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<本文から>
池田屋ノ変は、おわった。
志士たちは死に、幕府はいまさらながら新選組のカの強烈なことに舌を巻いた。
新選租局長近藤勇が江戸の養父に差し立てた手紙を摘訳すると、
「徒党の多勢を相手に、火花を散らして二時間余のあいだ、戦闘におよびましたところ、永倉新八の刀は折れ、沖田総司の刀の帽子は折れ、藤堂平助の刀は、刃がササラのようになり、養子周平は槍を斬り折られました。ただ下拙の刀は虎徹であります故か、無事でありました」
とある。
幕府はこの「戦功を大いによろこび、京都守護職に対し感状をくだした。武将への感状などというものは戦国時代のもので、徳川期に入ってからも、島原ノ乱いらい、絶えてなかったものである。
つまり、一国の政府である幕府は軽率にもこの事件の性格を治安間篤とせず、すでに「戦争」であるとした。「感状」はその証拠であろう。
自然、京を戦場とみたことになる。同時に長州藩および長州系浪士を、敵とみ。その意味でもこの変事は、募末政治史上の重要な事件であった。長州藩とLては、自藩の者を斬られて感状まで出されては、深く決せざるをえまい。
とまれ、感状だけではない。
新撰組に対し、その軍功に対する当座のほうびとして、局長の近藤には三善長道の銘刀一口を賜わり、負傷には一人五十両ずつ、隊士一統にはこめて五百両が下賜された。
朝廷からも、隊士慰労の名目で出ている。
金百両。
とはいえ、朝廷が金を出すなどというのは徳川時代を通じてかつてないというほどのことである。卑俗な例でいえば、神社仏閣というのは檀家から金殻をもらうもので、神社仏閣から檀家へ金が出ない。出れば「寺から檀家へ」という俗諺のとおり、珍事になる。江戸時代の朝廷はそういう神社仏閣の位置に似ている。
だからおそらくこの御下賜金古両は、幕府の京都所司代あたりの工作によって、内実は幕府の金、表むきは朝廷から、というごく政治的なものであろう。
朝廷のおほめがあった。ということになれば、池田屋での志士斬殺は、天下晴れての勤王行為になるのである。
勤王派の世論をおさえるために、幕府の智悪者がやったものであろう。
が、はたして、池田屋ノ変は徳川幕府という、すでに時代を担当する能力を欠いた政権の寿命を長びかせることに薬効があったかどうか。
むしろ、毒だったといっていい。
暴は、ついには暴しか呼ばない.
池田屋の変報が、瀬戸内海の舟便によって長州にもたらされたのは、数日後であった。
長州藩は、激怒した。
もはや自重論は影をひそめ、来島又兵衛流の武力陳情論が、勢いをしめ、いそぎ京にむかって軍勢を進発させることになった。
幕末争乱の引金がひかれた。
ひいたのは、新選組であるといっていい。 |
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