司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          歴史と風土

■日本はアジアではない

<本文から>
 資本主義というのは官吏が全部お金を吸いあげていく制度だと息づているのが東アジアです。蒋介石氏というのは偉大な人物だけれど、彼でさえ天下をとったら、もとの中国を引きつがざるをえない。だからすぐ宋美齢一家がいろんなことをしたり、親類一統にいたるまで全部権力につくわけです。あれは十等親くらいにいたるまで全部親類ですから。もし拒否したら礼、つまり中国的秩序をなくすわけで、全部わいわいぶらさがってくる。
 これは李承晩やベトナムでも同じことです。そういうことで落さんも結局は台湾に落魄せざるをえなかった。あまりにもひどくなったので民心が離れたのです。さいわいにして毛沢東は非常に違う原理でやってきたので中国はもうそういうことはなくなるだろうと思います。なくなるとしたら一大奇跡ですけれど。
 ともかくも日本はそういうことかちまぬがれていたわけです。だから明治維新を東アジア的な場所から見ると非常にふしぎな事件ですけれど、同時に日本が明治維新をやったことは、十九世紀の世界の列強以外の国々から見れば非常にうらやましいらしい。
 日本人というのは東南アジアに行ってもそんなに評判はよくないかも知れない。ただ一つ、日本人に対してうらやましいと思うのは維新をやったことだと、東南アジアあたりの知識人は思っているようです。
 明治維新というのは志士がえらかったのかといえば、そんな馬鹿な話はないわけで、ずうっとあった歴史の原理とか状態とか、一種の日本人的な社会の摂理とか、或いは機能とかが、作動していって明治維新が成立し、その後もうまくいくわけで、それは東アジアとは別の国ですね。
 だから、福沢諭吉が『脱亜論』を書いたり、脱亜論的なことは今の知識人には「アジアの中にいるくせに脱亜論などといいやがって」と評判が悪いですけれど、これは福沢も間違っているし、それを批難する側もまちがっている。日本は始めから脱亜なんです。
 むろん「俺はアジア人じゃないんだ、俺は準白人なんだ」といっていばるというのは絶対おかしいですが、しかし、アジアではない、アジア的な原理で動いてきたことはないんだということは、はっきりしておかなければならない大事な、そしてあたりまえの平凡なことだと思います。 

■西郷びいき

<本文から>
では、なぜ西郷びいきが存在するのか。それは自分個人の、たとえばあを大学教授なら大学教授がいろんなことで、人にいったところであまり通用しないようなプライベートな怨念もこめて、現実の日本というものに不満を持っている。そういう場合、さかのぼっていくと西郷につながっていくんですね。西郷がもしあの時に成功してくれていれば、そしで大久保のごとき者がいなければ日本はもっとよくなったろうと。そうすると果たせなかった夢というのは日本の歴史の中にあるわけです。それが西郷やその範疇にいるものに仮託されていくのですね。この願望は日本人がこの日本列島に続く限り、ぼくはあり続けると思うんです。ですから西郷という存在もまた、反政府主義の側の巨大な原点であるということが出来るでしょう。

■河井継之助の優れた世界感覚

<本文から>
継之助の世界感覚が非常に鋭く、かつ乾いたものだった一つの例は、万一の場台には藩主父子をフランスに亡命させる手配までしていたことでしょう。亡命という考え方を日本人が持つにいたるのは、左翼運動ができ上がったころで、それ以前には皆無といっていいくらいです。明治初年に反政府反乱を起こした江藤新平らにしても、僕等からみて何故亡命しないのだろうと不思議に思えるくらいでしょう。そのくらい我々日本人というのは閉鎖社会の中にいたわけで、河井継之助が非常にサラサラと亡命を考えたということは、当時としては驚異的な世界性の持ち主だと思うんです。
 まあ、それやこれやを考えてみまして、継之助という人が体の中に入ってくるような感じになったんです。彼の写真も何枚かみましたが、それぞれ全部違う顔をしているんです。こういう人物というのはちょっと端猊すべからぎるところがあるでしょう。撮られるたびに顔がかわっているというのは相当に複雑な人間であることはたしかですね。北越戦争で大奮戦して、もう少しで東京の新政府の国際信義を危うくするというところまで善戦したわけですが、戦い利あらず、傷ついて会津へ退却する途中で死ぬわけですね。その時、若党の松蔵に棺桶をつくらせ、自分の体を焼く薪を刈らせるでしょう。戦慄しましたね。これだけの人物というのはちょっといないんじゃないか、こういう精神というのはどうなっているんだろうと、たいへんな感銘をうけて、そこから『峠』の世界にのめりこんでしまったんです。
 ですから『峠』は私の作品の中でも一番愛着の強い作品の一つなんです。先日、パリで傍らを案内してくれたソルポンヌの留学生がたまたま長岡の出身でしてね、母方が御殿医の家なんです。「じやあ、小山の艮運さんの相役の林さんか」と聞くと、その通りだというわけです。そこでまた、『峠』の話がパリのカフェのテラスでひとしきりでたんですけれども、ふっと、継之助はこのフランスに牧野父子を亡命させようとしたんだな、と感じましてね。改めて継之助の世界性を思い、面白い人物がいたものだな、と思いましたね。

■風土が人物を作る

<本文から>
戦国時代に、たとえば上杉謙信の越後、長曾我部元親の四国といった非常に強力なブロックが心くつか成立しますね。おもしろいことにその土地では今でも地方新聞がたいへん盛んなんですよ。
 越後には「新潟日報」がある。伊達政宗のエリアには「河北新報」、長曾我部の土佐には「高知新聞」があって、島津のそこには「南日本新聞」がある。もちろん信長、秀吉、家康を出した尾張・三河地方には「中部日本新聞」があるといった具合なんです。
 これらの地方新聞は経営も安定していて、発行部数も多く、非常に勢いがいい。「高知新聞」などは四国を席捲して「四国新聞」になりたいという意欲をずっと持ち続けている。長曾我部のエネルギーが風土の中にこもっているようなところがあるのです。ほかの新聞の場合も同じだと思います。
 ところが戦国時代に活躍しなかった県では新聞の成立がなかなかむつかしいのですねたとえば三重県や奈良県、千葉県では県紙がふるわない。もっともこれらの県は東京、大阪の近郊県であり、大新聞の勢力範囲にあるわけですから、県紙が育たないという見方もできるのですが、大阪からわずか電車で四十分という京都には、「京都新聞」というとても有力な新聞があって、大阪の新聞をはばむ力をもっている。
 いったいこれはどういうことなのかよくわかりませんが、逆もまたいえるわけで、越後地方という広大なブロックは、上杉謙信のような天才が出なくてもそれに似たものを押し出すエネルギーがあったんじゃないかと思われるわけです。上杉謙信はむしろそういうエネルギーのもとで成立しているのであって、もし謙信が三重県なり奈良県に生まれていたら、なんでもないお医者さんであり、お坊さんであったかも知れない。どうもそこによく解明できないなにかがあるような感じがするんですよ。「人間の風土」といってしまえばそうなんですけれども、取材でいろんな地方を歩きますが、いったいこれはなになのかよくわかりませ。

■明治期には汚職はなかった

<本文から>
 明治はおもしろい時代であったという感じがあります。明治期には汚職はなかったといっていいでしょう、初期に井上響の大きな汚職がドカドカあっただけで。その井上はもうフクロだたきにあって傷だらけになり、江藤新平の追及の前に、かれは追いつめられであやうく政治生命を失うところだったですね。今日みられる汚職、たとえば学校の校長さんが裏口入学をさせてやったり、役人が金品をもらって便宜をはかってやったりするようなことは、明治の教育者、官吏にはないですね。そうでなければ資本主義は育ちませんね。

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