司馬遼太郎著書
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          歴史の邂逅(4)

■こっけいなほどに楽天的な連中が前をのみ見つめながらあるく物語

<本文から> 明治は、極端な官僚国家時代である。われわれとすれば二度と経たくない制度だが、その当時の新国民は、それをそれほど厭うていたかどうか、心象のなかに立ち入ればきわめてうたがわしい。社会のどういう階層のどういう家の子でも、ある一定の資格をとるために必要な記憶力と根気さえあれば、博士にも官吏にも軍人にも教師にもなりえた。そういう資格の取得者は常時少数であるにしても、他の大多数は自分もしくは自分の子がその気にさえなればいつでもなりうるという点で、権利を保留している豊かさがあった。こういう「国家」というひらけた機関のありがたさを、よほどの思想家、知識人もうたがいはしなかった。
 しかも一定の資格を取得すれば、国家生長の初段階にあっては重要な部分をまかされる。大げさにいえば神話の神々のような力をもたされて国家のある部分をつくりひろげてゆくことができる。素姓さだかでない庶民のあがりが、である。しかも、国家は小さい。
 政府も小世帯であり、ここに登場する陸海軍もうそのように小さい。その町工場のように小さい国家のなかで、部分々々の義務と権能をもたされたスタッフたちは世帯が小さいがために思うぞんぶんにはたらき、そのチームをつよくするというただひとつの目的にむかってすすみ、その目的をうたがうことすら知らなかった。この時代のあかるさは、こういう楽天主義からきているのであろう。
 このながい物語は、その日本史上頬のない幸福な楽天家たちの物語である。やがてかれらは日露戦争というとほうもない大仕事に無我夢中でくびをつっこんでゆく。最終的には、このつまり百姓国家がもったこっけいなほどに楽天的な連中が、ヨーロッパにおけるもっともふるい大国の一つと対決し、どのようにふるまったかということを書こうとおもっている。楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながらあるく。のぼってゆく坂の上の青い天にもし一乗の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。
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■日本政府がやった対露戦の戦略計画は綱渡りであった

<本文から>
 日本政府がやった対露戦の戦略計画は、ちょうど綱渡りをするような、つまりこの計画という一本のロープを踏みはずしては勝つ方法がないというものであった。
 ロシアという大男の初動動作の鈍重さを利用して、立ちあがりとともに二つ三つなぐりつけて勝利のかたちだけを見せ、大男が本格的な反応を示しはじめる前にアメリカというレフェリーにたのみ、あいだへ割って入ってもらって止戦にもちこむというものであった。緒戦ですばやく手を出してなぐりつければ国際的印象が日本の勝利のようにみえ、戦費調達のための外債もうまくゆく。アメリカも調停する気になる。この点をひとつでも踏みはずせば、日本は敗亡するというきわどさである。
 このきわどさの上に立って、その大テーマにむかって陸海軍の戦略も、外交政略もじつに有機的に集約した。そういう計画性の高さと計画の実行と運営の堅実さにおいては、古今東西のどの戦争の例をみても、日露戦争の日本ほどうまくやった国はないし、むしろ比較を絶してすぐれていたのではないかとおもわれる。
 しかし、勝利というのは絶対のものではない。敗者が必要である。ロシア帝国における敗者の条件は、これはまた敗者になるべくしてなったとさえいえる。極端にいえば、四つに組んでわれとわが身で膝をくずして土をつけたようなところがある。
 たとえばクロバトキンが考えていた大戦略は、遼陽での最初の大会戦で勝つことではなかった。遼陽でも退く。奉天でも退く。ロシア軍の伝統的戦術である退却戦術であり、最後にハルビンで大攻勢に転じ、一挙に勝つというもので、それは要するに遼陽、沙河、奉天で時をかせぐうちに続々とシベリア鉄道で送られてくる兵力を北満に充満させ、その大兵力をもって日本軍を撃つということであった。もしこの大戦略が実施されておれば、当時奉天の時点ではもはや兵力がいちじるしく衰弱していた日本の満洲軍は、ハルビン大会戦においておそらく全滅にちかい敗北をしたのではないかとおもわれる。この大敗北の予想と予感は、クロバトキンよりもむしろ日本の清洲軍の総参謀長の児玉源太郎自身の脳裏を最初から占めつづけていたものであり、敗北はまぎれもなかったであろう。むろん、奉天大会戦のあとに日本海海戦があり、ロシアのパルチック艦隊は海底に消えた。しかし海軍が消滅したとはいえ、ロシア帝国にその決意さえあれば講和をはねつけて満洲の野で日本陸軍をつぶすこともできたのである。
 しかし、ロシアはそれをやらなかった。ここにロシアの戦争遂行についての基本的な弱さがあり、満洲における諸会戦のあとを見ても、その敗因は日本軍の強さというよりもロシア軍の指揮系統の混乱とか高級指揮官同士の相剋とか、そのようなことがむしろ敗北をみずからまねくようなことになっている。ロシア皇帝をふくめた本国と清洲における戦争指導層自身が、日本軍よりもまずみずからに放けたところがきわめて大きい。むろん、ロシア社会に革命が進行していたということも敗因の一つにかぞえられるが、たとえこの帝国がそういう病息をかかえていたとしても、あれだけの豊富な兵力と器材をうまく運営しさえすれば勝つことは不可能ではなかったのである。兵員に革命思想が浸透していて厭戦気分になっていたということを過大にみる人があるが、それは結果から見すぎる見方であろう。
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■広瀬とアリアズナとの恋

<本文から>
 しかしながら、広瀬は、多量の感情を湛えた性格をもっていた。その上、快活で率直であり、さらには他人がみても小気味いいほどの自己規律に富んでいたために、かれが招待されたどのサロンや家庭でも大いに敬愛された。このことは、ヨーロッパでも容易に実在しない騎士の典型というにちかい風韻が、音楽的なばかりにかれの風姿から響いていたことによるかと思えるが、ともかくも、ロシア貴族や知識階級の家庭の子女たちから好意以上の感情をもたれた。
 広瀬に対して好意をもち、かつそれを持続させたひとのなかに、海軍省水路部長子爵ウラジーミル・コヴアレフスキー少将がいた。この人物はとくに広瀬を自邸にしばしば招待し、一家をあげてかれのファンになった。最初に訪問したときは、同家の次女アリアズナは十八歳であった。
 やがて彼女は広瀬につよい好意を寄せるようになった。
 この間のことは、同じ時期にぺテルブルグに留学していた大尉加藤寛治が知りつくしていて、のち、大正十三年(一九二四)、加藤が第二艦隊司令長官として旗艦「金剛」に座乗し、大阪湾から伊勢湾にむかって航海中、同乗していた大阪朝日新聞の記者大江素天に、「もう話してもいいころだろう」といって、克明に語った。その内容が、同紙四月三十日付から五日間にわたって連載された。
 旅順口の閉塞行の当時、加藤は広瀬とおなじく戦艦「朝日」に乗組んでおり、広瀬は水雷長で、加藤は砲術長だった。広瀬は閉塞のために出発するとき、加藤に一通の手紙を託した。アリアズサにあてての最後の手紙だった。加藤のいうところでは、この手紙は、戦後、ペテルブルグ着き、二、三の新聞に掲載されたという。
 ペテルブルグ時代、広瀬とアリアズナとのあいだには書簡の往来が繁かった。その内容は、ほとんど文学、音楽、演劇に関するものであったが、両者をむすびつけていたものは恋である以外のなにものでもなかった。
 恋愛というものを古典的に定義すれば、両性がたがいのなかにもっとも理想的な異性を見出し、性交という形而下的行為を介在させることなく−たとえなにかのはずみでその行為があったとしても−その次元に双方の格調をひきさげることなく欲情をそれなりの芸術的諸律にまで高めつづける双方の精神の作用を言う、とでもいうはかない。しかしこんにちではすでにこのことは存在しがたく、恋愛小説そのものが成立しにくい分野にまでなっている。
 この意味からいって、アリアズナと広瀬とのあいだは、その背景の国家と文化を異にし、しかもたがいに仮想の敵国といってよく、さらにはひとりは海軍の高級軍人の娘であり、他はやがては娘の国にむかって開戦せざるをえない国の現役軍人であるということを思うと、遂げがたい恋という意味で、もっとも劇的な条件をもっている。
 本来、文学は右の定義のような恋を主題にするためのものであった。島田教授のなみはずれた文学好きも、古今東西の文学作品のなかから、人間が自分を高めえた場合、たれでも生むことができる右のような真珠を、貝穀を割ってはさがしだすことにあったのではないかと私はおもっている。
 島田教授は、広瀬についての第一級史料を渉猟した。それらを発掘した知的体力と情熱には敬服をわすれて驚倒するおもいがする。広瀬の書簡は二千通に達するであろうと教授は推測するが、幸い、教授はそのうちの四百通近くを閲覧することができ、さらにべテルブルグで広瀬が交際したひとびとについても『(一七五三〜一入九六年度)ロシア海軍兵学校卒業生名簿』から割りだし、広瀬の恋の競争者であったロシア海軍の若い士官の名もさぐりあてた。また、アリアズナの長兄である海軍少尉の名も次兄の兵学校生徒の名もわりだした。
  広瀬もアリアズナもプーシュキンがすきであった。広瀬はプーシュキンの「夜」を漢詩に訳してアリアズナに見せ、さらにそれを日本語訳してみせたりした。この作業は、広瀬の手帳のメモを参考にしてゆくことによって、教授は比較文学的に両者の対話やふんいきまで再構成できるにいたった。
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■ある意味で板垣退助は巨大な失敗者としての後半生を持った

<本文から>
 板垣退助についての伝記を、平尾道雄氏が高知新聞に連載しておられるということを聞いたとき、山里に定期バスの路線がはじめて開設されたような明るい気持と安堵感をもった。
 板垣は、ある意味では巨大な失敗者としての後半生を持ったがために、死後に理解者をもつことがすくなく、おどろくべきことに、伝記を一冊も持つことがなかったのである。
 幕末、土佐藩の軽輩階級や富農階級のあいだに、当時の他の地域と異り、いかにも革命気分らしい気分が勃然としておこってきたとき、板垣は上土階級に属しながら、その気分に感応した数人のうちのひとりである。革命的気分のもちぬしとして、出発した。が、革命家になるよりもさきに、そのすぐれた軍事能力のために土佐藩軍の統率者になり、次いで東征軍の一翼を担当する司令官になり、なによりも武功のほうで、世間を印象づけてしまった。幕末、日本の各地で雲のようにおもしろい人物が湧き出てきたが、しかし戊辰戦ですぐれた野戟軍統率者たりえた人物は板垣しかおらず、このことは、官軍主力をひきいていた西郷隆盛でさえ、積極的にみとめていたほどで叔のる。板垣のひきいる軍隊は軍律が整然としていて、野戦軍にありがちな不祥事はきわめてすくなかったといわれる。
  ところが、この功が、かれの後半生を変形させた。
 かれはこの功によって、明治初期政権において、土佐系を代表する人物にされてしまい、薩摩の西郷、大久保、長州の木戸などとならんで、参議にさせられた。板垣は政治家になるには醇朴すぎたうえに、その前半生において苛烈な経験をすこしもしておらず、そのために要するに書生である部分がなお多量に残っていたし、自分の理想(理想への気分は多量にあった)を実際の世界に移すための政略能力にも乏しく、さらにいえば、理想を理論化する時間や条件をもたぬうちに、その地位についた。
 やがて下野し、日本における自由民権運動の最初の提唱者としての後半生に入る。このことは、新規な潮流にとびついたというよりも、もともと土佐にあった社会意識に、かれ自身が気づき、自分の後半生を託する大仕事にした、というほうが正確であろうと思える。
 この当時の自由民権運動は、スペンサーやミルなどの著作によって明確化された英国流のものと、土佐人中江兆民が高唱したルソーの激越なそれとの両派があったとみるべきだが、板垣は前者を代表しっつも、後者をも抱き入れてこれを庇護した。そこに特徴がある。
 板垣がもし、社会革命を理想とする派に属して一すじに終始していたなら後世に多くの伝記を持つことができたにちがいないが、しかしかれはその道をとらず、総合者の立場をとり、時の権力に対しても多分に調整的態度(権力の側からも、板垣をそのように利用した)をとりつづけたために、物事の純粋さを正義とする尺度からみれば変節者とさえ見られる存在になった。
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■時流に対して、なりふり構わずなびく軽薄さのエネルギーが日本の歴史をつくった

<本文から>
 日本人がもつ、どうにもならぬ特性のひとつは時流に対する過敏さということであるらしい。過敏なだけではない。それが時流だと感ずるや、なにが正義か、なにが美かなどの思考はすべて停止し、ひとのゆく方角にむかってなりふりかまわずに駆けだしてしまう。この軽薄な、というより軽薄へのすさまじいエネルギーが日本の歴史をつくり、こんにちをうごかしていると考えられなくはない。
 源平争乱のときもそうである。関東をおさえた源氏が、関西においていくつかの合戦に勝利を得ると、もうそれだけできのうまで平家方であった連中があらそって源氏にくらがえした。このおかげで源氏の統一への成功はおとぎ話のように早かった。
 関ケ原のばあいもそうである。開戦前から豊臣家の諸将の多くは、秀吉の没後は家康であるらしいとし、あらそって家康の歓を得ようとした。
 このため、家康はたった一日の戦いで天下を得ている。家康は関ケ原盆地で勝利を得るや、翌日、西への進発を命じた。かれとしては石田三成の居城の佐和山をおとさねばならないし、京に入って天子を擁さねばならないし、大坂へくだって勝利者として入城せねばならない。しかし、勝利のあとのこの進撃は物見遊山のように楽であった。関ケ原盆地を出るとき、どの大名の軍勢も開戦前よりふくらんでいる。奇妙におもった家康の側近がしらべてみると、さっきまで敵だった連中が、勝利側の友人知己縁者をたよってその軍勢にまぎれこんでいたのであった。側近がそれを家康に報告すると、家康は、
 「それでいいのだ。かまわずに置け」
といった。この国で天下をとるはどの人間は、そういう機微を知りぬいていなければならないようである。
 関ケ原のおこる前に、家康のために勝利の条件をつくりだした功績者のひとりは藤堂高虎であった。かれは近江の出身で、一介の牢人の境涯から身をおこし、秀吉によって大名にとりたてられた。いわば子飼いであるが、秀吉に成人した子がなく、かつ秀吉の定命も先が知れていると知ると、秀吉がまだ元気であったころからひそかに家康に接近し、家康に、−自分を家来と思うてくだされ。とまで言い、豊臣家の諸将に対しては 「つぎの世はどうしても家康である」と説き、その動静をこまかく家康に諜報した。このため藤堂家は伊勢の津三十二万石の大大名になり徳川三百年のあいだ、「外様ではあるが准譜代」という特別待遇をうけた。
 ところで幕末、その藤堂藩は鳥羽・伏見の戦いでは当然ながら徳川軍編制のうちもっとも重要な位置にいた。天王山に陣地を与えられ、ここに砲台を築いていたのだが、徳川方の敗色が決定的になると、砲門の向きを変え、敗走してくる徳川方にありったけの砲弾をあびせた。時流に敏感な、軽薄へのエネルギーの代表のような例である。
 井伊大老で有名な彦根の井伊家は、徳川家のなかでは譜代筆頭であり、酒井家とならんで家康いらい大番頭の家であった。この条件のなかで幕末、徳川家サンディカリストともいうべき井伊直弼という政治家の特異行動を生んだ。その直弼が桜田門外で殺され、しかも天下で同情する者がほとんどなかった。やがて鳥羽・伏見の戦いがおころうとする前、薩長の工作者が彦根へ潜入し、味方につくようにすすめた。時流は京である、江戸ではない、ということであろう。このとき藩主は窮し、一藩の世論に問うた。旧幕時代にはめずらしいことであった。士分の者は藩校弘道館にあつまり、足軽以下は城下の宗安寺にあつまった。あわせて藩士は一万三千余人であり、このうち「徳川氏のために」と佐幕論を主張した暑がわずか四人であったと彦根市史に書かれている。井伊直弼に霊があれば墓が動いたのではないかと思われるようなはなしである。
 日本人のおもしろさはここであろう。このために日本歴史はいかなる変革期にも片づきが早かった。敵方のひとりひとりをローラーにかけすりつぶしてゆかねばならぬような手間ひまはまずまず要らなかった。この特性のおかげで日本人は早くから統一社会を構成することができたし、社会がこわれればすぐ建てなおすことができ、文化や文明をつくるエネルギーも組みあげた社会から出してきた。こうおもえば軽薄も偉大な美質ということになる。日本人が明治以後文明世界のなかに入って一ツ社会を組みあげてきた能力の原質の一つはこのあたりにあるのであろう。
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