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<本文から>
資本主義というのは官吏が全部お金を吸いあげていく制度だと息づているのが東アジアです。蒋介石氏というのは偉大な人物だけれど、彼でさえ天下をとったら、もとの中国を引きつがざるをえない。だからすぐ宋美齢一家がいろんなことをしたり、親類一統にいたるまで全部権力につくわけです。あれは十等親くらいにいたるまで全部親類ですから。もし拒否したら礼、つまり中国的秩序をなくすわけで、全部わいわいぶらさがってくる。
これは李承晩やベトナムでも同じことです。そういうことで落さんも結局は台湾に落魄せざるをえなかった。あまりにもひどくなったので民心が離れたのです。さいわいにして毛沢東は非常に違う原理でやってきたので中国はもうそういうことはなくなるだろうと思います。なくなるとしたら一大奇跡ですけれど。
ともかくも日本はそういうことかちまぬがれていたわけです。だから明治維新を東アジア的な場所から見ると非常にふしぎな事件ですけれど、同時に日本が明治維新をやったことは、十九世紀の世界の列強以外の国々から見れば非常にうらやましいらしい。
日本人というのは東南アジアに行ってもそんなに評判はよくないかも知れない。ただ一つ、日本人に対してうらやましいと思うのは維新をやったことだと、東南アジアあたりの知識人は思っているようです。
明治維新というのは志士がえらかったのかといえば、そんな馬鹿な話はないわけで、ずうっとあった歴史の原理とか状態とか、一種の日本人的な社会の摂理とか、或いは機能とかが、作動していって明治維新が成立し、その後もうまくいくわけで、それは東アジアとは別の国ですね。
だから、福沢諭吉が『脱亜論』を書いたり、脱亜論的なことは今の知識人には「アジアの中にいるくせに脱亜論などといいやがって」と評判が悪いですけれど、これは福沢も間違っているし、それを批難する側もまちがっている。日本は始めから脱亜なんです。
むろん「俺はアジア人じゃないんだ、俺は準白人なんだ」といっていばるというのは絶対おかしいですが、しかし、アジアではない、アジア的な原理で動いてきたことはないんだということは、はっきりしておかなければならない大事な、そしてあたりまえの平凡なことだと思います。 |
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