に京都に天皇中心の新政府を樹立してしまう。その政府は、賢侯と志士と公卿の合議制にする。
 (はたして政権を慶喜はなげだすかどうか)
 この一瞬、幕府は消滅し、徳川家は単に一諸侯の列にさがるのである。そういう自己否定の道を、慶喜はとれるかどうか。
 (人間、自分で自分の革命をおこすということは不可能にちかいものだ。将軍がみずから将軍でなくなってしまうことを、自分でやるかどうか)
 人情、おそらくそうではあるまい。
 たとえ慶喜が個人としてそういう心境になったとしても、慶喜をとりまく幕府官僚がそれをゆるさないであろう。
(しかし)
 と、竜馬は繰りかえしおもった。
 日本を革命の戦火からすくうのはその一手しかないのである。
 さらには、家康以来の徳川家の家名を日本の後代にのこす手もそれ以外にないし、また土佐の老公山内容堂の板挟みの苦しみを一挙に解決する手も、これしかない。
 奇術的な手ではある。
 技術として困難ではある。しかし右の三つの難問を毒に解決できる手は、これしかないのではないか。
 竜馬が土佐屋につくと、すでに菅野覚兵衛ら高が詰めかけていた。
 土間に立ち、
 「うらはな、京へのぼる」
 と、竜馬は土佐弁の一人称でいった。
「成功するかどうかはわからぬが、いまのままの情勢を放置しておけば、日本にもフランスの革命戦争か、アメリカの南北戦争のごときものがあこる。惨は百姓町人におよび、婦女小児の死体が路に累積することになろう」
 竜馬は、自分が打出そうとする策をあっさり打ちあけた。
 最年少の中島作太郎(信行)がおどろき、
「坂本さん、そりや、前説とちがう。以前はなにがなんでも徳川を砲煙のなかで倒す、多少の戦禍はやむをえない、とおっしゃっていたではありませんか」
「思えばおれも年少客気だったなあ」
 竜馬は、あごをなでた。
「ずるい」
「そうそう、ずるい」
「それに、食言漢、変説漢、うそつきのそしりはまぬがれませんぜ」
「まぬがれまい」
 竜馬は、くるしそうな顔をした。だからこそ昨夜来、心中の苦渋をなめつづけてきたのだ。
「坂本さん。海援隊はいざ討幕のときには海軍になって江戸に出航する、とおっしゃっていたのはうそですか」
「慶喜しだいさ。慶喜がおれの意見をきかぬとあれば諸君は砲弾を満載して長崎を出航してもらう」

■革命後の明確な新日本像があった、船中八策

<本文から>
「第一策。天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令よろしく朝廷より出づべき事」
 この一条は、竜馬が歴史にむかって書いた最大の文字というべきであろう。
「第二策。上下議政局を設け、議員を置きて、万機を参賛せしめ、万機よろしく公議に決すべき事」
 この一項は、新日本を民主政体にすることを断乎として規定したものといっていい。余談ながら維新政府はなお革命直後の独裁政体のままつづき、明治二十三年になってようやく貴族院、衆議院より成る帝国議会が閉院されている。       「第三策。有材の公卿・諸侯、および天下の人材を顧問に備へ、官爵を賜ひ、よろしく従来有名無実の官を除くべき事」
「第四策。外国の交際、広く公議を採り、新たに至当の規約(新条約)を立つべき事」
「第五策。古来の律令を折衷し、新たに無窮の大典を選定すべき事」
「第六策。海軍よろしく拡張すべき事L
「第七策。御親兵を置き、帝都を守衛せしむべき事」
「第八策。金銀物貸、よろしく外国と平均の法を設くべき事」
 後藤は、驚嘆した。
「竜馬、おぬしはどこでその智恵がついた?」
「知恵か」
 思想の意味である。
 竜馬は、苦笑した。後藤のような田舎家老にいっても、ここ数年来の竜馬の苦心は理解してもらえない。
 「いろいろさ」
 後藤がおどろくのはむりもなかった。嘉永以来、天下に志士は雲のごとく出た。
 そのほとんどが神国思想による捷夷家で、西洋といえば夷てきとした。
 そのなかで藤摩が英国と戦い、長州が四カ国艦隊と戦ったあと軍制をいちはやく洋式化し、薩長両藩がさきんじて単純壊夷思想をすて去った。
 かれらは討幕勢力になった。なったとはいえ、幕府を倒したあとの政体をどうするか、ということまであまり考えていない。
 「京の朝廷を奉ずる」
 ということはある。
 「奉じて毛利将軍をつくる」
 という思想のもちぬしまで、ある時期まではいたようである。毛利とは長州藩のことだ。
 現に薩の西郷吉之助などは、文久三年から翌元治元年までの長州藩の動きをみて、
 「かならず、そうだ」
と断定していた。他人の腹をそうかんぐる以上、薩の西郷の腹にも、
 「島津将軍」
 の幻想がなかったとはいわれない。文久・元治のころの長州藩のヒステリックなばかりの昂揚ぶりをみて、
 「お国(薩摩藩)がうかうかしていては長州にしてやられる。まず長州を軍事的にたたきつぶさねばならぬ」
 という意味の手紙を、国もとに書きおくっている。毛利将軍か島津将軍か、という幻想が西郷のこの時期にはあったであろう。むしろこれは戦国時代的な野望ではなく、それなりの天下国家的な正義はある。つまり徳川将軍では外国のあなどりを受けるからそれにかわって京の朝廷を摸して立つ「島津将軍」が実現すれば対外的に強力である、という自信にもとづくものだ。
 が、結果的には、
 −薩摩藩が政権をとる。
ということとかわらない。
 げんに、笑いばなしがある。薩摩の島津久光が明治になってから、
 「おれはいつ将軍になるのだ」
 と左右にきいたという。左右の者はすくなくとも久光にはそれに近いようなことをいったのであろう。
 こういうわけだから、討幕運動の最大の北朝割である西郷も、
「幕府を倒したあとどんな政体にする」
などはあまり考えていなかった。革命後の構想が西郷にはなかったため、維新後、かれは政府にあきたらず、ついに帰国し、士族主義をかかげて反乱をおこした。その反乱軍でさえ、明快な政体の主張はなかった。
 西郷でもそうである。
 他の討幕への奔走家たちに、革命後の明確な新日本像があったとはおもえない。この点、竜馬だけがとびぬけて異例であったといえるだろう。
 この男だけが、それを考えぬいていた。
「天皇をいただいた民主政体でゆく」
というのが、船中八策の基調であった。

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