司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          竜馬がゆく6

■薩長同盟を西郷に説く、長州には日本のココロザシがある

<本文から>
 竜馬は、政治家の目になっていた。この瞬間から、竜馬の胸にある種の色合を帯びた情熱の火が燃えあがった。その情熱は、船きちがいといわれたいままでの情熱とは、まるでちがう場所から燃えているようであった。
「長州は」
 と、西郷は返答をくらました.
「外面は恭順、しかし内面ではなかなれしぶとくいくさ支度をしているようでごわすな」
「負けるでしょう」
と、竜馬はいった。いかに長州が内々戦さ支度をしていても、幕府の再度の攻撃をうければ負ける、という意味である。
「しかしながら、匹夫もその志を奪うベからず、ということがある。なんど長州はたたきつけられても長州人は立ちあがる。毛利家がつぶれても、一人の長州人が残っているかぎり、かれらは棒ぎれをひろってでも立ちあがる。もし戦国のむかしならば」
と竜馬はいう。
「長洲人はあっさり降伏するだろう。主家さえ温存されればそれでいい、と思い、かれ
っは鉾をおさめる。しかし長州人は、いや長州人だけではない!われわれ有志(志士)も戦国の武士ではない。戦国の武士には、日本をどうこうするというそういうココロザシはなかった。いまの有志にはある。長州人には濃厚にそれがある」
 竜馬のいうココロザシというのは、思想とか主義とかいう意味である。
「戦国の武士には」
 竜馬はいった。
「おのれの男を立てることとおのれの功名を立てることしかなかった。くだって徳川氏全盛の世の武士は主君と藩への忠義しかない」
 「ほ、ほ、…」
 西郷は日を見はった。この竜馬という男がこんなに議論するとはおもわなかったのである。
「いまはちがう。有志はそのココロザシに殉ずる時勢になっている。わしども土佐人を見なされ、すでに殿様を見かぎって自分のココロザシに殉ずるために天下へ出た。長州人たちも同然だ。脳中、毛利家はあるまい。日本と天朝のみがある。いま幕府がかれらを再征するとせよ。なるほど毛利家はつぶれるかもしれぬが、多数の長州人は天下に四散し、あくなく活躍するだろう。薩摩はそれをしも、討つか。日本は混乱し、血と泥の国土になるにちがいない」

■勝海舟、大久保一翁、横井小楠、松平春嶽は竜馬を育てたいと思った

<本文から>
 竜馬の特技といっていい。
 この若者は、物おじもせずひとの家の客間に入りこむ名人といってよかった。相手もまた、この若者に魅かれた。ひかれて、なんとかこの若者を育てたいと思い、知っているかぎりのことを話そうという衝動にかられた。
 幕臣の勝海舟もそうだし、大久保一翁もそうだった。熊本にすむけたはずれに合理主義的な政治思想家の横井小楠もそうだったし、越前福井藩の大殿様の松平春嶽もそうだった。かれらは、
 「竜馬愛すべし」
 といって、さまざまなことを教えた。竜馬には、それをさせる独特の愛嬌があった。どんな無口な男でも、坂本竜馬という訪客の前では情熱的な雄弁家になる、といわれていた。
 ことばをかえていえば竜馬は、異常な取材能力をもっていたといっていい。これが特技であった。自然、かれはいわゆる志士のなかでは抜群の国際外交通であった。
 去年の暮からことしの春にかけてずっと薩摩藩の大坂屋敷に住みっぱなしであった。この間、かれは脱藩浪人の身ながら幕府の大坂城代屋敷にゆうゆうと出入りし、毎日のように大久保一翁に会っていた。。
 一翁は、勝海舟、小栗上野介忠順、栗本鋤雲などとともに、幕臣のなかでは有能な外政通だった。
 そこで、日本における外国公使のうごきや意見、こんたん、策謀、などをふんだんに仕入れている。かれのこの大坂における数カ月は、幕府をとりまく外国情勢の取材にあったといっていい。

■薩長連合を中岡グループも思い立っていた不思議、天意であると

<本文から>
 桂に、薩長連合を力説した。桂は慎重すぎるほどの性格で容易にうなずかなかったが、ついに竜馬に押しきられ、
 「薩州さえその気なら長州はよい」
といった。「ただしわが藩人は薩藩をひどく憎んでいるからこの件は秘密にねがいたい」
 とも言いそえた。
 桂が帰ったあと、意外な人物がきた。
 いや、意外というほかない。
 (世には、神というものがあるのかな)
 と、無信仰な竜馬もおもわずそう思ったほどのおどろくべきまわりあわせが、竜馬の運命をとらえた。
 じつのところ、竜馬は、「薩長連合」という天下の大陰謀にかけまわっているのは、天下ひろしといえども自分ひとりだとおもっていた。
 ところが、いま一グループが居た。
 それがなんと、同郷の中岡慎太郎と土方楠左衛門のふたりであった。
 もともと竜馬は、鹿児島出発にさいして、
(中岡の手を借りよう)
と思っていた。中岡は脱藩後長州に身をよせ、長州人と辛苦を共にし、いまでは若いながら賓師の待遇をうけている。その中岡を動かせば長州説得は容易だろうとおもったのである。
 ところが中岡は土方とともに、京都情勢偵察のために上方へとんでいた。
(中岡とは会えぬな)
 と竜馬は失望し、やむなく単身長州にのりこんで桂を口説いたのである。
 しかし、奇妙なことがおこった。
 中岡は中岡で、京都潜伏中に、
「どうしても薩長連合をやらねばならぬ」
とおなじ奇策を思いたち、たまたま京都潜行中は錦小路の薩摩藩邸にいたから同藩の吉井幸輔らに相談した。
 吉井にだけ相談したのではない。中岡は公卿の岩倉具視という当時から怪物とされている男を、洛北岩倉村のその蟄居所へ訪ね、「手をかしてもらいたい」と説き、その快諾を得、さまざまな下準備をしたあげく、
「要は長州の桂、薩州の西郷を説けばよい。このふたりさえ手をにぎればあとはなんとかなる」
と見、同行している土方楠左衛門久元に、
「おれはこれから八方奔走する。しかし体が一つでは何ともならん。手分けしよう。おンしは長州へ行って桂にこの旨を伝えてくれぬか。わしは薩摩へ飛んで西郷を説き、西郷を長州まで連れてきて手をにぎらせる」
 中岡の活躍はこのときからはじまった。かれが京を発ったのは五月二十四日であった。偶然、はるか九州太宰府の地で竜馬が三条卿に、中岡とおなじ秘策を述べたてていたのと、おなじ日である。
 中岡と土方は海路西進し、豊前の田浦港で二人はわかれた。
 中岡はそのまま乗船して鹿児島へ。土方はそこから長州へ。
 土方楠左衛門が海路長州福浦港に入ったときは、竜馬の長州入りの二日後で、土方はそれとは知らず、長州藩の要人報国隊副官福原和勝らに迎えられ、馬上、長府へゆき、本陣にとまり、そこでさらに多数の長州人と会い、それとなく「薩摩と和解せぬか」という旨のさぐりを入れた。
 竜馬が桂に会った翌日、土方はその事実をはじめて知り、馬をとばして下関にやってきて竜馬の宿をたずねた。
 さすがの竜馬もこのふしぎな暗合におどろき、「天意じゃな」と長嘆息をした、とのちの伯爵土方久元は回顧している。

■薩長の連合に身を挺しているのは薩藩や長州藩のためではない

<本文から>
 「天下に孤立している。朝敵の汚名を着、幕府の追討をうけ、白昼、路上を歩くこともできぬばかりか、藩の四境には幕軍が追っている。この立場にある長州の側から、同盟の口火が切れるとおもうか。口火を切れば、もはや対等の同盟にあらず、おのずから乞食のごとく薩州に援助を哀願するようなものではないか」
 できぬ、と桂はいった。
「もしそれをやれば、おれは長州藩の代表として、藩地にある同志を売ることになる」
「ば、ばかなっ」
 竜馬は、すさまじい声でいった。
「まだその藩なるものの迷妄が醒めぬか。薩州がどうした、長州がなんじゃ。要は日本ではないか。小五郎」
と、竜馬はよぴすてにした。
「われわれ土州人は血風惨南。−」
とまで言って、竜馬は絶句した。死んだ同志たちのことを思って、涙が声を吹き消したのである。
「のなかをくぐつて東西に奔走し、身命をかえりみなかった。それは土佐藩のためであったか、ちがうぞ」
 ちがう、ということは桂も知っている。土州系志士たちは母藩から何の保護もうけぬばかりかかえって迫害され、あるいは京の路上で死に、あるいは蛤御門、天王山、吉野山、野根山、高知城下の刑場で屍をさらしてきた、かれらが、薩長のように自藩意識で行動したのではないことは、天下が知っている。
「おれもそうだ」
と、竜馬はいった。
「薩長の連合に身を挺しておるのは、たかが薩藩や長州藩のためではないぞ。君にせよ西郷にせよ、しょせんは是人にあらず、長州人。薩州人なのか」
 この時期の西郷と桂の本質を昔まで突き刺したことばといっていい。
 竜馬はのちに、亀山社中の中島作太郎(信行。のち男爵)にむかい、「おもえば自分はうまれてこのかた怒ったことがなかった。しかしあのときばかりは、度をうしなうほどに腹が立った」と語っている。
 「どうだ」
と、竜馬は大声でわめいたが、桂はなお頑固に顛を伏せたまま、
「やはり帰国する。これが長州男子たる者の意地だ」
 と小さくいった。

■薩長連合をただ一人で担当、西郷に長州が可哀そうではないかと、叫ぶ

<本文から>
 しかししょせんは机上の論で、たとえば一九六五五年の現在、カトリックと新教諸派が合併すればキリスト教の大勢力ができる、とか、米国とソヴィエト連邦とが握手すれば世界平和はきょうにでも成る、という議論とやや似ている。
 竜馬という若者は、その難事を最後の段階ではただひとりで担当した。
 すでに薩長は、歩みよっている。竜馬のいう、「小野小町の雨乞いも歌の霊験によったものではない。きょうは降る、という見込みをつけて小町は歌を詠んだ。見込みをつけるということが肝要である」という理論どおり、すでに歩み寄りの見込みはついている。
 あとは、感情の処理だけである。
 桂の感情は果然硬化し、席をはらって帰国しようとした。薩摩側も、なお藩の体面と威厳のために黙している。
 この段階で竜馬は西郷に、
「長州が可哀そうではないか」
と叫ぶようにいった。当夜の竜馬の発言は、ほとんどこのひとことしかない。
 あとは、西郷を射すように見つめたまま、沈黙したからである。
 奇妙といっていい。
 これで薩長長連合は成立した。
 歴史は回転し、時勢はこの夜を境に倒幕段階に入った。一介の土佐浪人から出たこのひとことのふしぎを書こうとして、筆者は、三千枚ちかくの枚数をついやしてきたように思われる。事の成るならぬは、それを言う人間による、ということを、この若者によって筆者は考えようとした。
 竜馬の沈黙は、西郷によって破られた。
 西郷はにわかに膝をただし、
「君の申されるとおりであった」
 と言い、大久保一蔵に目を走らせ、
「薩長連合のことは、当藩より長州藩に申し入れよう」
 といった。
  大久保は、うなずいた。
 締盟の日が、即座にきまった。
 あすである。

■幕長戦争で百姓町人が武士を追い立てる姿、平民が支配階級を追う実物を見せる

<本文から>
 土佐郷士は、二百数十年、藩主山内家が遠州掛川からつれてきた上士階級に抑庄され、蔑視され、斬り捨て御免で殺されたりしてきた。
 その郷士たちの血気の者は国をとびだし、倒幕運動に参加しつつある。天下一階級という平等への強烈なあこがれが、かれらのエネルギーであった。
 その土佐郷土の先頭に立つのが、竜馬である。
 平等と自由。
 という言葉こそ竜馬は知らなかったが、その概念を強烈にもっていた。この点、おなじ革命集団でも、長州藩や薩摩藩とはちがっている。余談ながら、維新後、土佐人が自由民権運動をおこし、その牙城となり、薩長がつくった藩閥政府と明治絶対体制に反抗してゆくのは、かれらの宿命というほかない。
 天は、晴れた。
 ユニオン号の土佐人たちは、順次望遠鏡をのぞきつつ、平民が支配階級を追ってゆく姿を、ありありと見た。
 「あれが、おれのあたらしい日本の姿だ」
 と、竜馬は自分の理想を、実物をもってみなに教えた。竜馬の社中がかかげる理想が単なる空想ではない証拠を眼執の夙景は証拠だてつつある。
 竜馬が望遠鏡でみたとおり、長州の上陸部隊は、寡兵ながら奇蹟的な強さを示した。
 部隊の指揮官は門閥でえらばれてはいない。
 能力でえらばれている。
(中略)
 兵もまた、累代の武家貴族が野生をうしなっているのに反して、百姓町人の子というのは、武家のような秩序だった精神美をもっていないにしても、あふれるようなエレルギーをもっていた。

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