司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          竜馬がゆく4

■竜馬の脱藩、将軍も名目と断じる

<本文から>
  竜馬は脱藩した。
というより自動的に脱藩の身になった、というべきか。藩の帰国命令に従わなかったからである。
 竜馬だけではない。かれの神戸塾の塾生のうち、土佐藩士にはことごとく召喚命令が出ていたのだが、みな拒否した。
「藩などは考えるな」
という、武市とはまるでちがった竜馬の政治感覚に従ったわけである。そのためかれらは全員脱藩の身となった。
 つまり、亡命客である。当然、国事犯だから藩から、偵吏、輔吏がさしむけられる。
 国もとでは容堂が、
「竜馬という男にわしは謁見をゆるしたことはないが、あの男は以前にも脱藩したことがある。その脱藩の罪を、勝海舟や松平春獄のとりなしでわしはゆるしてやった。それを恩にも思わず、またまた主命にさからい、脱藩しおったか」
 と、激怒した。
 大殿様の怒りが神戸塾の竜馬に伝わってきたが、竜馬はせせらわらった。
 「小僧になにがわかるか」
 と、竜馬はほざいた。武市にとっては「譜代重恩の主君」というおごそかな存在の容堂も、竜馬のロにかかっては、小僧である。
 もっとも、年齢ではない。としは、容堂のほうがはるかに上で、竜馬こそ小僧である。
 小監察がきた夜、竜馬はひそかに手帖に手きびしい文字を書いた。賢君を擬装した稀代の暗君容堂へのはげしい反感がかかせたものであろう。
 「世に生きものというものは、人間も犬も虫もみなおなじ衆生で、上下などはない」
(原文は文語)
 竜馬も、忠義だけを教えられて育った封建時代の武士である。そういう感情を押しころしてこんな激越な文字をつづるというのは、国もとの勤王党大獄が、よほどこの男に衝撃をあたえたのであろう。
 さらに竜馬は、書きつづける。
 「本朝(日本)の国風、天子を除くほかは、将軍といい、大名といい、家老というも、みなその時代その時代の名目にすぎぬ。物の数ともなすなかれ」
 さらに竜馬は書いた。
 「俸禄などというのは鳥に与える封のようなものだ。天道(自然)は、人を作った。しかも食いものも作ってくれた。鳥のように鳥籠にかわれて俸禄という名の封をあたえられるだけが人間ではない。米のめしなどは、どこへ行ってもついてまわる。されば、俸禄などれが心に叶わねば破れたる草鞋を捨つるがごとくせよ」
 脱藩なにものぞ、という気嗅が、乙女姉さんに教えられたその奇妙な書のなかにおどっている。

■新撰組との遭遇、竜馬を斬れなかった

<本文から>
「土方さん」
と、横にいた沖田総司が竜馬をみながら小さな声でいったものである。
「あの男は、斬れませんよ」
「なぜだ」
沖田は、天才といわれた若者である。
「なんだか、うまくいえないが斬りにくい男ですよ、剣技やない、剣技以外のことだけれど」
「ではおれが斬ってみせようか」
という稚気は土方にはない。慎重な上に、砥ぎあげた刃のようなするどい智慧のある男なのである。
 竜馬は、新選租巡察隊の先頭と、あと五、六間とまできて、ひょいと首を左へねじむけた。
 そこに、子猫がいる。
 まだ生後三月ぐらいらしい。軒下の日だまりに背をまるめて、ねむっているのである。
 竜馬は、隊の前をゆうゆう横切ってその子猫を抱きあげたのである。
 隊列の前を横切る者は斬ってもいいというのが、当時の常法である。
 一瞬、新選組の面々に怒気が走ったが、当の大男の浪人は、顔の前まで子猫をだきあげ、
 「ちゅっ、ちゅっ、ちゅっ」
とねずみ鳴きして猶をからかいながら、なんと隊の中央を横切りはじめた。
 みな、気を呑まれた。
 ぼう然としているまに、竜馬は子猫を頬ずりしながら、悠々通りぬけてしまった。
  そのまま竜馬は西へ。
  新選組は、東へ。
 「ね、そうでしょう」
 と、まだ少年のにおいをのこした沖田総司は、土方歳三にいった。

■浪人の北海道屯田兵構想

<本文から>
竜馬は清河八郎、真木和泉、武市半平太らの遺産である勤王浪士たちの失業対策に頭をなやまさざるをえない立場になった。(まず、かれらの生命を新選組の自刃から救うには、京を立ち去らせなければならぬ)
 国許へ帰ることを勧めるか。
 それは不可能である。
 竜馬自身が脱藩浪人だからよくわかっている。脱藩者は、国へ帰れば罪人として捕縛されるのである。
 帰れない。
 その夜、竜馬は菊屋の離れ座敷の夜具の中にもぐりこんでから、
 「そうだ」
 と、はね起きた。
 (北海道を開墾さぜよう)
 屯田兵にするのである。
 軍事組織にし、小銃、大砲なども渡し、いざ北辺の敵(ロシア)が侵略してきたときの防衛軍として使うのだ。
 さらにまた、討幕の機が熟したときは、かれらを北方から呼びよせて封幕軍につかうこともできる。
(できれば北海道を占領して勤王国家として一時的に独立させるのもいい)

■勝は幕府を見限っていた

<本文から>
 勝は、この文久三年の末のころには、もはや徳川政権もしまいだ、と見通すようになっている。江戸、京都という複雑な二重政権では、日本が国際社会に活躍することもむずかしいし、京都の攘夷政権をタテに江戸の開国政権をゆさぶろうとしている薩摩、長州や、一部の公卿、浪人志士をおさえることはむずかしいと思うようになっていた。
 勝が、
 −もう幕府もだめだ。
と思ったのは、一昨々年の万延元年三月三日の桜田門外の事変かららしい。
 勝という男が、この時代の稀有の頭脳であったことほ、幕臣でありながら、幕府すなわち日本ではないということを知っていたことである。幕府の歴史的使命がおわったことを冷静にさとり、いかに混乱なく次の政権に渡すか、ということをひそかに考えはじめていた。
 勝が心のなかでそういう気持をいよいよ強くしたのは、将軍家茂に接する機会が多かったからにちがいない。
 勝からみれば家茂は悲劇の人といえた。病弱と年少の身で、幕府はじまって以来の多難な政局のなかに漂わねばならなかったのである。
 漂う、といつたが、幕府には朝廷、諸藩をおさえる強権がなくなり、対外的にも諸外国が、江戸政権が日本の唯一絶対の公認政権でないということを知りはじめたために、家茂の苦労のわりには、その効がすくなかったからだ。

■勝大学のただ一人の学生

<本文から>
 勝は、いった。要するに、竜馬を小楠のもとに連れて行ってやろうということだけが、勝の目的であった。
 勝は、竜馬を育てている。いわば、
 勝大学
といってよかった。学長は勝、学生は竜馬ただ一人である。
教授陣は、勝の知友たちであった。
越前福井藩の老公松平春嶽
幕臣大久保一翁
それに、この熊本藩の横井小楠。
移動大学といっていい。
竜馬自身が勝の紹介状をもって、福井へ行ったり、江戸へ行ったり、大坂で会ったりする「大学」である。
勝の紹介状はいつも、
「この者、真に大丈夫なれば」
という文句になっている。「男いっぴきである。将来、英傑になるであろう。いろいつ教えてやってもらいたい」
というような意味が、言外にある。

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