司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          竜馬がゆく5

■池田屋ノ変で幕末争乱の引金がひかれた

<本文から>
  池田屋ノ変は、おわった。
 志士たちは死に、幕府はいまさらながら新選組のカの強烈なことに舌を巻いた。
 新選租局長近藤勇が江戸の養父に差し立てた手紙を摘訳すると、
「徒党の多勢を相手に、火花を散らして二時間余のあいだ、戦闘におよびましたところ、永倉新八の刀は折れ、沖田総司の刀の帽子は折れ、藤堂平助の刀は、刃がササラのようになり、養子周平は槍を斬り折られました。ただ下拙の刀は虎徹であります故か、無事でありました」
 とある。
 幕府はこの「戦功を大いによろこび、京都守護職に対し感状をくだした。武将への感状などというものは戦国時代のもので、徳川期に入ってからも、島原ノ乱いらい、絶えてなかったものである。
 つまり、一国の政府である幕府は軽率にもこの事件の性格を治安間篤とせず、すでに「戦争」であるとした。「感状」はその証拠であろう。
 自然、京を戦場とみたことになる。同時に長州藩および長州系浪士を、敵とみ。その意味でもこの変事は、募末政治史上の重要な事件であった。長州藩とLては、自藩の者を斬られて感状まで出されては、深く決せざるをえまい。
 とまれ、感状だけではない。
 新撰組に対し、その軍功に対する当座のほうびとして、局長の近藤には三善長道の銘刀一口を賜わり、負傷には一人五十両ずつ、隊士一統にはこめて五百両が下賜された。
 朝廷からも、隊士慰労の名目で出ている。
 金百両。
 とはいえ、朝廷が金を出すなどというのは徳川時代を通じてかつてないというほどのことである。卑俗な例でいえば、神社仏閣というのは檀家から金殻をもらうもので、神社仏閣から檀家へ金が出ない。出れば「寺から檀家へ」という俗諺のとおり、珍事になる。江戸時代の朝廷はそういう神社仏閣の位置に似ている。
 だからおそらくこの御下賜金古両は、幕府の京都所司代あたりの工作によって、内実は幕府の金、表むきは朝廷から、というごく政治的なものであろう。
 朝廷のおほめがあった。ということになれば、池田屋での志士斬殺は、天下晴れての勤王行為になるのである。
 勤王派の世論をおさえるために、幕府の智悪者がやったものであろう。
 が、はたして、池田屋ノ変は徳川幕府という、すでに時代を担当する能力を欠いた政権の寿命を長びかせることに薬効があったかどうか。
 むしろ、毒だったといっていい。
 暴は、ついには暴しか呼ばない.
 池田屋の変報が、瀬戸内海の舟便によって長州にもたらされたのは、数日後であった。
 長州藩は、激怒した。
 もはや自重論は影をひそめ、来島又兵衛流の武力陳情論が、勢いをしめ、いそぎ京にむかって軍勢を進発させることになった。
 幕末争乱の引金がひかれた。
 ひいたのは、新選組であるといっていい。 

■結局は天皇の奪りあい、禁門の変へ

<本文から>
結局は
 天皇の奪りあいである。
 この点、将棋とかわらない。玉をとったほうが勝ちである。
 天皇は詔勅機関にすぎない。これをうばい、擁し、自分の敵方を「朝敢」とし、天下の兵をあつめて討伐し、自分の好きな体制をつくる。
 余談だが、明治維新の戦略的本質もここにある徳川幕府は、天皇を奪いそこね、薩長土三藩の手に渡してしまったために朝敵となり、天下の兵の袋だたきになってほろんでしまった。
 西郷はこの本質をよく知っていた。かれは格調の高い理想家であったが、同時に現実の本質を知っている。
 −こまごまとした議論よりも、まず玉をとってからのことだ。
 という戦略を実地にまなんだのは、その後の討幕活動の時期にではなく、この長州騒動のときであった。その点、この騒動は、革命家西郷のためには、よき予行演習になった。
 「こまごまとした議論よりまず玉をとることだ」
 ということを、長州軍のなかでもっともするどく知っているのは、皮肉にも、革命家でもなんでもない一介の武弁来島又兵衛である。
 だからこそ、かれは、かえって遅疑逡巡している若い革命家の久坂玄瑞、寺島忠三郎、入江九一らを一喝し、
 「この場にのぞんでなにをぐずぐずするか」
 と砲えたのである。
 結局、長州軍の軍議は、来島又兵衛にひきずられて、
 「京都討入り」
 ということに一決した。むろん、戦争の名分は、
 −君側の奸をはらう。
 ということであった。君側の紆とは、第一に会津藩、第二に産摩藩。露骨にいえば、この両藩の手から、武力をもって天皇をうばいとる、ということである。
 この点、この騒動の敵味方のなかで、騒動の本質を知りぬいているのは、長では来島又兵衛、薩では西郷吉之助であったといえる。その両者のか潤打ちではなかったか。
 来島又兵衛の人となりにつ知咋如、何度もふれてきた。蛇足ながら、男山八幡宮での最後の軍議に同席した長州人馬屋原二郎の「禁門事実実歴談」によると、
 「僕は思う」
 と馬屋原二郎は語る。
 「来島というひとは剛胆果敢な人物だが、そのくせ人に接するときは春風のような和気があり、きわめて思慮ぶかく、一見老吏の凰があった。決して世間でいう猪武者ではない」
 又兵衛の行動は、短刀をもって心臓をえぐりとろうとするところにあったのだろう。
 かくて長州軍は、伏見、山崎、嵯峨の三隊が十八日夜半を期して行動をおこし、同時に禁門にせまる旨、打ちあわせた。
 奇襲であった。幕府は誤算した。長州藩の行動開始は十九日と見、その日を期し、戦備をととのえた。
 その数、五万である。帝都の内外にこれだけの戦闘員があつまったのは、室町末期の応仁ノ乱いらいのことであった。

■勝は西郷に列藩同盟を説く

<本文から>
「幕閣々々とたいそうに申されるが、ろくな人間はいませんよ。老中、若年寄といっても、みな時勢にくらい。たとえば、今回の禁門ノ変で数派の浪士が長州軍に従軍して戦死し、生き残った者も畏縮して再起不能にまでなっているのを幕閣ではよろこぴ、もうこれで天下泰平だとおもっている。その日ぐらしのおどろくべき無能の徒ぞろいですよ」
 「ははあ」
 西郷は、息をのんだ。
 幕府の軍濫奉行から、これほど痛烈な幕府批判を聴こうとはおもわなかったのである。
 「当節、食えぬものといえば、天下に幕府の高官ほどのものはごぎらぬ」
 と、勝はいった。
 「たがいにかばいあって、どこに権能があるのか、わからぬようにしている。老練なものでござってな、あなた」
 「ハイ」
 西郷は、かしこまっている。
「なかでもその親玉とすべきは、老中諏訪因幡守でありましような。たとえばそれがしが正論を持ってゆく。お説ごもっともでござる、と決して反対しない。反対しないから行なうのかとおもえば、けろやとしている。もし、正論が自分一個に不利益だとすると奏へまわってその人物を退けてしまう。だから、たれも正論を吐かず、直言する者もない」
「ははあ」
 西郷は、おどろいた。よくも悪しくも幕府は日本の公式政府なのである。漸進論者であるかれは、できればこれをたすけて国家の難路を切りぬけさせたいという気持もあった。
 (それほどひどいのか)
 どももい、この男がもっている少年のように素直な正義感が満身の血をさわがせた。
「勝先生、左様な奸物をなぜ退けませぬ。道はなかですか」
「一小人を退けるのは容易です。しかし彼を退けたところで、彼にかわるに、身を挺して国家を担当する人物がいない。結局、いまの幕府の空気では、議論をする者が倒れる、ということになる。手のつけようがありませんな」
「されば、列藩から冬力する、ということにすれば、いかがでごわす」
「無駄でさ」
 ぴしゃりと募の蚊をたたいて、
「たとえば薩藩からかような意見が出ましたと持ってゆくと、あれは薩藩からだまきれている人物だということになって、いつとはなく御役御免になってしまう。諸藩がいくらてこ入れをしても、湯のなかで屁をひっているようなものです」
 「はあ、屁を」
 西郷は、怒りをおさえかねた。
「もし、かようなときに、清国の場合と同様、列国が連合軍を組み、陸兵を艦隊にのせて京都を占領すべく摂海(大坂湾)に押しよせたとすれば、どぎゃんこつ成り申すか」
 「日本はほろびますな」
いまの幕府にまかせていては、と幕臣勝はいうのである。
 「よき方策はごわせんか」
 「ある」
 勝は、説明した。天下に賢明な諸侯が四、五人いる。薩摩の島津久光、土佐の山内客堂、越前の松平春嶽、伊予宇和島の伊達家城などがそうである。それが藩兵をひきいて京にのぼってきて会盟し、摂海には外国船を打ちやぶるべき兵力を常備し、かつ横浜、長崎の南港をひらき、その列藩同盟の名によってすべての対外談判を行なえば、幕府がやるような屈辱的な条約も押しつけられずに済み、外国もかえって条理に服する、というのだ。
 「列藩同盟」
 西郷は小さくつぶやき、息をのんだ。クーデターではないか。
 要するに、勝の意見は、
 「幕府を否定し、日本の外交権、軍事権は雄藩同盟の手でおさえてしまえ」
 というのである。
 まだ倒幕論とまでは行かない。
 が、幕府無視論である。
 西郷は、勝とのこのときの対面によって、はじめて自分の世界観、新国家論を確立させた、といっていい。
 (それにしても、勝はえらい)
  とおもった。
 幕臣のくせに、幕府をこうも明快に否定している。
 「幕府なんざ、一時の借り着さ。借り着をぬいだところで日本は残る。日本の生存、興亡のことを考えるのが当然ではないか」
 「いかにもそのとおりでごわす」
 と西郷はうなずいたが、内心、自分はどうか、とこの瞬間考えたかどうか。西郷はのちに西南戦争をおこしたように、終生、薩摩藩というものが脳裏から抜けきらなかった。
 薩摩藩を無視して日本のことのみを考えきる、というのは、西郷のような感情の豊かすぎる性格の男にとっては、不可能なことである。
 一足とびに日本を考えるなどは、かれにとって抽象論になってしまう。たとえば余談だが、二十世紀後半のこんにち、
 「人類のことのみを考えている」
 といえば、多くの場合、多少のうそがまじる。人類とは、まだまだ抽象概念の域を出ないからである。
 幕臣勝のばあい、そこまで飛躍してしまっている。むろんこんにちの人類主義者よりも度胸の要ることだ。勝はこのため、あるいは殺されるかもしれなかった。
 薩摩藩士西郷吉之助は、
 (これは異様人である)
 と、日のさめるような驚きをおぼえた。地上に棲む生物以外のものむ見たような驚きであったろう。

■西郷の配慮、竜馬の鈴虫

<本文から>
待つあいだに、ふと軒端にまだ虫籠がぶらさがっていることに気づいた。しかもあたらしい草が入れられ、朝の光のなかで鈴虫が元気よく動いている。見るなり、竜馬は目を洗われるような思いがした。
 (まだあれを飼うてくれちょったか)
 あれから一月になるのだ。よほど心をこめて飼わないかぎり、生命の弱い鈴虫など、とっくに死んでいるはずである。
 (西郷という男は、信じてよい)
 と竜馬はおもった。西郷にすれば別に鈴虫が好きなのではあるまい。竜馬がいつ来ても鈴虫が生きでいるように、入念に飼い育てていたものにちがいない。
 もっとも、後日、この鈴虫の秘密を知って竜馬はますます西郷を信ずるようになった。
 初代は、三日ほどで死んだのだそうだ。西郷はあわてて、
 −辛輔どん、坂本サンがくればこまる。納戸の者にそう言うて、鈴虫をいっぴき、獲らせて賜ンせ。
 とたのんだ。かわいそうに、諸藩にきこえた志士の幸輔どん(吉井友実)は、大さわぎして鈴虫獲りをはじめねばならなかった。
 その二代目も死んで、竜馬がみたこの鈴虫は三代目なのである。
 心づくしという言葉がある。茶道のことばである。

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