司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          竜馬がゆく2

■武市との倒幕には交わらない

<本文から>
  「いまもきたない、が、ここではじめて、桜田門の十八烈士(水戸人十七名、薩摩人一名)の書いた長文の斬奸状を見、総身の血のたぎるのをおぼえた。自然、話は、かれらの大志をむだにしてはならぬ、ということになり、論ずるうちに次第に熟してきて、 ついに幕府を倒そうということになった。どうじゃ」
「よかろう」
竜馬は、鼻毛をむしっている。
 「竜馬、鼻毛は不謹慎ではないか」
 「そうかな」
 竜馬は手をひっこめた。
 「倒幕は、薩長内三藩をもってやる。しかしながら、三藩は西国を代表する雄藩なれども俗論がそれぞれの諦を支配している」
 「ふむ」
 そのとおりだ。
 どの藩の重役も、お家大中、幕府おそるべし、という三百年の伝統感情がかさぶたのようにはってしまって、なまやさしいことでは藩論をくつがえすことができない。
 麻布屋敷の空家にわずか数人の三藩の有志があつまったところで、かれらが政権をとっているわけではないし、所詮は書生論になろう。
「とにかく」
 武市のはおは紅潮した。
「倒幕実施は明年。時を期し、歩武をそろえ、三藩の兵大挙して京都に集結し、天皇を奉赦していっせいに勤王の義軍をあげる。そのためには、それぞれ自藩に帰って重役を説き、藩主を説き、藩論を勤王倒幕へまとめる」
 勤王倒幕。
 そういう言葉が、史上、実際運動の政治用語として用いられたのは、この麻布の空家での密会のときが最初であった。それまでは尊王撰夷という言葉はあったが、
「倒幕」
 という衝撃的な言葉がつかわれたのは、おそらくこのときが最初であろう。
 (しかし、果して可能か)
 夢物語に似ている。   、
 薩長二藩の政情もさることながら、土佐藩にいたっては、藩主、参政、上士、ことごとく頑固な親幕派である。かれらの考えをくつがえすのは、武申の腕力で五台山をひっくりかえすよりもむずかしい。
 「ゆえに、衆の力でやろうと思う」
 「衆のカ?」
 「土佐七郡の山野に土着している郷土を諾して土佐勤王党をつくるのだ。竜馬、お前がその首領になってくれるかい」
 「それは半平太がなれ」
 深い諾はない。衆の力をたのんで一揆のように騒ぐのは、竜馬は、ちょっと自分の好みにあわないような気がしたのである。竜馬には竜馬にふさわしい道があろうと思った。 

■史上名を残した志士というのは、足で取材し、足で伝播した

<本文から>
しかし、この当時の武士は、いまのわれわれの市民諸氏ではない。武士である。武士が、
 「やる」
というのは、命を捨てる、ということだ。腹を切れといえば松木はこの場で立腹でも切るだろう。この武士どもの異常なエネルギーが、明治維新という大史劇を展開させたのである。他国の革命とは、その点、ちがっている。
 さらに筆者は補足しなければならない。このときの竜馬の役割りである。
 当時新聞もラジオもなく、世人は時勢に想像以上に暗かったといったが、竜馬のこのときの役割りはいわば新聞記者のようなものである。武市半平太が江戸で取材してきたはなしを、丸亀で伝えているのだ。さらにこれから長州萩城下に行って情勢を取材し、それを高知にもって帰って同志に伝えるのだ。
 この当時の高名な勤王の志士というのは、すべてこれである。吉田松除も、清河八郎も西郷隆盛も桂小五郎も、そして坂本竜馬も、しきりと諸国を歩き、土地の見どころのある人士と会い、中央地方の情勢を伝播し、全国の同志を一つの気分と昂奮に盛りあげていっている。要するに、史上名を残した志士というのは、足で取材し、足で伝播した旅行家ばかりということになる。
 「いまなにをしろ、ということではない。このさき事があれば応じてほしいということだけです」
 「わかりました。讃州丸亀にいつでも捨てる命が一つころがっているとお思いください」

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